7月26日の玄界義塾での講演を無事終えてほっとしています。猛暑の中予想以上に参加者が多く、有難く思っています。準備した資料が多すぎて、説明したのは5,60%で時間切れでしたが、要点はほぼ話せたと思います。後半の資料を、もう一回話したらという意見も出ましたが、やがて老人ホームに引っ越すので、その後の体調次第になりそうです。無事に満100歳を迎えたら、話すことを考えましょう。
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86歳がの時の玄界義塾講話 |
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86歳がの時の玄界義塾講話 |
三角波(さんかくなみ)とは、進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる、三角状の、波高の高い波のことである。波の峰がとがっている。
例えば、暴風の中心が通る水上などに起こる。暴風域のいたるところで波が発生しているため、それらの波が全て様々な角度で重なりあうためである。また、絶壁や防波堤などの近くでも生ずることがある。入射波と反射波が重なりあうためである。また、潮流の向きと風の向きが反対の場合にも生じる。
船乗りからは大変恐れられている波である。船が下から繰り返し短い周期で突き上げられ揺れ幅がみるみる大きくなったり、あるいは予測不能なタイミングで突発的に突き上げられるようなかたちになり、突然安定を失い沈没させられてしまうことがあるためである。
中程度以上の大きさをもつ安定した船であっても、あっけなく沈没させられてしまうことがある。経験豊富な船乗りでも打てる手はあまり無く、できることと言えばせいぜい三角波が生じそうな海域には近付かないこと、また入ってしまった場合はその海域から早く脱出すること。 また、転覆や沈没が避けられない状態に陥ったら、敢えて船体を座礁させることくらいしかない、と言われている。日本列島の近海では、東北地方の東海域に多発し、船舶被害も多発していた。明治時代には、外国から輸入した軍艦が三角波で折れて、沈没した事件もあった。
このあたりの海底の地形も複雑で、今回の津波の到来も複雑であったから、三角波に関係しているかもしれない。
1944年2月12日。長崎県諫早市高来町の山中に1機の航空機が墜落した。軍民共用の輸送機「五竜号」。50年以上前に慰霊碑も建てられたが、ここ最近は忘れられた存在に。80年前に起きた悲劇の実態をあらためて掘り起こそうと地元の人たちが取り組んでいる。
今年2月12日。諫早市内の寺で住民と墜落機の犠牲者遺族ら60人が参加し、法要が営まれた。
墜落現場に立つ慰霊碑を前に,墜落事故で亡くなった須田重蔵大佐の孫で、北海道大学医学部の客員教授の須田浩太さん(57)は涙ぐんだ。
「19年前に訪れた際は、亡くなった人々はこんな薄暗い山中で寂しいだろうなと思った。今は明るい空間ができて喜んでいると思う。地元の人たちが心を込めて供養して下さり、感謝しかありません」。
第2次世界大戦の間、日本の民間航空は自由に乗客を乗せることができなくなり、民間輸送機は軍の管理下で輸送任務を担うことになった。五竜号は日本の支配地域と本土間で効率的に連絡をとるため、航空輸送を独占営業していた大日本航空の双発輸送機。三菱製で爆撃機を改装。「MC-21」と呼ばれていた。
最初の慰霊碑は68年9月、地元の深海地区山林財産管理組合(勝良重友組合長)が建立。50回忌法要を報じる記事(93年2月13日付)を通して、この頃まで供養されていたが分かる。
「こんな山奥にあるなんて気付かない。忘れてはいけない戦争の歴史なのに」。
中溝さんら3人は転がっていた線香台のかけらを拾い集め、線香をたき、手を合わせた。より分かりやすい場所に碑との距離を示した案内板を設置した。
千住鎭雄教授は、慶応義塾大学で経済性工学を創設され、日本産業の生産性向上に貢献された。特にわたしが参画していた日本VE協会の活動では、その理論的指導者として何回の指導講義をされた。
当時から先生の子供さんが芸術界で有名人であることは知っていたが、最近のテレビで、3人の子供さんの教育に、先生と奥さんが、非常にユニークな方針で臨まれたことをしり、その概要をまとめてみた。
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