2021年9月22日水曜日

古墳時代甲冑と北部九州の出土状況と古賀市古墳の比較

古墳時代の鉄製鋲留板甲(短甲)と小札鋲留眉庇付冑東京国立博物館所蔵)。

1)弥生時代から奈良時代にかけて日本で制作、使用されていた甲冑が短甲挂甲である。

2)短甲は、腰から上(胴体・手と頭部)防御するための甲冑。全体が鉄でできており、この時代は鉄が大変貴重な物であったので、短甲は身分の高い人物しか身に着けることができなかったと考えられている。

3)そのあとに登場した挂甲は、短甲よりも丈が長く、部品の数も多くなったため、挂甲制作にはより高度な技術が要求された。

4)短甲が登場した当時、材質は鉄板のみが使用されていたが、時間の経過と共に鉄板を革で繋いだ短甲も登場してきた。

5)しかし、後期に作られた一部を除き、短甲には胴より下の箇所を守る「草摺」(くさずり)等は付いていはかった。

6)挂甲は、古墳時代の中期から奈良時代にかけて登場する。「小札」(こざね)と革を用いて作られた甲冑である。

小札」(こざね)または「札」とは、甲冑を構成している小さな短冊状の板のことである。その形は、正方形、長方形、三角形などがある。

短甲よりも柔軟性を持たせたことで、より動きやすく機動性にも優れていた。挂甲は前で引き合わせて着る形式の甲冑で、イメージ的にはコートを羽織るように着る

7)挂甲は体全体を覆うため、大量の小札に小さな穴をあけ、革で繋ぎ合わせることが必要。そのため、挂甲は一着作るのに大変な手間と時間がかかる。

古墳時代甲冑の形式名称は、奈良・平安時代の文献史料にある語を引用し、板甲に「短甲」、札甲に「挂甲」の語が当てられて成立したものであった。

8)短甲、挂甲の着用者が被るは、大きく2種類に分けられる。それが「眉庇付冑」(まびさしつきかぶと)と「衝角付冑」(しょうかくつきかぶと)。

眉庇付冑は、つばの付いている野球帽のような形をした兜で、非常に作る手間がかかりました。一方、衝角付冑は、シンプルな形状でより実用的な兜である。





 

9)用語の変化:

「挂甲」「短甲」はともに「貫(縅紐)」を用いる製作法であることから両者とも小札甲であり、「挂甲」は脇盾を持つことから考古学にいう「裲襠式挂甲」を表し、「短甲」は縅紐の量の多さから「胴丸式挂甲」を表している。

現在「短甲」と呼ばれているような板造り甲(帯金式甲冑)を示していないことが確実視されている「短甲」「挂甲」の語を使用し続けるのは不適切であるという意見もある。

(板物甲、小札甲)や、日本の帯金式甲冑と技術的に共鳴関係にある韓国南部の同形態の甲が「板甲」と呼ばれていることを参考として、「板甲」「札甲(または小札甲)」とするべきではないかと提言されており、これを使用する研究者が増加しつつある。

10)北部九州での甲冑出土の分布図

11)短甲と桂甲の年代変化

12)兜出土の古墳

           眉庇付兜             衝角付兜

永浦古墳の出土品


13)船原古墳の兜

この冑は「竪矧板革綴冑(たてはぎいたかわとじかぶと)」。

22枚の縦長の鉄板(竪矧板)が革紐で綴じられ、頭頂部に伏板が取り付けられている構造。

伏板には、冠帽と呼ばれる烏帽子形の装飾が施されていた可能性があり、これは社会的地位の高さを示している。

船原古墳調査指導委員会の副会長で、記者会見に同席した桃﨑祐輔・福岡大学教授は「朝鮮半島の新羅や百済のみならず、中国の北朝や隋の使節が見ても、一目で最上位の武人とわかる冑だったと考えられる」との見解を示した。




参考資料:

0 件のコメント:

コメントを投稿