2023年1月17日火曜日

清水芳太郎

 清水芳太郎(1899~1941)は, 和歌山県那智勝浦町出身で早稲田大を卒業した。

清水は28歳の若さで福岡市の九州日報(西日本新聞の前身)の主筆兼編集局長に就任し、その後、社長を務めた昭和初期の言論人であった。

太平洋戦争が開戦した5日後の41年12月13日、東京から福岡に軍用機で移動中の飛騨山中で事故に遭い、42歳で死亡したとされる。後に福岡市に建立された記念碑にも、死亡場所は飛騨山中と刻まれた。しかし清水芳太郎の死亡場所が、最近定説の飛騨山中ではなく、静岡市だった可能性が明らかになったという。

亡くなる前年の1940年に九州日報の社長を辞任し、東京の理化学研究機関で「国家非常時に対処するための研究」に取り組んだ。東条英機の要請だったとされる。

言論人と同時に科学者の一面もあり、陸軍の要人だった東条英機が技術開発能力を、石原莞爾が思想を頼ったとする記録がある。

石原莞爾は清水について「識見と人格に深く敬服した」「著書は全部拝見し、私の講演は常に氏の卓見を引用した」と記した。

生前の著作:

日本経済革命論 (1933年)





第1-7巻
部分タイトル第1巻 昭和改新の書 阿含経 人間の改作 孫子の兵法
第2巻 経済革新論 大東亜建設と政治経済準備 米の増収法
第3巻 建国読本 大日本建国 日本教 発明夜話
第4巻 古今偉人会議 日本産業戦略
第5巻 今後の東亜をどうするか 日本の政治 老子を読みて
第6巻 日本真体制 御聖徳と偉人
第7巻 一千九百九十九年 宗教談義 神詣り 釈尊の教義について

九州日報時代は玄洋社との関係も近かったようですが、いわゆる右翼ではなく、アジア支援の精神が強い人物だったと思われます。

科学研究の内容については、まったく記録がなく不明のままです。

清水芳太郎研究で知られる平井一臣鹿児島大学教授の著書「『地域ファシズム』の歴史像・国家改造運動と地域政治社会」によると、清水氏は農村の貧困問題に取り組み、創生会を結成して運動を展開していました。

ファシストというより、弱者救済を国レベルで成し遂げようとした人ではなかったのかというのが私の理解です、と述べているのは参議院議員の三原氏です。

{さらに「八紘一宇」は二・二六事件の「蹶起趣意書」にも記載されていたために、軍事クーデターの原因となったとみなされがちですが、この事件が勃発するきっかけになったのも、農村の貧困問題でした。

特に東北で長年農業恐慌が続いたことに加え、1931年と1934年に大凶作が起こり、少女の身売りや欠食児童問題が深刻になりました。

これらを見ると、多くの人々が困窮して国が疲弊している時こそ「八紘一宇」の重要性が叫ばれていたという歴史的事実が浮かび上がります。

「八紘一宇」は混乱の時代にあって、人々を救済するスローガンだったと思うのです。}

と国会で説明しているそうです。

このような思想で、東条英機を説得していれば、大東亜戦争を防げたかも知れません。


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