2025年6月4日水曜日

森鴎外と松本清張

小倉は松本清張の出身地であり、その小倉には森鴎外が居た鴎外屋敷跡があるので、清張が若いころから鴎外に関心を持っていたのは当然のことでしょう。

森鴎外

松本清張

桑原武夫の解説のよると、清張は当初菊池寛などからの影響で作品を書いていたが、歴史小説を書こうとした時に鴎外の文体を手本にしたことを清張自身が言っています。

旧鴎外全集を3冊所持して旅行していることも直接書かれており、清張のデビュー当時には全集を手に入れている可能性があります。


私は「或る小倉日記伝」を読んでいたとき、主人公の田上耕作は清張自身ではないかとの思いました。

また読んでいる感触が鴎外の小説みたいだと思いながら読んでいました。

「或る小倉日記伝」を読めばわかるように、かなり鴎外の足跡を研究したのではないか。特に日記は小倉時代も含めてかなり読み込んでいます。


清張の遺作「画像・森鴎外伝」の内容は、著者による森鷗外評伝であり、著者の鷗外に言及した作品としては最も分量の多いものとなりました。

鷗外の生涯および作品内容の知識は前提とされており、加えて鷗外をめぐる石川淳唐木順三高橋義孝などによる言説も吟味の対象とされています。

 松本清張の作家人生が鴎外で始まり、遺作となった「両像・森鴎外」で終わったことに感慨を覚えます。

今月21日に、多胡吉郎氏による「鴎外の長男、森於菟」を紹介する講演会が、古賀市でひらかれます。



鴎外の遺品を守ってきた於菟による「水月ホテル鴎外荘」には、数回宿泊した記憶がありますが、清張との関連など話題になるか楽しみにしています。


2025年6月3日火曜日

老化をとめ若返る方法

 


老化予防の食品は経験的にしられている。


最近の研究で推奨されている方法


オートファジーの研究でも解明された食品






幹細胞の注射は新医学になりそう。





松本清張の「点と線」を歩く

 






現在の駅の姿


2025年6月2日月曜日

棟方志功と小林正一

 

棟方志功展示室 小林コレクションを中心に


棟方志功は多くの文人との交友がありました。

歌人の小林正一氏もそのひとり。その交友は、1959年頃、小林氏が日本経済新聞の歌壇欄に棟方作品を詠んだ歌「志功描く 女の顔はいとあやし 遊女とも見ゆ 菩薩とも見ゆ」を投稿したところから始まります。


この歌が第一位に選ばれたことがきっかけとなり、小林氏は荻窪の棟方の自宅を訪ね、交友が始まりました。
このときの選者は吉井勇。やはり棟方と交友があった歌人で、今回、吉井の歌に棟方が板画を彫った「流離抄」も展示されています。

吉井勇の歌


棟方と小林は意気投合し、1962年年頃からさらにその交際は深まっていきます。
小林は詠んだ歌を棟方に送り、棟方が気に入ったものを気の向くままに板画とし、20点をまとめて《山懐頌》としました。

  • 小林正一歌集『板華頌』(はんげしょう)、志功画、私家版(非売品)1971年

このほかにも小林は数多くの棟方作品を収集していますが、板画だけでなく、棟方に依頼して描いてもらったという肉筆画はとりわけ優れたものです。

小林氏は長野県野沢温泉村の出身で、1973年には棟方の信州スケッチ旅行の案内もしています。
今回は、今年度から寄託いただいている小林コレクションを中心に、青森県庁舎が落成した際に制作された「花矢の柵」など代表作を展示します。

花矢の柵

このほかにも小林は数多くの棟方作品を収集していましたが、板画だけでなく、棟方に依頼して描いてもらったという肉筆画はとりわけ優れたものがあります。


今年の6月安川カレンダー


千早の衣川

 



 

上流部から暗渠へ


暗渠部


河口(博多湾へ)





2025年5月26日月曜日

天安門事件(改訂版)


「天安門事件と私の体験」 

九州工業大学時代に、私の研究室に重慶の大学の助教授が、留学生として1年間滞在していました。(昭和63年:1988)

彼が帰国後、1989年に重慶の大学でのロボット工学の講義依頼の手紙がきました。

日本の夏休み中なら可能と返事をしていましたが、6月4日に天安門事件が発生し、当然講義は中止でした。

しかし9月頃になって、今年中に是非実施したいという要望が届き、12月に1ヶ月間実施しました。

当時は訪中する人も殆どなく、空港やホテルもガラガラで、どこも歓迎ムードでした。

重慶では、大学や工場などでも歓迎され、日本企業の生産方式を学びたいという意欲が感じられました。

だから、次の論評には、大きな違和感をおぼえます。

「 Yosihiro Turusaki 」

中国における反日教育の犯人は『江沢民』 

中国の反日教育目的は「天安門事件」を中国歴史から消す事です。
 では中国反日教育は一体いつから始まったのか?
まず知っておくべきことは、中国歴史教科書の近代史に関しては完全にデタラメ、捏造です。
中国近代史は、中国共産党が大活躍して、現在の台湾『国民党軍』や『日本軍』を撃滅した、というものです。
このような、反日教育を中国は、1980年代『江沢民』政権以降に行われていました。

(1978年に鄧小平が、最高実力者になり、1979年と国交正常化。)
しかし、江沢民政権以前は、中国では反日教育は行われていませんでした。

むしろ中国建国の父と言われた『毛沢東』は
「日本の皇軍のお陰で国民党軍に勝てた」
と語ってた記録が残っています。
江沢民政権が反日教育を始めた理由は諸説ありますが、一番の要因は、何と言っても
 「天安門事件」
です。
天安門事件とは、1989年4月中国学生らが北京の天安門広場に集結し、大規模な民主化要求へと発展。共産党指導部は学生運動を「動乱」と断じ、戒厳令を布告。
軍の部隊を投入し、武力で制圧した事件です。
国当局は死者を319人と発表しましたが「少なくとも1万人以上」と言われています。
この天安門事件当時の中国指導者が江沢民でした。(?)

この事件の後、人民の不満を共産党からそらすために、過去の日中戦争の相手である、日本を悪者にして中国人民の目を日本に向けさせた政策を行ったのが、江沢民です。

(事件当時の最高指導者は鄧小平でした。苦渋の決断で学生を弾圧。
 江沢民が総書記になるのは1989年、国家主席になるのは1993年。)

さて、中国の首都、北京で民主化を求めた学生らの活動が武力で鎮圧され大勢の死者が出た「天安門事件」から6月4日で今年は36年です。
その後の中国政府は徹底した言論統制を続けていて中国の若い世代では事件を知らない人も多くなっています。

私が事件の半年後に、重慶にでかけた時も、現地では殆ど知られていないようで、全く話題に出ませんでした。
大学には、学長の上に共産党幹部が在籍している体制なので、情報管理が厳しいからでしょう。
学生たちは、楽し気にクリスマスのダンスパーティをやっていました。
その後36年たっても、同じ状態なのでしょう。


2025年5月25日日曜日

大塚国際美術館

 


最近のアンケートで、「行ってほしい美術館」は、大塚国際美術館がトップである。

私は国立西洋美術館や足立美術館には以前に行ったことがあるが、大塚や金沢など新しい美術館は、テレビでみるだけである。


大塚国際美術館設立の概要

大塚製薬グループが創業75周年事業として1998年平成10年)に開館した美術館で、西洋名画等をオリジナルと同じ大きさに複製し展示する陶板名画美術館である。

延床面積は29,412m2で、現在は2007年(平成19年)に開館した国立新美術館(47,960m2)に次ぐ日本第2位である

建築費や各絵画の使用料(著作権料)などを含め、総工費400億円

建設の経緯

1971年大塚グループ各社の相談役だった大塚正士の下に、末弟の大塚正富(当時大塚化学技術部長、)らが訪れ、鳴門海峡に面した砂浜で採取したタイルを作る事業を提案。

1973年、タイルを製造する大塚オーミ陶業を大阪に設立するが、その年に第一次オイルショックが発生して景気が低迷。受注のなくなった大塚オーミ陶業の技術を生かすべく、陶板に絵を描いて美術品を作ることを思いつき、その技法を確立。後に大型美術陶板化に成功し、その技術の集大成と大塚グループの75周年記念事業として構想から、使用許可・完成まで10年の歳月をかけ、美術館の建設・設置に至った。



鳴門市を建設場所に選んだのは、第1に鳴門が大塚グループ発祥の地であること。第2に大鳴門橋明石海峡大橋神戸淡路鳴門自動車道が完成し、阿波踊り以外に特段集客能力のない徳島県に、人の流れをせき止める『ダム』の役目がある施設を、両橋が完成する前に建設したいと考えたからであった。

建設にあたり、所在地が瀬戸内海国立公園内であるため、建設許可だけで5年の歳月をかけた。景観維持と自然公園法により、高さ13m以内とするために、一旦山を削り取り、地下5階分の構造物を含めた巨大な建物を造ったうえで、また埋め戻すという難工事となった。

展示

システィーナ・ホール
スクロヴェーニ礼拝堂

展示されている作品は、大塚オーミ陶業株式会社が開発した特殊技術によって、世界中の名画を陶器の板に原寸で焼き付けたものである。オリジナルの収集に拘るのではなく、自社技術を用いてふんだんに作品を複製・展示するという構想は、企業の文化事業としての私立美術館の中でも非常に特異な試みといえる。美術教育に資するべく、作品は古代から現代に至るまで極めて著名、重要なものばかりを展示しており、これらを原寸で鑑賞することでその良さを理解し、将来実物を現地で鑑賞して欲しい、との願いが込められている。

陶板複製画は原画と違い、風水害や火災などの災害や光による色彩の退行に非常に強く、約2,000年以上にわたってそのままの色と形で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献すると期待されている。 この特徴を生かし、大塚国際美術館では写真撮影が一定条件下で許可されていたり、直接手を触れられたり、一部作品を屋外に展示していたりする。




最上階にある部屋に展示されたモネの五点の『睡蓮』などはその性質を生かした好例である。

モネの希望であった白壁の広い空間に、天窓から太陽光が入り、昼間と夕方では、絵のイメージが大きく変化する。







昼と夕方の差





もう一つの特徴として、今は現存しない作品(修復前の、レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の晩餐』・戦火で失われたゴッホの『ひまわり』)や、戦災等で各地に分散されている作品(エル・グレコの大祭壇衝立)を復元するなどの試みも行われている。

原画が消失したゴッホの「ひまわり」

板を組み合わせることで大型化にも対応でき、ミケランジェロの『最後の審判』も、オリジナルの展示環境(システィーナ礼拝堂)全体を再現した「システィーナ・ホール」に展示されている。



5月26日、大塚製薬株式会社が吉野ケ里町の佐賀工場に新たに原薬新工場及び合成技術棟を開設されることが決まり、立地協定を締結しました。
大塚製薬さんは1984年、「佐賀は東アジアの中心」という考えのもと、佐賀県に研究所を設立されました。以来、原薬やポカリスエットなどの生産拠点、また、研究拠点として佐賀での展開を広げていただいています。

2025年5月23日金曜日

死亡間際の脳波

 死ぬ瞬間、人間は何を考えているのか? 死亡間際の脳波を分析した22年の研究例 走馬灯との関連は?

ちょっと昔のInnovative Tech

中国の河南大学やエストニアのタルトゥ大学などに所属する研究者らが2022年に発表した論文「Enhanced Interplay of Neuronal Coherence and Coupling in the Dying Human Brain」は、心停止に至る過程での人間の脳活動を記録・分析した研究報告だ。

研究者たちは、脳出血により心停止に至った87歳の男性患者の死に際の脳波(EEG)を連続的に記録した。患者は転倒後に両側の硬膜下血腫を発症し、手術後にてんかん発作を起こした。その後、左脳の活動が停止し、次いで両半球の活動が抑制され、最終的に心停止に至った。



脳波分析は4つの時期に分けて実施した。発作後と左脳活動停止後、両半球活動停止後、心停止後で、それぞれ30秒間の脳波を詳細に分析した。

 注目すべき点は、両半球の脳活動が停止した後、高周波のガンマ波活動が増加したことである。具体的には、狭帯域ガンマ波(30~60Hz)と広帯域ガンマ波(80~150Hz)の活動が、それ以前の時期と比較して2~5倍に増加した。心停止後は全体的な脳活動は減少したものの、ガンマ波の相対的な割合は依然として高かった。


さらに異なる脳波間の連携関係において、左脳のガンマ波活動は、α波とシータ波によって調整されていた。この調整は心停止後も継続していた。特に左脳活動停止時には、α波によるガンマ波の強い調整を確認できた。

 これらの発見は、臨死体験で報告される「走馬灯」現象と関連している可能性がある。健康な人の脳でも、記憶の想起や意識的な経験には、α波とガンマ波の連携が重要な役割を果たしている。研究者たちは、このような脳波パターンが、臨死状態での最後の人生回顧を神経生理学的に支えている可能性を指摘している。