2019年6月26日水曜日

幕末期、豊後で国防用大砲を製作した賀来惟熊

 九州の古代史では、筑紫の国(福岡県)と豊の国(大分県)が、北部九州を二分していたという。
 
 しかし戦国時代に、大友氏が治めていた豊後はほろびて、豊臣、徳川の時代には、小藩分立の地域となった。

1)大友宗麟:
 末期に島津軍に敗北し、秀吉に援軍を依頼して救済してもらったが、あとを大友吉統に託して死亡した。
2)大友吉統:
 朝鮮遠征の戦で、小西軍救援に失敗し、秀吉の怒りをかって毛利に預けられの身となる。
3)八藩時代:
 文禄2年に、秀吉により次の8藩に分離される。
 中津、佐伯、府内、岡、臼杵、安岐、富来、高田
4)九州の関ヶ原:
 本土の関ヶ原に連動して、九州の「石垣原の合戦」がおこる。
大友吉統は、東軍につく態度から西軍に寝返り、黒田と石垣原で戦って破れ、大友氏は終焉した。
 その後の8藩は、中心の中津の黒田が筑前に移ったあと、天正年間以来小藩分立が極端にすすみ、天領や飛び地をふくめて、
21藩に達した。
 飛び地は、肥後領、延岡領、島原領であった。
 慶長以来幕末まで残ったのは、岡、佐伯、森、日出の4藩のみである。
5)中津藩:
 中心の中津藩は、黒田のあと、細川、小笠原、奥平が10万石前後で続いた。

6)豊後の地政的特長:
  この地域は瀬戸内文化、経済圏の西端にあり、九州への玄関口として栄えてきた。そのため経済や商業にはつよいが、九州の独自性に欠け、近畿権力に無節操なくらい変わり身がはやい。
 熊本人の一徹、頑固にたいして、豊後の赤猫といわれ位、変わり身のはやい日和見主義が多い土地柄である。

以上のような歴史的背景をもとに、幕末、明治維新の時代をむかえる。

小藩分立のこの地域には、明治維新の原動力になるような、名君もなく、中央政界で活躍しうる人材もなく、日和見をつづけていた。


ただ国防のために、民間人でありながら、大砲の製造を試んで成功し、100門以上製作して地元産業製品として各藩に納めて利益をあげた人物がいた。 明治維新の歴史書にはあまり登場しない話である。

賀来惟熊氏:

  今でいえば、公益事業家、砲術家というべきであろうか。
  1796年、宇佐郡佐田村(さだむら)  現在の宇佐市 安心院町 左田で生まれる。
    (※当時は、島原藩の飛び地領であった)


  農業や ろう絞り、酒造を行い 所有する山林の、植林事業などに従事し、植林事業の重要性を説き、井堰(いせき)の復旧、貯水池の築造や宇佐神宮の改築にも尽力を尽くした。

  この人の偉大な所は、江戸時代に 民間で唯一の反射炉を作り 鉄鋳造で大砲を作ってしまった事である。

  日出(ひじ)藩の帆足万里(ほあしばんり)という蘭学先生のもとで西洋学問を学んだ事が、賀来惟熊氏が 偉大な事業を成しとげ、成功された一因であったと思われる。
  思うに、知識を得るだけでなく 常に研究熱心であったに違いない。合わせて財力もあったのだろう。

  帆足先生にすすめられ、1853年(嘉永6年)に、反射炉の建設に着手(歴史上有名な ペリー来航の年)、その2年後の1855年(安政2年)に、島原藩の許可を得て自身の四人の息子や従兄弟に当たる賀来飛などの協力を得て、 左田村の"宮の台"に 鉄鋳造の反射炉を築き、鋳造を始める。そのわずか、3年後には、大砲の鋳造に成功させている。

  初めは、6ポンド砲 4門、 12ポンド砲 2門、 18ポンド砲 2門の合わせて 8門を造るのに 2年を要す。
  最終的には、100門を超す数を造ったとも言われている。

  反射炉は どこに建設されたのだろうか? 残念ながら、現在は 当時の反射炉は跡形も無く 姿を消している。


反射炉の想像図

  佐田神社の どこかに造られていたと思われる・・・・との記述があるのみである。
「唯一の痕跡、反射炉の使用レンガが現存 佐田神社」

  唯一、反射炉を築いていたレンガの一部が 神殿裏の土塀に 積み上げられている。



佐田神社裏の土塀

  レンガ表面を見ると、今でも艶のある状態であり、高熱によって レンガ表面が溶損したような 独特な感じが見受けられ 明らかに普通のレンガ表面と違う。


国防のためにつくった大砲が、幕末の戊辰戦争という内戦に使用される事態をなげいて、賀来は製造を中止し、反射炉などを破壊したといわれている。



 俳優の賀来千香子さんのご先祖になる人物である。
 

従兄の賀来飛霞の子孫の賀来計二さん

賀来家の子孫も、国防のために作った大砲が内戦の武器にされたら、作った意味がないと、嘆いておられる。


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