2013年4月30日火曜日
みちのくの歴史
これは百済から逃亡してきた人たちの技術により発見された日本で最初の金資源であった。
源平合戦で勝利した源頼朝が、引き続いて義経をかくまった藤原を壊滅させたのは、この金が本当の狙いであったようだ。
2013年4月29日月曜日
長寿と薬
長寿の秘訣は薬草に詳しく、駿府の城に薬草園をつくらせ、自分で調剤していたという。
古賀作一さん99歳だが、やはり薬に詳しく、サプリメントや蜂蜜液の調合などをされている。
少し見習って、まずは蜂蜜からはじめてみよう。
2013年4月28日日曜日
多神教から一神教へ
しかし内村鑑三は多くの神に祈る神道から一神のキリスト教に変わってほったしたといっている。
仏教でも、曼荼羅の密教よりも、阿弥陀如来だけの浄土宗、浄土真宗が大衆に普及した。
大衆はシンプルな考えの方がわかり易いからだろう。
2013年4月27日土曜日
極楽浄土と浄瑠璃界
西方極楽浄土の教主は阿弥陀如来、これに対して東方浄瑠璃界の教主は薬師如来。
夜明けとともに瑠璃色に輝く東の空は、命が新しく生まれる世界、
日没とともに金色に輝く西の空は、命を迎え入れてくれる極楽浄土。
昼間の太陽の輝く天空の教主は大日如来の金剛界であろうか。
2013年4月26日金曜日
イタリア映画 鉄道員
頑固すぎる鉄道員の家族で、葛藤と分裂がおこり、家庭破滅に近い状態になる。かわいい末っ子の活躍で、最後はすこしずつ綻びが解消し、ハッピーエンドとなり、主人公の死で終わる。
見終わって今までの活劇に無い哀愁感が残った。
2013年4月25日木曜日
歴史に埋もれた人物
新撰組の斉藤一、奇兵隊の赤禰武人などである。
しかしネット検索すると、結構詳しく記載されている。私たちが知らなかっただけだ。
近藤勇が処刑されたあとの新撰組のリーダだった斉藤一は、会津戦争でも戦い、明治維新後の西南戦争でも戦ったという。
高杉晋作が奇兵隊を4ヶ月で退いたあとを纏めた赤禰武人は、その後の政変の狭間で、処刑されたという。その墓は平成になって作られたそうだ。
2013年4月24日水曜日
浄土の教と仏像と仏壇(改訂版)
親鸞は29歳から35歳まで法然の教えを受けた。 |
ともに阿弥陀如来を本尊としている。
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味である。
アは無、ミターは計測の意。「無量寿経」というお経もある。
阿弥陀如来 |
アフガニスタンなどで仏教が抑圧され、遺跡などが破壊されたという情報が、日本にも伝わってきたが、平安末期にも世相不安と重なって末法思想がおこり、阿弥陀さまが本尊として登場したのだ。
NHKの趣味Do楽の仏像拝観手引で教えられた。
西方極楽浄土の教主は阿弥陀如来、これに対して東方浄瑠璃界の教主は薬師如来。天台宗や真言宗の本尊である。
薬師如来 |
日没と共に金色に輝く西の空は、命を迎え入れてくれる極楽浄土。
昼間の太陽の輝く天空の教主は大日如来の金剛界である。
真言宗の本尊である。
大日如来 |
阿弥陀さまは、お釈迦さまの弟子の一人と思っている人が多いし、私もかってはそう思っていた。
しかし南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の、
「南無」はnamo(sanskrit)の音写語で「わたくしは帰依します」と意味しており、
また「阿弥陀仏」は、そのサンスクリット語の「無量の寿命の大仏(amitaayus)」「無量の光明の仏(amitaabha)」の「はかることのできない」という部分のamita(sanskrit)を略出したものである。
「無量の寿命の大仏に帰依します」というお祈りの言葉である。
一遍上人は最初に
「唱えれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして」
と教えたが、更に信仰を深めて
「唱えれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
と教えた。
念仏の声が聞こえるあいだは、まだ我が消えていないから、無心に念仏をとなえるところまでになれ、ということだ。
釈迦如来 |
2013年4月21日日曜日
古賀市に新名所(船原古墳)
今日はその現地説明会にでかけた。
以前に見学した船原古墳(装飾古墳)のすぐ近の農地で、田圃の区画整備事業の工事中に発見されたという。
船原古墳の馬具は木製部分は腐敗して金属部分だけが散乱して残っているので、素人がみてもよく解からない形状をしているが、白色に近い金色の金属だけは輝かしいものだ。
藤の木古墳の馬具は、古墳の石室のなかに置かれていて、男女二人の遺骨の後に入れられてものだったので、その埋葬者と馬具の関係をいろいろ歴史家や小説家が推測しているが、船原古墳の埋葬者はまだあまり議論されていない。
この周辺には谷山神社や小山田斎宮、聖母屋敷跡があり、谷山川の上流域だから、古代から多くの住民がすみ、有力豪族が存在していた可能性が高い。船原という地名から、船で海岸まで容易に出入りできた場所だったであろう。
考古学的な年代推定は580~620年位で、磐井の乱の後の時代だから、磐井を制圧した物部の一族か、磐井一族の残留者か、または糟屋屯倉の管理者となった舂米連の一族が住み着いたのか、或いは谷山銅山の採掘関係者の集団か、色々考えられる。
2013年4月20日土曜日
孔子と孝子
親が貧しい家庭であったということが知れ渡るのをきらうからだ。
孔子さまはこんな現象を予想しただろうか?
2013年4月18日木曜日
大森治豊と赤星研造
山形県上山市出身の医者で、東京大学医学部卒業後、福岡県立病院の設立のため福岡市に赴任した大森治豊は、県立病院を拡大させ、これを基盤として九州大学医学部(当初は京都大学の九州分校)に発展させ、初代学長をつとめたた功労者である。九大内には彼の銅像や大森通がある。
福岡出身で黒田藩の派遣留学生で、オランダに留学した赤星研造は医学を学び、プロシャ(普仏)戦争に従軍後、帰国して東大教授になっていたが、大森を教えたのだろうか、またなぜ福岡の県立病院に戻らなかったのだろうか?
彼は結局東大を追われて宮城医学校に移り、あとは仙台で開業したという。東北と九州の人材交換となった。
そういえば九州大学が総合帝国大学となるときの総長も会津出身の山川健次郎で、今の大河ドラマにも後半に登場するそうである。
悲劇の加藤司書
明治維新の2年前に処刑された加藤司書も銅像になって良さそうだが、藩内事情だけの処刑だったためか、広く知られていない。
しかし彼の祖先は黒田官兵衛を荒木村重の城から救い出した人物であり、妻は野村望東尼の親類というから、歴史的興味は大きい。
平野国臣よりもはるかに身分が高く、直接会話したことなど無かったようだ。
天埜川
山川、海山、野山、空海、天海などは2体で、3体を含む言葉は少ない。
天の川は宇宙のなかに川を幻想したものだが、「の」をより具体的に「埜」とすると、3体のイメージがあらわれる。
天埜という人名はたまにあるし、天埜川も芸名かペンネイムに使われているようだが少ない。
左右対称の字体もいいのでペンネームとして利用しよう。
2013年4月15日月曜日
毛利軍が大友の立花城を攻撃{永禄十二年(1569)}遠矢原の戦
筑前立花城(福岡県新宮町)は博多の北北東、直線距離にして約八キロメートルの位置にある山城で、戦国期には幾度となく争奪戦が繰り広げられました。私の家から1Kmくらいの山城。
1)これにまず目を付けたのが周防大内氏でした。天文元年(1532)三月、大内義隆は立花親貞の拠る立花城攻略に成功、これより大内氏の支配するところとなりました。
毛利も急ぎ清水左近将監らを救援に向かわせ、さらに吉川元春・小早川隆景らにも出陣を命じます。
小早川隆景 |
4)立花城奪還を目指す毛利は、翌十二年(1569)になって吉川元春・小早川隆景らに四万の兵を与えて出陣させ、この四月十五日一斉に攻撃を開始しました。
5)念願の立花城奪回を果たした毛利でしたが、地元で再起を図る尼子勝久の挙兵や大内輝弘の蜂起など、出雲・周防で重大事件が勃発したため、大友氏との衝突を避け、浦(乃美)宗勝らにわずかの兵を与えて城を守らせ本国へと退陣しました。
6)この後元亀元年(1570)二月、またもや立花城は大友氏に帰し、一連の戦いで戦功を挙げた戸次鑑連が城督として入りました。
2013年4月14日日曜日
「巌流島の決闘」4月13日
2013年4月11日木曜日
歴代の黒田(福岡)藩主
3代藩主光之1654年-1688年は、藩儒貝原益軒に命じて黒田家正史の『黒田家譜』を編纂させた。
それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参の鎌田昌勝や立花実山を家老として新たに登用し、藩士の序列統制や幕末まで続く福岡藩の政治体制を整えたといえる。
4代藩主綱政1688年-1711年は、東蓮寺藩主から福岡藩主となった。第二の黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きる。
5代藩主宣政1711年-1719年は、生来病がちであり領地筑前に中々入ることができず、叔父の直方藩主・黒田長清が代理として藩政を助けた。
6代藩主継高1719年-1769年は、直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千余石となり廃藩置県までこれが表高となった。藩祖孝高の血統としては最後の藩主。
7代藩主治之1769年-1781年は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる。養父の継高は黒田一門、重臣達と協議の上、福岡藩の永続を優先に考え、徳川家から養子を迎えた。
8代藩主治高 1782年-1782年は、婿養子(末期養子)として多度津藩・京極氏から迎えたが早世し、妻子も無く1代限りの藩主であった。
9代藩主斉隆1782年-1795年は、御三卿・一橋徳川家からの婿養子。11代将軍徳川家斉は同母で実兄である。天明4年(1784年)に修猷館(しゅうゆうかん)、甘棠館(かんとうかん)の藩校2校を興した。
そのうち修猷館は福岡県立修猷館高等学校として現在も福岡県教育の主導的地位を誇っている。
10代藩主斉清1795年-1834年は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。
11代藩主長溥1834年-1869年は 、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。
12代藩主・初代知事1869年-1869年長知は、伊勢津藩・藤堂氏からの養継嗣。能楽を好み、多くの能楽師達を支援した。最後の筑前福岡藩藩主。初代福岡知藩事となった。贋札事件により廃藩置県に先立って解任。
2代知事有栖川宮熾仁親王は、解任された長知に代わって最後の知藩事に就任。まもなく廃藩置県を迎える。
明治天皇のご意志で、明治元年5月1日付の太政官布告で(嘉永6年=1853以来の)「国事ニ斃レ候諸士及ビ草莽(そうもう)有志」を「東山の佳域」すなわち霊山を聖域として、殉国の志士が祀られることになりました。
木戸孝允・松子夫妻を始め、坂本龍馬、中岡慎太郎ら、祀られている3100余柱のうち墓碑(合葬墓を含む)の確認されているのは386柱です。
主な志士は、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、武市半平太、木戸孝允、梁川星巌、徳川斉昭、梅田雲浜、真木和泉守、平野国臣、橋本左内、頼三樹三郎、中山忠光、伴林光平らです。
昨日は顕彰会福岡県支部の講演会で、「幕末・明治ー激動の福岡地方史」シリーズのなかで、幕末の黒田藩主、藩校、人材の話でした。
昨年からのシリーズで、平野國臣、加藤司書などは既に紹介さらたのか?触れられずに、金子堅太郎、団琢磨など黒田藩派遣海外留学生の話でした。松下嘉一朗など日本人ではじめてスイスに留学し、後に福岡市長になった人物もいました。
留学後、東大教授の要職につきながら、黒田藩に対する偏見で迫害され、自殺した人や地方の大学に移った人の話などは、初めて耳にしました。
黒田長溥 |
11代藩主黒田長溥(斉溥)は、9代島津藩主、島津斉宣の末弟で、黒田家の養子にはいった人物です。
ぺりー来航のときには積極的な開港論(貿易立国論)を建白したくらいに先見性をもっていたし、長崎に留学生を派遣し、洋式技術の導入に努め、東中洲には精錬所・反射炉をつくり、外国から蒸気船を購入し、様式軍隊の訓練を取り入れたりしました。
一時は薩長同盟の動きを模索していたが、倒幕論までの決意がなく、西郷らの薩長同盟締結の3ケ月前に、乙丑の獄で加藤司書、月形洗蔵らの尊攘派を処分したため、明治政府から軽視される結果となってしまったようです。
家康、島津氏赦免を誓約 慶長七年(1602)4月11日
慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原において西軍に加担していた島津義弘は壮絶な敵中突破を行って戦場からの離脱に成功、苦労を重ねて本国にたどり着きます。
2013年4月10日水曜日
【後藤又兵衛誕生】永禄三年(1560)4月10日
今日4月10日は後藤又兵衛基次が後藤基国の二男として播磨姫路南山田に生まれた日。
(後に黒田家の猛将として数々の戦いに活躍、後に大坂の陣で壮絶な戦死を遂げた後藤又兵衛基次。)
この日播磨別所氏配下の土豪・後藤将監基国の二男として姫路南山田に生まれました。幼名は弥太郎、長じて又兵衛のち隠岐守を称します。
播磨後藤氏は羽柴秀吉の中国侵攻により所領を失いますが、又兵衛は黒田孝高のもとで養育されました。しかし母の兄・藤岡九兵衛が逆心を抱いたため黒田氏から警戒され、又兵衛は天正九年(1581)に秀吉の臣・仙石秀久に預けられます。
黒田の中津藩時代に彼が居た豊前伝法寺には又兵衛屋敷跡といわれる場所があり、これは中津藩時代に築上郡の治安を又兵衛に命じていたので、ここに滞在していた屋敷跡らしいです。
こちらは、10年くらい前には竹林であったが、今は整備されて駐車場となっています。
又兵衛はこの戦いで「亀甲車」なる木製の人力戦車を操り、加藤清正の重臣・森本儀太夫や飯田角兵衛らとともに一番乗りを果たします。
関が原戦の後に長政が筑前一国五十二万石を与えられ福岡に入部すると、又兵衛は筑前益富城(大隈城:福岡県嘉穂町)代として一万六千石を領しました。
益富城石垣 |
益富城地図 |
益富城跡と小川県知事 |
ここには彼の槍や遺品が残されています。豊前はかって又兵衛が居住していた地域で、支援者が大勢いたものと思われます。
翌年の夏の陣では河内道明寺で伊達勢と壮絶な戦いを繰り広げますが、萩野半之丞の銃弾を浴びて壮絶な最期を遂げています。墓は何箇所かにまつられています。
九州では中津市耶馬渓地区にあります。
後藤又兵衛の墓 |
2013年4月8日月曜日
豊前長岩城の野仲鎮兼滅亡の日4月8日(1588)
天正十五年(1587)六月、豊臣秀吉は圧倒的な兵力で島津氏を下して九州を平定、翌月黒田孝高は恩賞として豊前国内中津郡・京都(みやこ)郡など六郡十二万三千石余を与えられました。
豊前国は周防大内氏と豊後大友氏のちょうど中間に位置するため、戦国期の豊前は大内・大友両氏による軍事衝突も多く、在地国人衆の抱き込み合戦が繰り広げられていました。
孝高は少しずつ国人衆を帰服させていきますが、隣の肥後では大規模な一揆が蜂起します。
肥後には佐々成政が入っていましたが、検地を巡るトラブルから八月になって隈部親永・菊池武国・甲斐親秀らが成政に反旗を翻し、窮した成政は豊前の黒田孝高や筑後柳川の立花宗茂に救援を求めます。
宗茂は直ちに救援に馳せ向かい、自分も負傷するほどの奮戦、孝政も毛利隆景、毛利吉成らとともに救援に向かい、一揆は鎮圧されます。しかし秀吉は成政の失政を怒り、翌年成政に死を与えています。
宇都宮鎮房もこの間一旦降伏したものの、孝高の留守中に不穏な行動を起こしたため四月二十日に長政の手により中津城にて謀殺されます。
さらに長政の追撃により城井谷城(福岡県築上町)も焼き落とされ、ここに名族宇都宮(城井)氏は完全に滅び豊前は平定されることになります。
2013年4月5日金曜日
伊都国の発掘調査
昭和50年代から何回も現地の見学にでかけたが、当時はプレハブの簡素な歴史資料館だった。その後次第に本格的な設備となり、現在は立派な歴史博物館となっている。
最近日本最古の年号の文字が刻まれた刀剣が発見されて話題となったが、今日のテレビ番組では、現在でも三雲・井原遺跡の発掘調査が続けられており、まだまだ何が出てくるか解からない状態だ。
昨年度の古賀市篠林遺跡調査では、錆びた刀剣など発見されたが話題となるものは無く、今東病院敷地内部の調査が行われているが、ニュースにもならないのは大きな差である。
2013年4月2日火曜日
魂と塊
その一つが魂で、天空にのぼり埋まれ故郷にもどっていく。
他の一つが塊で、死亡した土地の地下にもぐりそこで永遠に眠る。
遣唐使として日本から長安にわたり、病で死亡した「井真生」の墓にも、塊の形は異国に埋葬されたが、魂は故郷の日本に帰ることを願うと刻まれていた。
この話をきいていたせいか?昨夜は、私の体が液状化して地下に流れおちると同時に、頭の部分がばっと燃え上がって天空にのぼっていく夢を見た。