2015年10月15日木曜日

麻の受難の歴史

「麻」とは大麻、苧麻(ちょま)、黄麻、亜麻、マニラ麻などの総称。
我が国では一般に大麻と苧麻をさし、苧麻は真麻(まお)、からむし、ラミーともよぶ。

 麻の歴史は古く縄文時代から栽培され、紅花、藍と共に有用の三草とされていた。

「 麻衣 着ればなつかし 紀伊(き)の国の
     妹背(いもせ)の山に 麻蒔く 我妹(わぎも)」 
          万葉集 巻7-1195 藤原卿

( 麻の着物を着ると紀伊の国の妹山、背山で麻の種を蒔いていたあなたがなつかしく思われてなりません)

藤原卿は藤原房前、あるいは藤原武智麻呂ともいわれているが定かではない。

 この歌での麻は大麻で春に種を蒔き晩夏に収穫する。
当時、貴族階級は絹物、庶民は麻衣を常用していた。
 作者は親しかった女性と共通の思い出のよすがとして
「麻衣着れば」(共寝したことが)「なつかしい」と詠った。

 日本語では、ひとくくりに「麻」と呼んでいるが、英語には日本語の「麻」に相当する単語がない。
 日本語でいう「麻」は、英語圏ではもっと細分化されていて、Ramie(ラミー)=「苧麻(ちょま)」、Linen(リネン)=「亜麻(あま)」、Jute(ジュート)=「黄麻(こうま)」、Hemp(ヘンプ)=「大麻」など、
その種類は、なんと20種類もある。

 他にも、マニラ麻のことは英語でAbaca(アバカ)というけれど、これは芭蕉科で繊維長5ミリから1センチくらいで、多年生植物。
ヘネケン(Henequen=サイザル麻)は、石蒜科(セキサンカ)の多年生植物だ。
つまり、種類も、科目も、生存年も、繊維の長さも、全然違うのだ。

 その日本に、ヘンプ以外の麻がやってきたのは、実は明治7年のことだ。ロシアに榎本武揚が公使として赴任していたが、そのロシアで栽培されていたリネン(亜麻)が、北海道開拓に役立つのではないかと、彼が、当時北海道開拓長官だった黒田清輝に、リネンの種を送った。

 その種を使って、まず札幌で、リネンの栽培が始まり、その後、フランスからリネンの紡績技術を学んで、明治17年に、リネン紡績株式会社が設立された。

 これに目を付けたのが安田財閥の安田善次郎であった。
彼は帝国製麻株式会社をこしらえてリネンの栽培と普及に乗り出し、この会社がいまも東証一部上場となっている帝国繊維株式会社に至っている。
 戦時中は、このリネンの栽培のために、北海道だけでも、約4万ヘクタールもの土地で、リネン栽培が行われていた。これが重要な軍事物資となっていた。

 その他に、マオランという種類の麻はニュージーランドとノーフォーク島の固有の常緑多年草の一種で、繊維作物として栽培された。

 マオリ人がニュージーランドに到達してから、その繊維はマオリの伝統的織物(英語版)に広く用いられていた。また、ヨーロッパ人の到達後、少なくとも第二次世界大戦前まではロープや帆の材料として用いられた。

 
 一時日本でもこの繊維植物「マオラン」(真麻蘭)が導入されて熱病のように全国農村を風靡しようとしていた。

 マオランの栽培は昭和四年あたりから福岡県を中心に九州一帯に流行を始め、漸次四国、近畿と東進して、五百町歩を超える栽培面積となり次第に関東方面に進出せんとしていた。


 古賀町にも昭和5年に古賀国策マオラン工場が設立され、昭和15年に高千穂製紙に買収されるまで存在していた。

 この種苗分譲商は陸軍省、逓信省等の官公機関の名前を盗用しマオラン繊維はマニラ麻繊維に代るべきロープ材料で軍事上欠くべからざるものと巧に非常時熱をあおり、栽培者から種苗をどしどし買いあおって更にその種苗を高価に新栽培者に分譲して巨利を占めていた。

 しかし農林商工両省の試験調査によると、当時のマオラン繊維の商品価値は低く、ロープ材料としての使用価値も悪かったので、流行に乗って貴重な土地を空費し、何時惨落するかも知れぬマオランを農家副業とすることの危険を痛感した農林省では、各府県にマオラン栽培警戒の警告を発することとなった。

 しかしマオラン栽培は一時的には、商人の種苗買いあおりにより栽培農家は種苗の販売によって相当の採算はとって居たので、この投機鎮圧には監督当局も少なからず苦慮したという。

 そこで、日本古来の「麻」を、他の「麻」と分ける意味で、昭和初期頃から、日本古来種の麻を、「大麻(おおあさ)」と呼ぶならわしになった。
 「おおあさ」は、音読みしたら、「大麻(たいま)」です。

 ところがその「大麻」が、いまでは、まるで麻薬のような危険な植物とされてしまっていることは、みなさまご存知の通りだ。

 この「大麻取締法」は、昭和23(1948)年、つまり戦後にできた法律である。どうして法律ができたかというと、GHQの強制であった。

 実はその裏には米国の石油資本の影響があるらしい。
麻(ヘンプ)は、荒れ地でもすくすく育つし、収穫高も多い。
繊維製品や紙製品としてきわめて歴史が古く、需要も多い。
その麻の栽培や収穫を規制すれば、石油から作られる化学繊維が爆発的に売れる。そうすれば石油資本は、巨万の富を築きあげることができる。

 そのために、麻=大麻=麻薬というイメージを作り上げ、麻を「麻薬(=源字は、魔薬)」として取り締まりの対象にまでして、規制してしまった。

 つまり、私達現代日本人が、有害植物、犯罪植物と信じて疑わない「大麻(=ヘンプ=麻)」は、実はたいへんに身近な、生活必需品だったものを、石油資本が私的な利益のために、GHQを通じて強引に「魔薬」としてまった。
 そして日本に限らず世界中で、ヘンプは、農業麻栽培や、産業が破壊され、それと同時に麻を利用した文化まで否定されてしまった。    

 (ねずブロ参照)

2015年10月14日水曜日

尾張・愛知・名古屋の地名

戦国時代に3人の天下人を生んだ愛知県だが、名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋にあったというように、尾張・愛知・名古屋の地名が錯綜している。

地名辞典などによると、最も古い地名は尾張で、「尾張」の発音が「終わり」と重なる点からもわかるように、ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされて、呼ばれたのが尾張であるという。
また『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如しという。
さらに江戸時代に尾張藩が編纂した『張州府史』によれば、小針(おばり)村は、古くは尾張村であって、尾張の名称は、この地から起こったとしている。

つぎに[愛知]の名前は、日本書紀に「年魚市」・「吾湯市」や「鮎市」、「和名抄」は尾張国「愛智」郡に「あいち」と訓を付しているが、古くは「あゆち」と発音されていた。
万葉集巻3に飛鳥期の歌人・高市黒人の詠んだ羇旅歌の
「作良田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」
とある「年魚市(あゆち)潟」という、伊勢湾に面する愛知郡の沿岸部に位置する低湿地帯の地名がある。現在も昭和区に「阿由知通り」の名に(あゆち)の響きが遺されている。
「あゆ」は、湧き出る意で湧水の多いところとする説、東風を「あゆ」と訓むところからめでたいものをもたらす風の意とする説などがある。また、日本武尊の東征の出発点、「足結地(あゆち)」とする伝承もあるという。
明治2年に尾張藩が名古屋県に改称されたが、さらに明治5年4月2日に明治政府が名古屋県を愛知県に改称した。
その背景には、戊辰の役の際の尾張国の動向を、明治政府は好ましく思っておらず、懲罰的な意味合いを含み「名古屋県」の県名を認めず「愛知県」に改称させたという説がある。

「名古屋」の地名は平安末期に小野法印顕恵(九条〈藤原)顕頼の男子)が領主となって開発、立荘した荘園「那古野荘」による。
現在でも名古屋市西区の中区に接する堀川西岸に「那古野」の地名が残っている。
「ナゴヤ」の由来には、気候や風土が“なごやか”な土地とする説、土地が崩れて崖になった場所を「なご」と言い、「や」は谷で、谷間にある湿地とする説、なごやかな地形=「なだらか」という連想から、なだらかな傾斜のある地形とする説などがある。

名古屋城は、「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」、「蓬左城」などの異名を持っている。
金の鯱矛で有名でわかりやすいが、「蓬左城」は熱田宮との位置関係から名付けられた。

熱田の地は古来から「蓬莱島」と呼ばれている。
その由来は、波静かな年魚市潟(あゆちがた)に面し、老松古杉の生い茂る熱田の杜が、海に突き出る岬のように見える事から、不老不死の神仙の住む蓬莱島(中国の伝説)に擬せられたからであろうといわれている。
また(あゆち)に「吾湯市」と漢字を当てた地名もあり、「あゆち田」が「あつた」と変化し、「熱田」となったという説もある。
かって尾張国造の尾張氏の本拠地が熱田神宮に近い断夫山古墳(美夜受比女の墓と言われる)付近に比定されていることから、愛知郡の中心的場所として「あゆち」を由来とする地名が中区に南接する熱田区域に存在した。

江戸や東京などよりは、地名が豊かで、天下人も多くうまれた歴史多き地域である。

2015年10月8日木曜日

中島宏の青磁の壷

青磁・人間国宝   中島宏氏
1941年、佐賀県生まれ。
69年、弓野古窯跡に登窯を築いて独立する。
2002年、日本工芸会理事に就任。05年から06年にかけ、東京・松涛美術館と福岡・福岡市美術館で「中島宏―現代を生きる青磁」展を開催した。
06年に日本陶磁協会賞金賞を受賞。
07年、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
12年には、日本工芸会副理事長、陶芸部会会長に就任。旭日小綬章も受章した。
中島宏氏


わたしは1990年九州工業大学の退官記念にY社から青磁の壷を頂いた。当時は武雄(弓野)の中島宏さんの作品ということをきいても、予備知識はゼロであった。
わが家の青磁の壷
その後嬉野温泉にいった帰りに、武雄の中島さんの窯元に立ち寄った。樟の木でつくられた立派な座敷に大きな作品が沢山展示されていた。もうかなり前のことで、記憶がうすれているが、美人の奥さんから迫力のある作品の説明をうかがった。
邸宅の広縁と庭


座敷の展示品


武雄の弓野窯玄関
後日Y社会長の自伝を読んでいたら、中島さんの窯元に行こうと誘われたのは高松宮であったと書いてある。ゴルフや陸上競技で深い交流があったらしい。これ以来会長も青磁にとりつかれたようだ。 
我が家の宝にしなければと思い、中島さんの作品集の本を購入して調べ、壷は大事にかざっている。
また岩田屋での作品展示会にでかけたり、天神でのご本人の講演会にでかけて、青磁の歴史の話をきいたりした。

その後中島宏さんが人間国宝となられたというニュースがとびこみ、驚くと同時にますます家宝としての価値があがった。
箱書きはないので、あらためて作品の銘を写真にとったが、独特の「宏」の文字が刻まれている。
「宏」の銘
箱書きの「宏」の銘の例
若い頃から小石原焼や有田焼の窯元にはよくでかけて作品を買ったり、九州産業大学では酒井田柿右衛門さんの話を聞いたり、その窯入れ式に参加させてもらったりしたが、中島氏の弓野窯には独自の静かな魅力を感じている。

2015年10月5日月曜日

福高(旧制福岡中学校)の前史(再改訂版)

 福岡県立の旧制福岡中学校(現在の福岡高等学校)は大正6年(1917)に創設されたということになっている。

同窓会名簿も、第1回卒業生は大正11年3月卒業からはじまっている。
しかし明治維新直後の混乱期の歴史をよく調べてみると、明治12年から22年までの10年期間、県立福岡中学校が存在していたことがわかる。

明治3年(1870年)福岡藩が太政官札を偽造してそれが日田県内に流通していると告発があり、その後の明治政府の調査の結果、福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。

このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代黒田長知は藩知事を解任され、後任の藩知事には有栖川宮熾仁親王が就任した。その後、廃藩置県により福岡県となり、さらに豊津県、久留米県、柳川県が福岡県に吸収合併された。

かっての藩校は、明治7年から11年までは臨時的措置で各種学校として復活存続されたのち、正式の福岡県立中学としては明治12年から新規に発足した。

1879年(明治12年)育徳館: 県立となり豊津中学校と改称する(小倉分校を設置)。

1882年(明治15年)思永館: 県立豊津中学校小倉分校を「小倉中学校」と改称。

1879年(明治12年) 明善館: 久留米師範学校を廃止。県立久留米中学校設置。

1879年(明治12年) 伝習館: 福岡縣立柳河中學校設立。


ただし地元福岡の藩校修猷館は黒田色を追放するためか廃校となり、建物は診療所として利用された。

そして育徳・思永・明善・伝習館と同じ明治12年に、県立福岡中学校が別途に創設された。場所は福岡城、下の橋の前でした。(現在の電通福岡ビル付近)

 明治13年の福岡市地図には、福岡城三之丸の橋の前に、中学校と師範校が並んで記載されている。この地図の面積からみると、当時の学校の規模は藩校の延長程度で、百名以下だったろうと推察される。

明治13年の県議会で、主要都市部の上記の五中学校のほかに郡部に十三校の中学分校を設置することになり、各郡部の上等小学校を中学分校とした。福岡中学の分校は箱崎小学校におかれた。しかしこれらは明治15年には悉く廃止され、郡立経史校となり、漢学などを教えたという。

明治23年の地図では、同じ場所が中学修猷館に変わっている。







            明治12年福岡市地図の中学校


 これは、もと黒田藩士の金子堅太郎や玄洋社グループなどの有力者らが修猷館復興運動をおこし、紆余曲折をへて明治19年についに復興に漕ぎ着ける。
金子堅太郎

しかもその後県の財政が悪化したために、福岡地区で2校の存続が不可能となり、福岡中学のほうを明治22年に廃校としたからである。

当時の事業仕分け人は不明だが、当時の県知事は玄洋社の杉山と親交のあった安場保和(熊本細川藩出身)であった。


昨年は1879年から130年の開校記念行事が、育徳、思永、明善、伝習などの旧藩校系の高校で行われたが、福岡高校は100周年を7年後に迎えるような後発高校になっている。

しかし明治12~22年の間の卒業生の記録は残っているいるので、小林前同窓会長の話では100周年記念の時には整理して出版する計画が進んでいるようだ。

この間の卒業生の中の有名人としては、明治専門学校の創設者の一人松本健次郎氏(安川敬一郎次男)が明治22年の卒業生であり、その邸宅は現在北九州市戸畑区の西日本工業倶楽部として現存しており、市の文化財に指定されている。

松本健次郎

また川上音二郎も入学していたが、継母とのおりあいが悪く、中途で家出して上京している。

川上音次郎

(開校記念行事の年代は2010年の記事)

2015年10月1日木曜日

大河 黒田官兵衛のまとめ

http://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/kanbee.html  (福岡県)


http://www.city.fukuoka.lg.jp/charm/kanbei/  (福岡市)


http://webtv.pref.fukuoka.lg.jp/ja/movies/detail/2424  (築上町)


http://www.jrkyushu.co.jp/kanbei/spot/nakatsu.html  (中津市)

2015年9月26日土曜日

お茶の心と「霽月」「耳庵」「碧雲荘」「柳瀬荘」など。

伊勢神宮の茶室「霽月」
 わたしの父は松下幸之助と生年月日が同じであった。大きな違いだなの苦笑していたが、二ヶ月ほど幸之助より長生きした。
 松下幸之助は生前、京都東山の松下の別邸真々庵のほか、松下電器産業や松下政経塾など自身が関係した施設に茶室を建設した。 
1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで財団法人伊勢神宮崇敬会の会長を務めた松下幸之助は伊勢神宮に茶室の献納を思い立ち、構想約10年を経過して実現した。
 松下幸之助の米寿と松下電器産業グループの創業65周年を記念して、1983年3月に建設に着手、「300年保ち、歴史的遺産となるものを」という要望から、約2年間の工期と総工費約10億円をかけて1985年(昭和60年)4月に完成した。伊勢神宮の茶室「霽月(せいげつ)」である。
 霽月とは雨が霽(は)れたあとにひときわ輝く月のことである。
 幸之助は神宮以外にも日本全国各地に以下のような茶室を寄贈している。 松下の名にちなみ松の字が使われている。
真松庵 - 1965年(昭和40年)高野山 金剛峯寺
豊松庵 - 1965年(昭和40年)大阪城公園 西の丸庭園
紅松庵 - 1974年(昭和49年)和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)
鈴松庵 - 1975年(昭和50年)椿大神社
松籟庵 - 1976年(昭和51年)追手門学院大学
宝松庵 - 京都国際会議場
松寿庵 - 中尊寺
和松庵 - 四天王寺本坊庭園
自宅の茶室授業やロボットのお点前


 わたしは企業の寮生だった頃、寮母さんからお茶のお手前を教えられたことがある。
 結婚後、家内がお茶の稽古をはじめて、長年続けていたいたので、古賀の家に茶室を作った。
家内が遊びにきた学生にお点前を教えたり、私はロボットにお手前をさせたりした。
 今は孫娘の一人が大学の茶道部でお茶をならっている。
卒業前に先生の免許を学割でもらうそうだ。
孫娘の京都府立大学茶道部

松下さんとは大きな違いだが、お茶のこころは通じるものがある。

九州に縁の深い松永安左エ門氏(1875~1971)は、長崎県壱岐に生まれ、慶応義塾に学んだのち、九州電灯鉄道・東邦電力等を率いて、戦前戦後を通じて電力界の重鎮でした。

晩年、耳順(したが)う」にちなんで耳庵(じあん)という号を名乗るようになります。


茶室の久木庵
埼玉県柳瀬村(現所沢市)に山荘「柳瀬荘」を営んで、益田鈍翁(ますだどんのう、1848~1938)や、原三渓(はらさんけい、1868~ 1939)といった我が国の近代茶の湯の主導者たちと広く交流をもち、古美術品の蒐集においても強く影響を受けました。

当時の数寄者たちは、蒐集した美術品を茶席へ惜しみなく用いて取り合わせを楽しむ茶の湯を展開し、耳庵氏もまた、古くからの概念にとらわれない、自由で豪快な茶の湯スタイルを受け継いでいきました。

彼の愛した茶器類は、東京博物館や福岡美術館に寄贈されています。
茶器の展示(福岡美術館)


昨日のテレビで、非公開の野村「碧雲荘」が紹介された。
南禅寺の近くに、野村徳七翁によって建てられた別邸。
当時、廃寺となった南禅寺の塔頭子院の跡地に数々の別荘群が作られた。碧雲荘もそのひとつで、風光明媚な東山を借景に雄大な園池を築いた。
そして琵琶湖疏水の水を引き込んで池を造り、その周囲を木造平屋建や桟瓦葺を基本に良材を用いた大玄関、能舞台、書院、洋室、書斎、茶室などが囲んでいる。
「藤原時代の絵巻物をみるような豪壮快闊な庭園」と評価されている。


碧雲荘の敷地図

利休は侘び茶の精神を突き詰め、茶室の面積の狭小化を試み、天井高も頭がつかえるほど低くし、そのデザインも高低に変化を持たせ、材も杉板、網代、化粧屋根裏にするなど工夫をこらした。
採光のための唯一の開口部であった縁の引き違い障子を排して壁とし、そこに下地窓、連子窓や躙口をあけた二畳の茶室を造った。
主客が近距離で交流し、一期一会、一座建立のできる環境作りの思想である。
これはまさに三密の環境であり、コロナの時代には不適な構造である。


2015年9月21日月曜日

下関市豊北町の中山神社

中山忠光が暗殺された場所は、現在の下関市北端にある豊北町田耕の長瀬の渓谷であった。
(綾羅木の中山神社からは約40Km離れている。)