2025年8月4日月曜日

100歳の回想


 7月26日の玄界義塾での講演を無事終えてほっとしています。猛暑の中予想以上に参加者が多く、有難く思っています。準備した資料が多すぎて、説明したのは5,60%で時間切れでしたが、要点はほぼ話せたと思います。後半の資料を、もう一回話したらという意見も出ましたが、やがて老人ホームに引っ越すので、その後の体調次第になりそうです。無事に満100歳を迎えたら、話すことを考えましょう。

86歳がの時の玄界義塾講話
と今回の講話で、安川電機と古賀の関係にふれた。古賀に安川従業員のために作られて小さな住宅団地がある。戦時中に安川電機は、工場の疎開地として6万坪の土地を購入していたが、敗戦になり返還した。その後住宅公団などに転売されたが、その売れ残りが住宅団地になったらしい。疎開地があった証拠として、市の図書館横の駐車場の道路の側に、安川所有地の杭が残っている。





2025年7月31日木曜日

三角波対策の歴史

 三角波(さんかくなみ)とは、進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる、三角状の、波高の高い波のことである。波の峰がとがっている

例えば、暴風の中心が通る水上などに起こる。暴風域のいたるところで波が発生しているため、それらの波が全て様々な角度で重なりあうためである。また、絶壁や防波堤などの近くでも生ずることがある。入射波反射波が重なりあうためである。また、潮流の向きとの向きが反対の場合にも生じる。

船乗りからは大変恐れられている波である。船が下から繰り返し短い周期で突き上げられ揺れ幅がみるみる大きくなったり、あるいは予測不能なタイミングで突発的に突き上げられるようなかたちになり、突然安定を失い沈没させられてしまうことがあるためである。

中程度以上の大きさをもつ安定した船であっても、あっけなく沈没させられてしまうことがある。経験豊富な船乗りでも打てる手はあまり無く、できることと言えばせいぜい三角波が生じそうな海域には近付かないこと、また入ってしまった場合はその海域から早く脱出すること。 また、転覆や沈没が避けられない状態に陥ったら、敢えて船体を座礁させることくらいしかない、と言われている。日本列島の近海では、東北地方の東海域に多発し、船舶被害も多発していた。明治時代には、外国から輸入した軍艦が三角波で折れて、沈没した事件もあった。

このあたりの海底の地形も複雑で、今回の津波の到来も複雑であったから、三角波に関係しているかもしれない。


九州大学造船学科の組織に属する応用力学研究所で、三角波の造波機をつくり、三角波に強い船体の構造を研究する計画が、昭和30年代後半に、津屋崎の敷地内で始まった。
安川電機の社長安川寛は、東大工学部機械学科の講師だった時代に、栖原教授のもとで学位をもらい、父安川清三郎の急死で、安川電機の社長に就任し、その後栖原教授を研究所顧問に招いていた。
栖原顧問の息子さんが九大の教授で、三角波の造波機開発の担当者だったので、その制御装置の製作を、安川電機に依頼された。
特殊な装置なので、事業部では対応できず、研究所の私の研究部隊が制御装置や駆動装置の設計、製造を担当し、無事三角波を発生させることができた。
当時国内は初めての装置で、海外でもまだ無かったようなので、多くの見学者が来られた。

その見学者の一人に、長崎海洋気象台の石黒鎭雄さんがおられた。

 
明治専門学校(現九州工業大学)電気工学科出身ということで、私も非常勤講師をしていたので、記憶に残っていた。電気屋は波の形をフーリエ変換してエネルギー計算するのが得意で、その成果が認められ、英国のNIO研究所からの招聘をうけて、英国で北海の波の研究に専念されることになった。

当時1954年生まれの長男の一男さんは5歳であったそうだ。すっかりイギリス人として成長した一男さんが、ノーベル文学賞の作家となったので、父の鎭雄さんも[時の人]となった。

九大の栖原教授たちが、NIO研究所を訪問し、石原さんの研究装置を見学したさいの写真がネットで紹介され、晩年の写真も紹介された。



87歳で亡くなれたそうである。

最近では、三角波による事故のニュースも無くなったようである。



2025年7月10日木曜日

五竜号の碑再建

 1944年2月12日。長崎県諫早市高来町の山中に1機の航空機が墜落した。軍民共用の輸送機「五竜号」。50年以上前に慰霊碑も建てられたが、ここ最近は忘れられた存在に。80年前に起きた悲劇の実態をあらためて掘り起こそうと地元の人たちが取り組んでいる。



 今年2月12日。諫早市内の寺で住民と墜落機の犠牲者遺族ら60人が参加し、法要が営まれた。








墜落現場に立つ慰霊碑を前に,墜落事故で亡くなった須田重蔵大佐の孫で、北海道大学医学部の客員教授の須田浩太さん(57)は涙ぐんだ。

「19年前に訪れた際は、亡くなった人々はこんな薄暗い山中で寂しいだろうなと思った。今は明るい空間ができて喜んでいると思う。地元の人たちが心を込めて供養して下さり、感謝しかありません」。

 第2次世界大戦の間、日本の民間航空は自由に乗客を乗せることができなくなり、民間輸送機は軍の管理下で輸送任務を担うことになった。五竜号は日本の支配地域と本土間で効率的に連絡をとるため、航空輸送を独占営業していた大日本航空の双発輸送機。三菱製で爆撃機を改装。「MC-21」と呼ばれていた。




最初の慰霊碑は68年9月、地元の深海地区山林財産管理組合(勝良重友組合長)が建立。50回忌法要を報じる記事(93年2月13日付)を通して、この頃まで供養されていたが分かる。
 「こんな山奥にあるなんて気付かない。忘れてはいけない戦争の歴史なのに」。

中溝さんら3人は転がっていた線香台のかけらを拾い集め、線香をたき、手を合わせた。より分かりやすい場所に碑との距離を示した案内板を設置した。




私の叔父「狩野 毎」も、乗員の一人として戦死した。わが夫婦は、以前の記念碑の場所を訪ねて、お参りした。私の母の一番年下の弟だったので、大日本航空のパイロット時代は、雁ノ巣空港に来た時は、いつもわが家に泊まっていた。


日米開戦で軍属となり、シンガポールの海軍輸送隊の隊長をつとめていた。下の写真の左下。






記念碑を下山し、麓の曹洞宗の寺でお経をあげてもらった。母の実家は曹洞宗であったからだが、偶然にも古賀の小山田の長勝禅寺と兄弟寺であった。

https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2024/08/blog-post_14.html

2025年7月6日日曜日

アブダビ政府の「サディヤット文化地区」プロゼクト。


アブダビ政府が推し進めている一大国家プロゼクト「サディヤット文化地区」の構想は偉大である。
 

その国家プロゼクトに、日本の「チームラボ」が選ばれたのは、一つの出会いが、きっかけであったようです。
チームラボのメンバーの一人が、父親の仕事の関係で、5歳の時からアブダビで育ち、多くの友人がいたそうです。
日本の「チームラボ」が有名になり、幹部が来日したとき、そのメンバーと再会し、採用の話が即決したそうです。
(福岡でもPayPayドーム福岡の隣で、「チームラボ」の作品が見れるようです。)

福岡の作品



アブダビの現場1


アブダビの現場2

作品1

作品2

作品3

レーザー装置


グループラボの東京事務所

2025年7月5日土曜日

沖縄トラフの図

沖縄トラフで地震が多発している。また政治的境界も微妙な地域である。

 





2025年7月2日水曜日

千住鎭雄教授夫婦の子育て


千住鎭雄教授は、慶応義塾大学で経済性工学を創設され、日本産業の生産性向上に貢献された。特にわたしが参画していた日本VE協会の活動では、その理論的指導者として何回の指導講義をされた。

当時から先生の子供さんが芸術界で有名人であることは知っていたが、最近のテレビで、3人の子供さんの教育に、先生と奥さんが、非常にユニークな方針で臨まれたことをしり、その概要をまとめてみた。

 



幼児期から子供のお絵描きや楽器操作などに、両親は積極的で、自由に遊ばせる方針であった。


真理子が2歳3ヶ月から、3人ともヴァイオリンの練習をはじめた。


一番上達したのは真理子さんだった。
3人とも慶応義塾の幼稚舎から、小・中・高と進学した。
母親の文子さんは、子供たちの行動を、すべて褒めて褒めまくる態度であった。
父親の鎭雄は、長男の博が落書きをしていて、父がきたのでやめた時に、「何故やめたのか。
最期までしっかりかきなさい。出来たら見てあげるから」といったそうだ。


絵がすきだった博は、慶応義塾大学に進まず、浪人して東京芸術大学へ入学し、画家の道を進んだ。
アメリカにわたり、修行して新手法で独特の瀧の絵を描き、国際的な画家となった。



真理子はヴァイオリンの才能に恵まれ、12歳でプロデビユーした。母文子は真理子の活動に掛かり切りであった。



国際帝なプロになった真理子は、世界最高のバイオリン「デユランティ」を手にいれた。

かってローマ法王が所持していたもので、その後富豪が所有していたが、遺言で優秀なバイオリン演奏者に贈ることになり、選考の結果、千住真理子が選ばれたという。
その保存のための住居は鉄骨作りの部屋で、温度、湿度、警備などの条件
が厳しいそうだ。

博と真理子の間の明は、二人ほど特殊才能がなく、留守がちな両親のため食事作りで家族をささえていた。

兄や妹のようになれない苦しみで、友人と音楽バンドをつくり、その活動にのめりこんでいた。

街のバンドでは、、楽譜に書かないで自由に弾いていい雰囲気があった。




その様子を見ていた兄の博が、「バンドは日陰の身の音楽だ。それを日向の世界に引っ張りだせ。そのために音楽大学に入れ。」と諭した。
心機一転して明は東京芸大音楽学部作曲科に入学した。

その後作曲家として活躍し、TV作品などの音楽を多数てがけたいる。







両親もなくなったが、三兄妹はみんな、自分が親のような気分になって、お互いをたすけあっている。



今年3兄弟妹は、25年ぶりに3人が同じステージに登場する舞台をひらいた。