豊臣秀吉には実子がいなかったとよくいわれていいます。
淀殿との間に生まれた二人の子、三歳で病没した鶴松と大坂城に滅ぶ秀頼は有名で、秀吉の実子らしいですが、それ以前に秀吉に実子があったことはあまり知られていません。
秀吉の子供で「秀勝」を名乗った人物は3人存在しました。
「初代」秀勝は秀吉が長浜城主時代に誕生したとされる石松丸のことで、側室の南殿なる人物が母と言われています。南殿は天正二年(1574)にも女子を産んだとされていますが、その素性は明らかではありません。この「初代」秀勝は同四年十月にわずか七歳で亡くなります。
織田信長は悲しみに沈んだ秀吉を見て、四男の於次丸を秀吉の養子として与えました。これが「二代目」秀勝で、同十年の中国攻めには十五歳で出陣、初陣を飾っています。
間もなく本能寺の変で父信長が滅ぶと、「二代目」秀勝は十月に秀吉が主催した京都大徳寺での葬儀において喪主を務めました。以後明智光秀の旧領丹波が与えられ、亀山城主となって二十八万石を領す一方、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の役にも参陣、同十三年には従三位左近衛権少将のち正三位権中納言となり、丹波少将あるいは丹波中納言と呼ばれました。
しかしそれも束の間、病を得てこの日に亀山城で十八歳の短い生涯を閉じました。
翌年、秀吉は姉・とも(日秀尼)の二男で秀次の弟である小吉を養子とし、二代目秀勝の旧領をそのまま引き継ぐ形で与え亀山城主としました。これが「三代目」秀勝です。残念ながら三代目も朝鮮役の最中、文禄元年(1592)九月に異国の地で病を得て二十四歳の若さで陣没しています。
後継者にめぐまれなかった秀吉が最後の秀頼に執着した気持ちがわかりますね。