2023年2月17日金曜日

藤田哲也の竜巻・ダウンバースト(下降噴流)研究

2023・2・16に、「奇跡体験:アンビリーバブル 」のテレビタイトルで紹介された。

私も九工大に勤務していた時、帰国されていた藤田教授の「 ダウンバーストの存在を実証する研究」の講演を聴講したことがある。

藤田哲也:経歴

藤田教授


  • 1920年大正9年): 福岡県企救郡曽根村(現在の北九州市小倉南区)に生まれる。
  • 1939年(昭和14年): 小倉中学校(現在の福岡県立小倉高等学校)を卒業。在籍時に第一回理科賞を受賞。
  • 1943年(昭和18年): 明治専門学校(現在の九州工業大学)工学部機械科を卒業すると同時に、同大学で助手、物理学助教授に就任する。明治専門学校の同期には小説家のカズオ・イシグロの父親である石黒鎮雄が在籍していた。
  • 石黒鎮雄博士:戦後間もない時代に中央気象台,続いて長崎海洋気象台に勤め,1960年に渡英した海洋学者で、2017年ノーベル文学賞を受賞した小説家,カズオ・イシグロ氏の父として紹介される機会が多い。しかし博士は,海洋の潮位や波高の研究に携わった研究者であり、人生の大半を英国で過ごした。)
  • 1945年(昭和20年): 広島および長崎への原爆投下を受けて、それらの被害調査に派遣される。この時に撮影されたと見られる写真37点と撮影場所などを記した地図5枚が2013年3月に発見され、遺族は写真を長崎原爆資料館に寄贈することとした。写真は原爆投下の11日後から撮影されており、爆心地を捉えたものとしては3番目に古い。真夏の炎天下に3日間で調査を行い、樹木の倒れ方や焦げ方、墓地の花受けの竹筒の焦げ方の角度から、直下地点 (グラウンド・ゼロ) での爆発の高度を地上約520メートルと推定。



  • 1947年(昭和22年)8月24日: 脊振山頂で雷雲の中で下降気流の発生を観測した。




  • 1947年(昭和23年): 現在のみやま市 (瀬高、山川、高田町が合併) の「江の浦」で起こった竜巻を調査する。
  • 1953年(昭和28年): 東京大学で博士号を取得し、同年よりシカゴ大学の教授から招聘され、渡米。同大学の気象学客員研究員となる。
  • 1957年(昭和32年): ノースダコタ州のファーゴ市で発生した強い竜巻について、渡米後の初調査として行う。その後竜巻の中の強い下降気流を発見し、Mr.トルネード(竜巻)とよばれた。






  • 1976年(昭和51年): ダウンバーストの存在を実証する。大竜巻の中に子竜巻があって、メリーゴーラウンドのようにぐるぐる回る二重構造の「親子竜巻」を論文で発表。
  • 1979年(昭和54年): ジム・ウイルソンの協力により、ドップラー・レーダーによりダウンバーストが予測可能であることを立証する。




  • 1983年(昭和58年): ダウンバーストの存在について論争が続いていたが、レーガン大統領の専用機エアフォースワンが着陸した6分後にダウンバーストが発生し、格納庫が破壊された事故が発生。米空軍が対策を講じる過程で、ダウンバースト論の正当性が認められた。





  • 1989年(平成元年): 気象学界のノーベル賞と呼ばれるフランス国立航空宇宙アカデミー賞・金メダルを授与される。
  • 1991年(平成3年): シカゴ大学名誉教授となる (「チャールズ・E・メリアム特勲名誉教綬」の特勲を授かる)。勲二等瑞宝章を受章。
  • 1998年(平成10年)11月19日: 糖尿病により自宅で死去。享年78。「竜巻博士」を悼む声が次々に寄せられた。
墓は北九州市小倉南区中曽根の寺にある。

研究トピック:

1947年(昭和22年)8月24日、明治専門学校(現在の九州工業大学)の助教授時、脊振山山頂測候所の観測小屋で、大谷和夫所長と助手の3人で雷雲の観測を実施。脊振山麓の南西から強い雷雲 (入道雲) が吹き上げ、山頂上空に達すると、20メートル毎秒以上の強風が吹き、気圧計が大きく変勤することを観測した。測候所の自記計が捉えた風と気圧変化のデータを分析して、上昇気流に乗って空高く発達した雷雲の下部、脊振山頂の高さに、今まで知られなかった「下降気流」があることを検証した。

福岡県と佐賀県県境にある背振山の米軍レーダーサイトにあったごみ捨て場から、シカゴ大教授のHorace Byers(バイヤーズ教授)による Thunderstorm Project のレポートを偶然拾った。同教授宛に自分の研究内容の一部を送付したところ、同教授から研究内容と才能を見出され同大学に招聘される。当時、藤田は脊振山で雷などの観測、研究を行うことがあった。


シカゴ大学のバイヤーズ教授


また、1975年ジョン・F・ケネディ国際空港イースタン航空66便着陸失敗事故が発生した際、当初この事故はパイロットの操縦ミスが原因であるとの結論が出た。しかし、それに納得のいかなかった航空会社が藤田に事故原因の再調査を依頼した。

これに関して藤田は、空港付近でごく短い時間に強い下降気流が発生したことを突き止め、その発生プロセスを解明し、旅客機の墜落はこのダウンバースト(下降噴流)に起因すると指摘した。

その後、ダウンバーストはドップラー・レーダーを使用することで、事前にある程度の予測が可能であることを立証し、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備されるようになった。




勲二等瑞宝章を受章。日本気象学会の最高の名誉である藤原賞を受賞。

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