2022年7月31日日曜日

古賀市の新しい古墳発掘調査

現在は、その東側の高速道路を越えた青柳地区の、北筑昇華苑の北側の丘陵地区の開発計画が始まっており、そのための事前発掘調査がおこなわれている。

小字名では「揚田」という場所で、古代の官道があり、席打駅家があったらしいと推定されている地区です。

西方浄土筑紫嶋: 席打駅家推定地 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

北筑昇華苑(火葬場)の北側の丘陵地帯で、すでに古墳がみつかり、石室の発掘調査がおこなわれている。その作業に参加されたT氏の提供写真の一部を掲示する。


黄色の円周付近が調査区域




上の赤丸が調査地区・下の赤丸は北築昇華苑




重機で表土を薄く剥がしていく


手作業で表土を少しっずつ掘っていく


石室が見つかる

石室周辺の調査







土器は半円状に分布




大木の根の間に挟まれた、珍しい形の土器なども発掘された。やがて正式の発表があるだろう。

発掘現場の全景

船原古墳のような多くの出土品は無さそうな感じである。



バランスボール体操

 室内でバランスボール体操でもしようとしらべたら、30種以上のバリエイションがあった。ロートルに出来るのは3,4種だけだ。

写真の説明はありません。
宿理 英彦、安部 礼子、他2人

2022年7月28日木曜日

新宮港

 昨日は義弟が遊びにきたので、ウナギでなく、新宮の海鮮料理店にでかけた。帰りに新宮港を見たいというので、久しぶりに港までいった。あいにく相之島連絡船は出港中だったが、駐車場は車が満車に近い状態で、人の往来は活発なようだった。新宮港が古賀の花鶴港のように埋まらなかったのは、左岸の突き出た半島のお陰である。


2022年7月27日水曜日

バーナード・リーチ

 

バーナードリーチの経歴

リーチは1887年(明治20年)、植民地官僚だったイギリス人の父とイギリス人の母の間に香港で生まれた。リーチの母は出産で死去したため日本にいた母方の祖父に引き取られ、関西に住んだ。リーチの祖父は京都第三高等中学校彦根中学校で英語教師をしていた。

来日から4年後、植民地官僚だった父の再婚にともない香港に戻ったが1895年、父の転勤でシンガポールへ移った。1897年、リーチはイギリス本土に移され教育を受ける。

リーチは1903年、芸術家を志してスレード美術学校ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン付属)に入学するが、翌年父が死んだため銀行員となり1907年からロンドンの美術学校でエッチングの技法を学んだ。

そのとき、ロンドン留学中の高村光太郎と知り合って日本に共感郷愁を抱くようになり、1909年(明治42年)、日本に戻り東京・上野に居を構えた。

リーチは生涯の友となる柳宗悦をはじめ白樺派の青年達と知り合いになり、1917年には彼らの本拠であった我孫子にて版画指導を行った他、イギリスで起こったウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動など西洋芸術についての議論を通して手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合った。

柳宗悦とリーチ

また、リーチは富本憲吉と知り合い、富本とともに訪れた上野の博覧会会場で楽焼の絵付けを始めたことをきっかけに茶道や茶道具に惹かれた。

富本憲吉





リーチは1912年に6代尾形乾山に陶芸を学び、中国から戻った1917年、リーチは我孫子の柳の家に窯を開いて陶芸家としての一歩を踏み出し、後に7代乾山の名を免許された。



益子にて濱田とリーチ

この時、リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、リーチは1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスに移り日本の伝統的な登り窯を開き、1922年にはリーチ・ポタリー」(Leach Potteryという名の窯を開いた。リーチらは、セント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉といったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターした。


リーチと濱田
 


リーチらは陶磁器を芸術、哲学、デザイン、工芸、そして偉大な生活様式の融合したものと見ていたが、西洋人の多くは陶芸を一段低い芸術と考え、彼らの作品を当時の洗練された工業製品に比べて粗野で下手なものとみなしていた。

1934年、リーチはイギリスでの陶芸全般の評価に失望し再び来日日本民藝館設立を目指していた柳に協力した。イギリスに戻って1940年に出版した『A Potter's Book』(陶工の書)はリーチの職人としての哲学や技術、芸術家としての思想を明らかにした本でリーチの名を知らしめるもとになった。



リーチは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護した。リーチは陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えた。このため、リーチの制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカカウンターカルチャーモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼした。

リーチは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望していた。世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていった。

例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。

アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(Warren MacKenzie、マッケンジー自身もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた。)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいる。

ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しリーチと働いて大きな影響を受けた。

また、長年リーチの助手だったマイケル・カーデューオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めた。

なお、たびたび来日し各地で作陶したほか『Unknown Craftsman』(知られざる職人)などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介し、展覧会も開きその理論を解説した。

リーチは1940年、アメリカ人の画家・マーク・トビーとの交友を通じバハイ教に入信していた。1954年イスラエルハイファにある寺院に巡礼に行ったリーチは、「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したいと思います」との感を強くした。

リーチは1972年まで制作を続け、なお世界を旅して回ることをやめようとしなかった。また、リーチは視力を失っても陶芸に関する著述をやめなかったという。

1963年大英帝国勲章(Order of CBE)を受章し、1974年、に国際交流基金賞を受賞している。

1977年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館はリーチの大規模回顧展を開いたが、リーチはその2年後の1979年セント・アイブスで死去した。

リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、リーチやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

夏草や

 夏草の茂る季節に思い出す句。

写真の説明はありません。
新田 昌彰、小笹 淳二、他2人

芭蕉の「自然」の書

 芭蕉の「自然」の書。自から然りなりの境地。

写真の説明はありません。

3夏草の茂る季節に思い出す句。
写真の説明はありません。
新田 昌彰、小笹 淳二、他2人
izu、他