新宮町では、豪雨のためアクア新宮の浄化施設が水没し、応急的な復旧事業に4億3700万円かかり、長期にわたる完全機能回復までには、概算総額は約45億円の巨額の見通しという。
新宮町は山地から海まで、細長い地形であり、江戸期築造の3本の天井川が、沖田地区の牟田川に集まる。町の主流湊川にくらべると、市販の街図には名前も記入されていない程度の川である。
新宮町では、豪雨のためアクア新宮の浄化施設が水没し、応急的な復旧事業に4億3700万円かかり、長期にわたる完全機能回復までには、概算総額は約45億円の巨額の見通しという。
新宮町は山地から海まで、細長い地形であり、江戸期築造の3本の天井川が、沖田地区の牟田川に集まる。町の主流湊川にくらべると、市販の街図には名前も記入されていない程度の川である。
箱崎生まれ、箱崎育ちの歴史研究者二人の著書を紹介する。
古田鷹治
昭和2年生まれ 昭和15 年箱崎小学校卒業 昭和19年 松山海軍航空隊入隊
昭和20年 復員 九大農学部農学科事務員勤務 25年文部教官助手
平成2年 文部教官講師 平成3年退官 平成17年博多仁和加振興会7代会長
箱崎町一光寺総代 平成20年永眠 80歳
山崎泰輔
明治36年生まれ。 大正7年箱崎小卒業。 大正13年野戦重砲兵隊第五聯隊現役入隊
昭和12年 志那事変応召 昭和21年 箱崎漁業組合理事
昭和49年箱崎町長性寺総代 昭和54年箱崎宮祭典委員
博多・箱崎と豊臣秀吉
医療技術の進展により、先進国では超高齢化社会となり、長寿社会への対応として安楽死がとりあげられ、すでにみとめられて国があります。
安楽死が認められている国
保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年(昭和56年)10月4日)は、日本の文芸評論家。多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆名も用いた。
奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高等学校から東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れた際には竹内が案内役となった。
東京帝大在学中から大阪高時代の同窓生と共に『コギト』を主宰。高校時代のマルクス主義からヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒し、近代文明批判と日本古典主義を展開した。1936年(昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第1回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。1938年(昭和13年)「戴冠詩人の御一人者」で第2回透谷文学賞を受賞。更に亀井勝一郎・中島栄次郎らと『日本浪曼派』創刊に関わり、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで戦争を「正当化」し戦線の拡大を扇動する。
1948年(昭和23年)に公職追放。戦争中の論調から言論ばかりか、その存在が黙殺されるも1958年(昭和33年)に京都の鳴瀧に山荘「身余堂(しんよどう)」を構え、以後を同地で過ごした。
佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」とし、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛し、また、川端康成は「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。
1960年代後半から日本浪曼派が再評価されると同時に論壇に復権し、「祖国」を創刊する傍ら匿名で時評文を書いた。
1981年10月4日、肺癌のため京都市左京区の京都大学結核胸部疾患研究所(現・京都大学ウイルス・再生医科学研究所)附属病院で死去(71歳)。戒名は身余円融普周僉然大居士。
滋賀県大津市の義仲寺の再建に尽力し、分骨の墓所は同寺にある。本来の墓所は、菩提寺から桜井市脇谷公園墓地に移されている。
たが代にか 祝いそめけむ 山かげの 神の祠の 夜半の かがり火
棟方志功 昭和43年10月 かがり火の柵 の 短歌
福岡市東区に九州大学が存在していた頃、学生を対象にした「大学湯」が、近くにありました。
その施設を、文化遺産として、地区の社交場に改造されたことは、FBなどで認識していました。
NETに出ている大学湯の場所は間違っているので、正確な地図を添付していきます。
今日,千早の「なみきスクェア」に、「銀ソーダ作品展」をみにでかけたら、アーティスト 銀ソーダさんが、旧大学湯の建物保存活用プロゼクトの運営管理でも大きな活動をされていることを知りました。
彼女の「記憶と時間の可視化」をテーマに、青を基調とした記憶の海は、「Ginsoda Bulue」と呼ばれている。
絵具の層からは、日々の積み重ねが何かの形となり、人生の軌跡のようなものを感じられます。
大学湯の壁画にも、そのGinsoda Bulueの模様がとりあげられています。
![]() |
| 構図を構想中の作家 |
大学湯の活動には、このプロゼクトのメンバーも活躍しているようです。
私も小学生のころは、よく大学湯を利用していました。
大学生の会話を聞きながら、大学での勉強はどんなものかと興味を持つようになりました。
ある時、一人の学生が、「昨日出されてテーマのレポートを、30枚の回答にまとめてた」と友達にはなしているのを聞いて、驚いた記憶があります。
小学生の宿題なら、問題ごとに数行の回答が普通ですから、大学は大変なところだとかんじました。
大学湯のGinsoda Blueは、そんな記憶を思いださせます。
銀ソーダさんも祖母、母、本人と、3代も大学湯を利用を利用されていたようで、ソーダの名前も本名の化学分子記号が、炭酸ソーダににているからだそうです。
彼が、私が勤めていた九州産業大学の卒業生であることも、親近感を感じさせられます。
この「大学湯」という銭湯は明治43(1910)年春に箱崎浜、現在の筥崎宮・交通安全祈願殿がある場所に開業した潮湯「抱洋閣」の運営が「大学湯」だったことは、絵葉書の画面や諸資料から連想されます。
個人的に、抱洋閣の「大学湯」が現在地へ移転したのが昭和7年頃なのだと思っています。 状況証拠として、昭和7年というのは国道2号線(現・3号線)開設に合わせて箱崎浜が埋め立てられ、国道に半分掛かっていた抱洋閣や箱崎水族館が閉鎖される時期。 抱洋閣の建物跡は、私の子供のころの遊び場所でありました。
箱崎八幡宮の参道で、200mの長い道路図「BLUE WAY」を描かれたことも、地元讃歌として有難いです。
ちなみに抱洋閣の設計は、東京駅や福岡市赤煉瓦文化館などを設計した辰野金吾博士です。
アーティストの目線でまちの文化遺産が進化する。お湯はないけど温かい「大學湯」プロジェクト | フクリパ
母、檀 ヨソ子さんの人生
「だんよそこ」。大正11年、福岡県瀬高町に生まれる。今年も福岡県高校OB/OAのゴルフ大会が、和白ゴルフ場で開かれた。もとメンバーなのでコースの思い出を楽しみながら、TVをみていた。
福岡高校のティームが登場して、いきなり「DA!!OH!!」のタオルを広げたのに、驚いた。
私も同じタオルを持っているからだ。
20年前位の同窓会で配られたタオルなのだか、「DA!!OH!!」の意味は今まで知らないままであった。
テレビでの説明では、1991年に大ヒットした、小田和正の「ラブストーリーは突然に」という歌を、当時の幹事さんが、OH DAを逆にして、DA! OH!にしたらしいという説明であった。
その他、新緑、千代 玄冬 立花 福高讃歌 などをローマ字で記載している。
福高昭和44年卒のチームによりつくられたタオルである。
戦前の卒業生である私の世代では、小田も知らないし、ラブストーリも知らないが、小田が建築工学を専攻した青年であったという経歴を知って、驚いている。
今回のゴルフ大会優勝は、大濠高校で、福高チームはほとんど賞品に縁がなく、バレーボール部100周年で出場しった記念賞だけだったのは、残念であった。
最近たまたま、冷泉町出身の人と、今泉町出身の人に出会った。福岡市の博多区と中央区の差があるが、文字がよく似ているので、混同しやすい。
地名の歴史を調べてみると、古代の博多湾には大きな入江があって、冷泉津と呼ばれていたので、冷泉は古くから博多の広い範囲を含んでいたようだ。その後の町の発展で新しい町名が増え、冷泉小学校も統合されて博多小になり、冷泉小の跡地は地下鉄工事で発見された古代遺跡を展示するための「博多遺跡」を作る計画が進行している。
今泉町の地名は、福岡の中心の天神と、南側の薬院の間に小規模の池あり、今泉池とよばれていたことから、地名になったようだ。田園地帯であったが、黒田の福岡城周辺の寺院地帯となり、多くの寺院がならび、その後天神地区の発展の余波をうけて、街の様子も急変している。
ながく福岡を離れていた身として、二人から近況を聞き、昔を思い出している次第である。
高齢になると、高周波の音が聞こえなくなる。
単に音が聞こえなくなるのであれば、音響拡大装置をつければよいが、これでは雑音まで拡大されて、使えない。
デンマークなどの北欧州の言葉は、子音が多いので、高周波の研究が進み、補聴器の開発も世界の最先端を走ってきた。
Oticon, Widexなどがその例である。この2社で世界の50%を超えているようだ。
日本では高価な補聴器になり、30万円位で2年間保障である。
問題は老人が使用するので、メンテナンスの継続が出来にくいことである。
耳垢により、補聴器の通路の詰りを、2週間に一度掃除すること。
湿気による音響機器の能力低下を防ぎ、乾燥させること。
騒音レベルに応じて、受信レベルの調整を行えること。
などの機能が追加され、最近は使いやすくなってきている。
日本国内のメーカーも早く性能向上を行って、もっと安価なレベルで製品化してもらいたい。
1)昭和40年(1965)下半期より45年7月まで:いざなぎ景気
(テレビ、冷蔵庫、洗濯機からカラーテレビ、自動車、クーラーの時代)
2)平成3年(1991)9月24日:いざなぎ景気を超える。
(天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ソ連消滅の時代)
3) 平成18年(2006)11月22日:いざな景気超えと発表。
(小泉・安部内閣で、58ケ月経済拡大)
その後の景気低迷を予測していた堺屋太一さんは、2000年頃、生産体制の強化や教育体制の見直しを強調していた。
日本の強みは経済大国ではなく、生産大国(ものづくり大国)だから、生産に興味をもつ若者の育成が必要であるが、ソフトや芸術の分野に若者の興味が移った。
しかもマスコミは、生産現場は、「きつい、きびしい、帰れない、結婚できない」など4Kを強調し、大学入学者の工学部離れが進行した。
1990年頃60万人以上だつたが、最近は27万人にどどまった。
製品のブラックボックス化で内部構造がわからなくなり、少年期からものづくり触れる機会がなくなり、起業に入ってから新技術に追いつくのが大変になっている。
NHKの「プロジェクトX」に登場する多くの技術者たちは、現役を退職したあとの「遅すぎる評価」の番組である。
ものづくり企業の労働組合幹部も、経営側と協力して、子供たちを対象にした「ものづくり教室」を全国展開しようと準備しているそうだ。