2022年3月9日水曜日

福岡城の資料と天守閣の有無

 関が原のあと黒田は筑前52万石に移封され一旦名島城に入るが、すぐに福岡城の建築にかかる。

この時代の築城は、山城から平城にかわり、複雑な堀と石垣に守られた天守閣がシンボルとなる形態が主流であった。

熊本城だけは西南戦争のときまで存続していた天守閣が確認されているが、中津城、福岡城の天守閣の存在は最近まで不明確のままであった。

しかし加藤清正が熊本城を改築していたとき、黒田如水が見学にきたという記録があり、福岡城にも熊本城と同等の天守閣を計画したと考えられる。

黒田のあとに中津城にはいった細川忠興は、その年の年貢を黒田がもちさったことから不仲になり、中津から小倉に城を移して常に黒田を監視し、築城のデータを徳川に報告した記録がある。

そのなかに天守閣が記録されている。これが福岡城の天守閣存在の確証の一つである。

最近そのほかの調査資料からも天守閣の史料がかなり詳細に解かってきたようだ。






中津や熊本の市民が天守閣を再建したのに、福岡市民が戦後いまだに天守閣の再建を考えなかったのは、黒田以前からの博多商人魂のせいであろう。
せめてCG再現図で幻の天守閣の姿を楽しもう。

下の図は福岡城天守閣のCG復元図 (佐藤正彦著 甦れ 幻の福岡城 天守閣より)


かっては福岡城に天守閣は存在しなかったという説が優勢だったが、現在では一度建設されたあと徳川幕府の嫌疑をおそれて取り壊されたとする説がほぼ確実視されている。

わたしも、もと福岡市長の桑原さんが博物館長時代に、館の研究者たちの調査結果をまとめて講演されたのを聴いたり、九州産業大学の佐藤教授の著書「甦れ!幻の福岡城天守閣」をよむと、天守閣の存在した確証が沢山発見されているので、天守閣があったと信じるようになった。

上のCG復元図は佐藤先生が調査されたものだが、熊本城におとらぬ立派な天守閣である。

1619年福島正則が広島城の改築で幕府から嫌疑をかけられ失脚した事件から、各藩で天守閣や御殿をこわしたり縮小した例が沢山おこった。

黒田藩もこの時期に天守閣を取り壊し、当時の大阪城の再建用資材として献上したと推測されている。

 豊臣方から徳川方に移った外様大名たちは、生き残りのために大変な犠牲をはらっていたことがわかる。

画像/庄林半助『旧稀集』〜若殿美濃守様初入国図〜/上之橋をいく黒田長溥隊列




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