2016年3月31日木曜日

おりょう(龍:タツ) 女の一生

おりょう(龍:タツ)  女の一生

坂本龍の顔


小松帯刀は身分的には西郷隆盛の上司で、薩長同盟などにも活躍した人物である。
彼は坂本竜馬と同じ年の生まれで、討幕の活動でも深い交流があった。
坂本竜馬と妻のおりょうが、霧島温泉に「日本人最初」の新婚旅行をした」ことになっている。しかし、これは小松がその数年前に霧島に新婚旅行した経験から、坂本に旅行をすすめて小松家に泊まらせて、あと霧島に案内したものだ。
竜馬が最初の新婚旅行ではなかったことはたしかだ。
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坂本竜馬ろ龍の銅像@霧島温泉
この話から、「おりょう」について興味をもち、調べて見ると、波乱万丈の人生のようで、俗説や誤伝も入れ混じって面白い。

1)おりょうの写真

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研究者やファンの間で坂本竜馬の妻 「おりょう(龍)」かどうか論争になっていた若い女性の写真(左)を、警察庁の科学警察研究所が、おりょう本人と確認されている晩年の写真(下)と比較して、この5月に 「同一人物の可能性が高い」との鑑定結果を発表した。鑑定を依頼した高知県立坂本竜馬記念館では、森健志郎館長が「科学的な鑑定で、あいまいな推測から一歩進んだ。おりょうの可能性が高まった貴重な結果だ」と喜んでいる。 しかし一部には異論もあるようだ。

2)おりょうの家族
 おりょうは天保12年(1841)京都西陣で生まれる。嘉永6年(1853)13才の時父、母が続いて亡くなり、医師楢崎将作の養女となったという説と、楢崎家の実子で龍を含め女3人、男2人の5人兄弟で、裕福であったという説がある。後の説が本当のようだ。

 將作は京都東山の門跡寺院・青蓮院の侍医であり、勤王家 頼三樹三郎 梁川星巌 池内大学らと親交があり、数多くの志士たちを援助した。
 そのため 安政大獄で投獄されたが 出獄後の文久2年6月20日に病死した。 享年50歳。

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楢崎将作邸

 将作の死により次第に家族は困窮生活となり、長女の龍は奉公に出て家計を支えるが、悪党が来て13歳の妹を島原遊郭へ舞妓に売り、母親をだまして16歳の妹も大坂へ女郎として売り飛ばした。

 龍は妹が大坂の遊郭に売り飛ばされると、着物を売り旅費を工面して単身大坂にのりこみ妹をだまして連れ去った悪党相手に大喧嘩をした。
 悪党も腕をまくり刺青を見せて脅したが、龍も懐に短刀を忍ばせ死ぬ覚悟で来ているので一歩も引き下がらなかった。 悪党も女を殺すわけにもいかず、とうとう根負けし、龍は妹を取り戻し京都へ連れ帰った。
 この妹とは、晩年まで深い因縁の生活が続いている。

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龍姉妹の銅像

 この頃竜馬がおりょうと知り合いとなり、龍馬のはからいで、母親は杉坂の尼寺へ、二男は粟田口の金蔵寺へ、三女と長男は神戸にいる勝海舟に預かってもらい、龍は寺田屋の女将・登勢に預けられた。
寺田屋の登勢は、龍を養女扱いで引き受け、捕吏の目をごまかすために龍の眉を剃り、名を春と改めた。




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寺田屋の外観



3)竜馬の見たおりょうの評価
 島田まげを結い小ざっぱりした小袖を着ている。 
 きらっとした眼口元あごが引き締まり 美しい。 
 まことおもしろき女(才女)にて 月琴をひき申し候。
霊山護国神社の坂本・中岡像
 一向かしぎ奉行(炊事針仕事)などすることはできず。
寺田屋遭難(慶応2年1月24日)のとき、入浴中のおりょうが裸のまま二階にかけあがり、襲撃をしらせたはからいで、竜馬は無事難をのがれたことは有名だが、 遭難以降、一生足手まといの嫁を貰うつもり無かったが、おりょうならどんな修羅場でも平気じゃろうと判断して結婚、 そして九州への新婚旅行で束の間の幸せ味わった。

4)竜馬の死後のおりょう
 慶応3年(1867年)11月15日夜、河原町四条の醤油商近江屋にて、海援隊長の坂本竜馬(33歳)と、陸援隊長の中岡慎太郎(30歳)が何者かによって暗殺された。坂本は頭と背を斬られて現場で死亡し、中岡も重傷を負って二日後の17日に死去した。

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竜馬遭難の地跡

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寺田屋


 











龍は竜馬の死後、高知や京都、東京を流転した。
1875年に旧知の商人の西村松兵衛と明治8年に再婚して横須賀に住んだ。 
死の直後一旦は高知の坂本家にひきとられたおりょうが、高知をでた理由は、坂本家との金銭トラブルであった。竜馬が海援隊のために残していた1000両の金の配分をめぐって、坂本家の当主が全てをとりあげようとしたため、金などいらぬと言って高知の坂本家を飛び出したという。

 西村松兵衛は京都の呉服屋の若だんなで、おりょうが働いていた寺田屋にも泊まっていたので、旧知のなかであった。
 その後商いが傾き、明治に入り、知人を頼って横須賀へでて、造船所の資材運搬で東京へも出かけた。
 おりょうも土佐や京都を転々とし、、嫁いだ妹を頼って東京へでて、旧知の松兵衛と出会い、横須賀で暮らし始めた。
 その後に、妹の息子を養子にし、大阪にいた母を迎えた。
 
 養子と母の死後は、妹を呼び寄せて3人で暮らしたが、松兵衛と妹がともに家を出て独り暮らしとなった。1906年(明治39年)に66歳で死去し、墓は横須賀市内の信楽寺にある。

 龍馬の妻として3年余り、松兵衛とは30年余りだが、信楽寺(横須賀市大津町)の墓には「龍馬の妻龍子之墓」と刻まれている。
 住職の新原千春さんは 「龍馬とのよい思い出が語り継がれることが供養になる」と解釈している。
 俗説では、松兵衛と妹が一緒になったため、竜馬の妻と刻んだのだという。

 明治37年昭憲皇太后の夢で、おりょうの存在が世に知られる事になる。
 霊山護国神社に坂本龍馬の君忠魂碑 、寺田屋には恩賜記念碑が建立された 。
 そしておりょうには御下賜品が届くが その1月15日死去 
 台座には『桔梗の紋』がある。


5)お墓の由来

 龍馬の妻おりょうの墓は前述のように横須賀の信楽寺にある(写真)。

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 このお墓の建造者は鈴木清治郎という人物である。このお墓ができた時(大正3年)、当時の新聞などで大きく報道され、人々ははじめて龍馬の妻おりょうのことを知った。
その後、清冶郎は何度かマスコミ関係者から取材を受けている。

 同氏が語るには、おりょうの死ぬ2年ほど前(明治37年ごろ)横須賀の町の露店で、おりょうの夫・西村松兵衛と知り合う。
清治郎は大道易者であり、松兵衛も露天商を営んでいた。二人は親しくなり松兵衛の家に泊めてもらうほどになった。
 横須賀の裏長屋のその家に松兵衛の妻おりょうがいたのである(その時は西村ツルであった)。そのツル本人が「自分は坂本龍馬の妻・おりょうだ」と言っていたのである。
同氏の印象では酒好きの鉄火婆さんだったとのこと。
 その後、しばらくして坂本龍馬のことが新聞に載った。それは日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの記事のことであった。
 清冶郎は松兵衛の家を訪ねたが、そこで「おりょう」が死んだことを知る(明治39年)。
 しかし、夫・松兵衛は零落しており、墓もないとのことなので、自分がおりょうのためお墓を建ててやろうと思いたち、龍馬ゆかりの元勲香川敬三(水戸藩出身)とか当時の横須賀鎮守府長官などからお金を集めて建てたのが、現在の横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。

香川敬三
墓の銘には 「 贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓 」とある。(阪の文字は間違い)
「龍子」は「たつこ」と読むべきだろう。
はじめに載せた新発見の写真の裏書から「おりょう」の本名は「たつ」であり、夫・龍馬が「おりょう」と愛称で呼び、その周辺の人は通称として「おりよう」と認識していた。
「龍子」とは夫が正四位の官位を持っているので、当然、公家風に「龍子」とするのが当時のならいであった。
(木戸孝允の妻は幾松という名の芸者だったが、明治以後は松子を名乗っている。下の写真)

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おりょうの死期がせまった頃は、夫の松兵衛が別居からもどって、最後の介護をしていたのだろう。
少なくともおりょうの晩年は幾松のような幸福な生活とは縁遠いものであったようだ。

追記
坂本竜馬は明智光秀の血筋をひく子孫であり、その一族は現在も健在である。


2016年3月30日水曜日

筑紫と紫草


紫草の花は白いが、根から紫の染料がとれる。

古代の筑紫国は、紫草が特産品であった。

租税の一つの「調」では、あわびや綿と共に紫草が、大宰府の「蔵司」に納められていた。

大宰府には「貢上染物所」という担当部署があり、高級な紫色の染料として、筑紫の紫草の根をあつめて、大和におくっていた。高僧の紫衣をはじめ、貴族たちに好まれた染料であった。
木簡などから、大宰府周辺と大分県竹田の紫土知村などが産地であったようだ。竹田には紫八幡宮も存在している。



大宰府では、官人たちが日常や宴(うたげ)で歌を競ったので、太宰府に万葉歌碑が多いのもうなずける。

筑紫野市阿志岐(あしき)が、古代の「蘆城駅家(あしきえきや)」で、大宰府の官人たちがそこまで旅人を送り、別れの宴を催した。その送別の歌。 

韓人(からひと)の 衣染(ころもそ)むといふ 紫の
心に染みて 思ほゆるかも


(韓人が衣を染めるという紫の色のように、心に深くしみてあなたのことが思われます)

送別歌に、筑紫名産の染料や皮膚病の薬になる紫草が詠み込まれて、洒落(しゃれ)ている。
名産といえば、次の歌も。

しらぬひ 筑紫(つくし)の綿は 身に着(つ)けて
いまだは着ねど 暖(あたた)けく見ゆ

(筑紫産の真綿は、まだ身に付けて着たことはないけれども、暖かそうに見える)

『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記述から推定すると、毎年90トン近い真綿が大宰府から平城京(へいじょうきょう)に納められていた。

菅原道真や歌王子の歌などもある。

 つくしにも 紫生ふる野辺はあれど なき名恋しむ 人そ聞えぬ

2016年3月28日月曜日

真田丸(改訂)

大河ドラマ「真田丸」の影響で、テレビ各社が真田丸の構造や所在地の検証をおこなっている。
所在場所:




構造図:







惣構えの南端

2016年3月27日日曜日

玉鬘 (源氏物語のなかの筑紫)


玉鬘:源氏物語で筑紫の地に育った唯一の姫君
紫式部の夫は大宰府赴任の経験があり、夫より筑紫の話を聴いて、玉鬘という人物の構想を描いたと言われる。
当時の筑紫の特産品は紫草であり、このことから紫式部の名前の登場したのかもしれない。
玉鬘は頭中将と夕顔の間に生まれた娘で、幼名は瑠璃君といった。母夕顔は頭中将の正妻に脅され姿を隠していた時に源氏と出逢い、逢瀬の途中に不慮の死を遂げる。
しかし乳母たちにはそのことは知らされず、玉鬘は乳母に連れられて筑紫へ流れる。そこで美しく成長し、土着の豪族大夫監の熱心な求愛を受けるが、これを拒んで都へ上京。長谷寺参詣の途上で偶然にも夕顔の侍女だった右近に再会、その紹介で源氏の邸宅・六条院に養女として引き取られる事となった。
源氏の弟宮である蛍兵部卿宮をはじめ、髭黒柏木(実は異母兄弟)など多くの公達から懸想文を贈られる。
源氏の放ったの光によって蛍宮に姿を見られる場面は有名。「行幸」で裳着をすませ、実父内大臣(頭中将)との対面を果たす。冷泉帝尚侍としての入内が決まるが、出仕直前に髭黒と突然結婚。
その後髭黒との間に男児(侍従の君)、大君(冷泉院女御)、中君(今上帝尚侍)をもうける。田舎での生い立ちながら母よりも聡明で美しく、出処進退や人への対応の見事なことよと源氏を感心させた(なお「竹河」で玉鬘の後日談が語られる)。
「玉鬘」とは毛髪の美称辞。毛髪は自分の意に反して伸び続ける事から、文学では古来「どうにもならない事」「運命」を象徴する。『源氏物語』に登場する玉鬘も自らの美しさが引き起こす事件に悩む数奇な運命の女性であった。

2016年3月19日土曜日

水戸徳川家

水戸徳川家15代当主の徳川斉正氏がテレビ出演して。水戸徳川家の歴史を解説された。

まず話しは有名な徳川 光圀(水戸藩の第2代藩主:「水戸黄門」としても知られる)からはじまる。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男で、徳川家康の孫に当たる。

儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。

しかし実際の光圀は日光鎌倉金沢八景房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来熱海を除くと現在の、関東地方の範囲から出た記録は無い。

光圀には兄の頼重がいたが、徳川本家の跡継ぎより早く生まれたために第3代将軍徳川家光や英勝院の意向もあって、光圀が藩主となったという。それで3代水戸家党主には兄の子を養子にして継がせるという義理がたい道を選んだ。

幕末となり、徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、徳川幕府第15代
の最後の将軍に任じられた人物。
一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職禁裏御守衛総督など要職を務めた後に、徳川宗家を相続し、第15代将軍に就任した。大政奉還新政府軍への江戸開城を行なった。
しかし水戸徳川家とも血縁が深く、上の系図に示すように徳川斉正さんの曽祖父にあたる。
しかも慶喜の母は近衛家の出身で、血液の半分は尊王派であったから、大政奉還や江戸開城は当然の成り行きであったろうという解説であった。

2016年3月15日火曜日

太陽の塔〔大阪万博)

岡本太郎が大阪万博で太陽の塔を作った時代は、戦後復興の上り坂であった。
私も仕事がらみで2回でかけたが、まだ若かったので、当時は世界や日本の最新技術や、未来予測の方に関心があり、太郎の芸術性には殆ど関心がなかった。

その後イギリスのブレンハイム王宮で太陽神の彫刻をみて、太陽の塔を思い出したくらいである。

先週NHKの智恵泉で、岡本太郎の創作意欲と、完成までの経緯を詳しく紹介していた。
丹下設計の巨大な屋根に穴をあけさせて、その上まで観客をのぼらせるルートをつくり、なかには「生命の樹」のモニュメントを配置した。
彼の非凡な構想に賛否両論があったが、大阪万博成功の大きな牽引力となったという。
機会があったらもう一度ながめなおしてみたい。