調査結果の展示場での写真集:
古賀市の篠林地区開発で、前方後円墳ではないかと調査されていた遺跡は、二つの円墳が接近しているものと判明したそうだ。残念ながら古賀市初の前方後墳発見の夢はながれた。
大河「いだてん」で組織委員会の津島会長と事務総長の田畑が、喧嘩両成敗で辞めさせられた。その理由は当時の新聞にもでなかったが、ドラマでは詳しく演じられた。
明治44年(1911年)、内田康哉は、第2次西園寺公望内閣で初めて外務大臣に就任。
中國で孫文らの革命がおこり、その対応に苦慮する時代であった。軍部の勢力がつよくなり、二個師団増設要求を拒否した西園寺内閣は、1年半で総辞職しました。
その後4年程、東京での生活が続き、大隈内閣から寺内内閣に変わったとき、内田はロシア大使に任命されます。ロシア革命の前夜で、社会情勢は不安に満ち溢れていました。政子の父が死亡したため、一旦帰国したが、再度出かける頃は、外務省が危険と判断して止めたようです。
内田も、日本のシベリア出兵に反対するため、病気保養の名目で帰国しましたが、寺内内閣は強行してしまいました。
大正7年(1918年)には、原敬内閣で、二度目の外務大臣となりました。
平民宰相として人気を得ていた原敬が、大正10年(1921年)11月4日に暗殺されると、11月13日まで内田康哉が臨時首相を務めています。
その直後の高橋是清内閣で三度目の外務大臣させるを務めました。清国公使:
明治34年、小村寿太郎清国公使が桂内閣の外務大臣に起用され、その後任に内田康哉が選ばれた。康哉36歳、政子30歳。
5年以上の長い期間、日清戦争後の清国の要路と連携して友好ムードをつくり、ロシアの陰謀画策を打破し、ついに日露戦争中の清国中立までに漕ぎつけた。
政子は西太后や要人との交流をかさね、一緒に写真をとるなどの活躍をしている。
明治38年9月、ポーツマス条約の締結で日露戦争はおわった。日清間でも満州での権益、遼東半島の租界と鉄道支線の譲渡問題などの交渉を終え、内田は清国公使の任務を辞した。
オーストリア大使:
明治40年に内田はオーストリア大使を命じられ赴任する。当時はハンガリーまで含む大国であった。
その2
内田(土倉)政子
1871~1946、1889年同志社女学校本科卒
内田政子の父は「大和の山林王」と称えられた土倉庄三郎である。
彼は同志社に多額の寄付をしたのみならず、六男五女のうち、男子は全 員、女子四人を同志社で学ばせた。
そのうえに、二女の政子を私費でアメリカに留学させた。
同志社女学校卒業生の中で留学生第一号であった。明治23年、19歳の時であった。
留学先はプロテスタント・クエーカー系の名門女子大学、
ブリンマー大学と決まったが、その予備校として選ばれたカークス・スクール校長アビー・カークも
「驚くほどの先見の明と決断力、自制心の持ち主で、日本の誇り」
と政子を絶賛した。
留学中3年間は、再度渡米してきた津田梅子と一緒であった。政子の姉
富子が、有名な実業家原六郎の妻であり、二人が渡米してきて政子や梅子にあい、富子だけがしばらくホームステイして、二人の世話をした。
このころ渡米した実業家松本健次郎も、政子、梅子の二人の在学生と交流している。
七年に及ぶブリンマー時代に英・独・仏語をマスターしていた政子は、
帰国後、挨拶に行った外務省で通称局長の内田康哉に出会う。
彼は政子に一日で魅了され、上司の陸奥宗光を介して即結婚を申し込んだとされているが、原六郎が多くの銀行や会社の社長を務めており、陸奥宗光とも親しい間柄だったので、内田康哉のことも知っていて、義妹の結婚相手にふさわしい考えたのであろう。
婚約時代の二人は英文で恋文を交わしたと伝えられている。
政子が本場アメリカで身につけた流暢な英語力と抜きんでた社交の才により、公使夫人として最初の赴任地となった北京では、
社交界の中心となり西太后の絶大な信頼を受けた。
内田の姉:原富子は、原六郎と結婚。尊王武士だったが、維新以後は実業家。
内田 康哉(うちだ こうさい / やすや、1865年9月29日〈慶応元年8月10日〉- 1936年〈昭和11年〉3月12日)は、日本の外交官、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。
明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物で、戦前の日本を代表する九州出身の外政家だが、あまり知られていない。
私の先輩で八代出身の山口氏の縁戚になり、詳しく調査されているので、その概要をまとめた。
1)独身時代:
熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国八代郡竜北(現・熊本県八代郡氷川町)に生まれる。
八代郡鏡町にあった名和童山の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東大に進学。
明治21年、ワシントン公使館勤務。陸奥宗光公使の助手となる。
明治23年、帰国。陸奥宗光が農商大臣となり、その秘書官となる。また陸奥が外務大臣となると庶務課長になる。
明治26年、英国勤務。
明治28年、清国勤務。
明治30年、帰国し、通商局長に任命される。
明治32年、米国留学(明治23~30年)から帰国した土倉政子と結婚。
注)その後の要職歴:
内閣 | 第2次西園寺内閣 |
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在任期間 | 1911年8月30日 - 1912年12月21日 |
内閣 | 原内閣 高橋内閣 加藤友三郎内閣 |
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在任期間 | 1918年9月29日 - 1923年9月2日 |
内閣 | 原内閣 |
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在任期間 | 1921年11月4日 - 1921年11月13日 |
内閣 | 加藤友三郎内閣 |
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在任期間 | 1923年8月24日 - 1923年9月2日 |
第44代 外務大臣 | |
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内閣 | 齋藤内閣 |
在任期間 | 1932年7月6日 - 1933年9月14日 |
新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。
毎年11月23日に宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。同じ日に全国の神社でも行われる。
戦後は、勤労感謝の日にかわって、新嘗祭の名前も忘れられている。
新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告をし、これらを神からの賜りものとして自らも食する儀式である。
なお、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭という。昨年は令和の年で、11月13日に行われた。
福岡平野を中心に環博多湾地域の古代製鉄遺跡の考古学的調査は、中山平次郎、深江嘉和、大場憲郎、大沢正巳、柳沢一男らの報告がある。その代表的な鉄滓出土遺跡分布図は次の図である。
鉄滓 出土遺跡 製錬跡 鉄滓供献古墳 性格不明跡などを含めて、つぎの地区ごとにその遺跡数を示す。
糸島・今宿 57
早良 100
福岡 13
太宰府 8
粕屋 8
津屋崎 15
福岡市の西部に製鉄遺跡が圧倒的に多い。
製鉄関連遺跡の年代の明確なものは、次のとおり。
古墳鉄滓・出土鉄滓 製錬遺跡
6C (今宿大塚古墳鉄滓) (大叉住居跡鉄滓)
7C (古墳供献鉄滓) コリノ遺跡 野方遺跡
8C 「和白遺跡」 「笹栗遺跡」 下山門遺跡 野方遺
9C 下山門遺跡 門田遺跡
13C 多々良遺跡 鹿の脇遺跡
上の地図のように、多々良村にも鉄滓出土遺跡(no.77)の比較的に新しい13Cの遺跡がある。調査結果では、方形の溝で区面された鍛冶場と推定され、ほぼ中央部に火床が検出された。地方歴史書では、蔵の元・津屋・古川あたりに遺跡があったとかかれている。
多々良という地名:
地名学者によると、たち、たつ、たて、などは台地、傾斜地を示し、ラは、そこら、あちらの場所をさす。
多々良の地名が、古代製鉄所跡という説もあるが、タタラの地名が北部九州に16か所あるなかで、多々良村だけに製鉄所跡があり、また他の製鉄所跡の地名に、タタラがないので、この説は疑問視されている。
しかし、多々良遺跡が注目される歴史的釣り鐘がある。
京都の妙心寺は、花園天皇の離宮があったところで、この寺にある国宝の梵鐘は、多々良村で作られたものとされている。研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされている。
鐘銘によれば、時代は698年(日本最古)で、場所は「粕屋」、工匠は「広国」と記されている。当時粕屋の評造だった舂米連広国が鋳造させて寄贈したらしい。
高さ約1.5m、口径約86cm、重量約830kgの古鐘には記念銘があり、そこには「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」と書かれている。春米連は粕屋の屯倉を管理していた豪族であった。
細川幽斎の「九州道の記」にも、
船を遥かなる干潟のさきへまわして、多々良浜に徒にていきて、
「いにしへは ここに鋳物師の跡とめて 今もふみみたる たたら潟かな」とよんで
いる。幽斎も多々良の鋳物師の歴史を知っていたらしい。
この鐘は7Cに鋳造されたから、前述の13Cの多々良遺跡で作られたものではない。
名島の多々良地区には、その他の遺跡が多いが、考古学的に7Cの多々良製鉄遺跡が、明確に発掘調査されることを願うものである。
10月下旬の映画会は、「最高の人生のつくり方」だった。
名護屋城本丸は勿論、豊臣秀吉の陣営であるが、大河「麒麟が来る」、「どうする家康」などに登場する主な人物のなかで、名護屋城の陣営に参加したものの跡をさがしてみた。
当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人となるが、文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。なお、豊臣秀吉の四国征伐時の豊臣軍の兵力は約10万、九州征伐時は約20万、小田原征伐時は約20万であった。
陣営配置の詳細図のブロッグhttp://hizen-nagoya.jp/bunroku_keicho/index.html
文禄元年(1593年)の文禄の役には御後備衆の筆頭として300人を率いて従軍したが、前年3月5日に発布された同軍役之定により、江・尾・濃・伊の4カ国の大名は1万石につき350人を出すという規定であった。
文禄3年(1594年)5月26日、名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際には、同室はしなかったが、次之間にて木下勝俊ら以下9人と共に控えていた。
細川忠興
文禄元年(1592年)からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。
毛利輝元
文禄元年(1592年)2月、輝元は秀吉の朝鮮出兵に応じ、朝鮮へと渡海するために広島城を出発し、4月に小西行長が先陣として朝鮮に入ると、諸将もそれに続き、輝元率いる3万の軍勢は六番隊として朝鮮に入り、5月に星州に布陣した。
6月、輝元は開寧に陣を進め、五番隊と連携して日本軍連絡線の守備に就いた。開城陥落後、諸将は漢城で軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決め、輝元は七番隊として慶尚道を制圧することとなった。輝元は同月の茂渓の戦いや8月の第一次星州城の戦い、9月の第二次星州城の戦いなど、慶尚道において朝鮮軍と激戦を繰り広げた。
文禄2年(1593年)3月、日本と朝鮮の援軍たる明との間で講和交渉が進められると、8月に輝元は朝鮮から帰国した。
文禄4年(1595年)7月、秀吉の甥で関白・豊臣秀次が高野山で切腹させられる、いわゆる秀次事件が発生した。この事件は、輝元と秀次がかつて交わしたという誓約が発端となっているとされてきた。しかしながら、輝元と秀次が誓紙を交わしたとする確証は存在しない、とする反論もある。
同年8月、輝元は秀次事件を克服しようと考える秀吉より、徳川家康らとともに五大老に任じられた。
同年10月18日、長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が誕生しが、輝元は従兄弟である秀元(穂井田元清の子)をすでに養子としており、秀吉からも輝元の後継者として認められていたため、その処遇が問題となっていた。慶長2年(1597年)2月、秀吉は明との和平交渉が決裂したことで再度の朝鮮出兵を命じ、西国諸将に動員令が発せられた。だが、輝元はこのとき病身のため出陣できず、養子の秀元が代わりに出陣した。この時の兵力は文禄の役と同じ3万であり、秀元もまた輝元と同様に各地で奮戦している。