2020年7月31日金曜日

箱崎の捕虜収容所と名香野の米軍キャンプ地


今夕のNHK福岡のニュースで、箱崎に捕虜収容所があったことを紹介していた。
その説明で、九大名誉教授F氏が、現在の箱崎中学の場所あたりであったという。鹿児島本線と宇美川の間に挟まれた場所で、市民が近づけない松原地区だったから、われわれも当時は噂でしか知らなかった。



多々良川と宇美川の合流点


〇印が箱崎中の場所

名島地区の郷土史を読み直すと、当時米軍が空撮した写真があり、8月の終戦の数日後に、この米軍捕虜収容所に、救援物資が落下傘つきで投下された。赤、赤白、白、黄色の落下傘が多数空に舞い、一部は住民も拾ったという。将校クラスの収容所だったからであろう。




落下傘で投下される援助物資
(川の向こうに名島発電所)


10月初めには米軍海兵師団28連隊約千名が、名香野国鉄操作場へ進駐してきた。

この米軍基地は昭和27年の講話条約締結まで続き、私も約2ケ月間基地内の売店PX(post exchange)で作業員をしながら、米語の習得をした。


キャンプ地の航空写真

千早駅の東側が操車場(昔は海岸沿い)
操作場を横断する細い陸橋が当時の地図にのっている。

 
この陸橋の鉄骨の一部が、千早公園の中にモニュメントとして置かれている。


昭和22年の名島駅付近の写真である。
駅から発電所へ引込線がある。

当時名島駅で降りて、米軍キャンプまで徒歩で、往復していた。

この場所には、戦時中に陸軍の松崎倉庫があった。






2020年7月25日土曜日

豊国の朝廷は香春にあった?

潮洋一さんのFBの記録:豊国の朝廷は香春にあった。


今日は古代史研究会平成最後の勉強会でした

邪馬台国畿内説は誤りです

倭の国と日本の出現についても良く理解できました
天皇はなぜ豊国の君なのか?


潮説ですが、香春岳が神の山である一直線理論と九工大が天皇陵である根拠

東経の確認

a. 九工大登記簿の東経は130度50分21.4秒 中心は130度50分41秒

戸畑区・香原町・赤村の地図



b.金辺峠(壬申の乱不破関)東経130度51分29秒

c.香春岳三ノ岳 東経 130度50分41秒

d.香春岳ニノ岳 東経130度50分31秒

e.香春岳一ノ岳 東経130度50分41秒

香原三山


f.香春神社 東経130度50分24秒29[移転]

g.香春神社一ノ鳥居130度50分41秒

香原神社は辛國息長大姫目命を祀る


h.赤村卑弥呼の墓 東経130度50分53秒


https://uminohakata.at.webry.info/201805/article_4.html

i.英彦山(日子山)東経 130度50分34秒4

j.高千穂の峰 東経130度55分08秒

k.高千穂神社 東経131度18分8.3秒

l.霧島神宮 東経130度52分18秒7

m.霧島山 東経130度51分42秒


n.ビョートル大帝湾 東経131度



仁徳天皇陵に於ける宝物殿は陪塚(ばいちょう)といい、前方後円墳の円墳を上にすると右上にあたる位置になります


・九工大と明治学園は北九州の父、安川敬一郎氏が創立した明治専門学校であり仁徳陵の陪塚の位置に夜宮公園(安川邸・松本邸西日本工業倶楽部)があります

赤村の卑弥呼の墓も古墳時代特有の土器が大量に出土した場所は同じ位置です

規模は仁徳陵が墳丘長525m・高さ39.8m(後円部)で埋葬位置は後円墳部とされます

安川氏はこれを知っていたに違いないでしょう

重厚長大な機械装置産業の大企業を設立誘致するにあたり、決して破壊されることがない学府とすることで保全を試みたのではないでしょうか?

だとすると、墳丘長は1000mにも及ぶ世界最大の墳墓であることになりますね

いつの世か不明だし人為的に削られてはいますがやはり3〜4m小高い丘陵を形成しています

まさしく墳墓然としているではありませんか?

香春岳三ノ岳が金、水銀、良質な銅、磁鉄鉱、石英、水晶を産出した宝の山である採銅所を持つことはわかっています

豊国の朝廷は香春にあったのです

天皇即位に必要な三種の神器である八咫の鏡、草薙の剣は採銅所で製造され、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は香春町勾金にて作られたでしょう

天孫降臨(てんそんこうりん)の際に天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けた鏡が御神体として祀られています

この鏡が「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれ、実物は天照大神の神体として伊勢神宮の内宮(ないくう)に奉安(ほうあん)されています
賢所にあるものはその形代(かたしろ)レプリカです

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を合わせたものが「三種の神器(じんぎ)」と呼ばれます

それは天皇の正統性の証であるとされてきました

八尺瓊勾玉は御所にある天皇の寝所の隣「剣璽(けんじ)の間(ま)」に草薙剣の形代とともに安置されています

草薙剣の本体は愛知県名古屋市の熱田神宮にご神体として祀られています

本物は天皇ですら直接ご覧になることはできないのです

この全てが東経130度50分41秒を中心とする神話の世界に一直線に南北を貫く型で存在しましたし、古代史出土品リストのまとめによりますと、

鉄器(ヤジリ・刀剣・槍の刃)、青銅器(鏡・鉾・屋根の鴟尾などは福岡県に49ページ分もあるのに対し、邪馬台国機内説の奈良県には日本書紀がかかれた720年以前には1ページも満たないのは何故でしょう

九工大(明専)は天智天皇か天武天皇陵である可能性が極めて高いと考えています

もうひとつの朝廷があった筑紫国 太宰府についても理解を深めるきっかけとなりました

極めて意義のある内容の濃い2時間を過ごすことができました

北九州は凄いところです

日本として倭の国を併合し最初にスタートを切ったまさにその場所なのですから















2020年7月23日木曜日

「心」の謎を解く:「受動意識仮説」と「他力」

「悟りと受動意識仮説と幸福学」
   前野隆司(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科)

「私はAIロボットの脳の研究からスタートし、脳科学の研究で悟りを理解し、悟りに達した!」と豪語するようにな ってから10年以上の時が経ちます。最近は、幸福学という学問をやっています。こちらも、「仏教=幸福学だ!」と豪語しています。
詳しくは、脳科 学と悟りの件については『脳はなぜ「心」を作ったのか―「心」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫、2010年)を、幸福学については『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)をご覧頂ければ幸いです。
 
さて、まず、脳科学での悟りの理解は、カリフォルニア大学のリベット博士が 行なった有名な実験によると、
「自由意思は自由ではない」
ことが知られています。
 
私たちの意識にのぼる自由意思が「指を曲げよう」と思う0.35秒くらい前に、脳の運動野の神経は指を曲げるための準備を始めているというのです。
「指を曲げよう」という自由な意思が、指を曲げるという自分の動作を始めているように感じるのに、どうもそれは始まりではなく、“始めたと感じている”に過ぎないと考えなければ説明がつかないというのです。

人間には多数の小センサーからの情報が這入り、これをエピソード記憶として記憶し、それを意識記憶に伝え、行動におこすまでに0.35秒から8秒くらいの時間がかかるという。「受動意識仮説」
ゴルフなどのスポーツ選手は、多くの練習によりエピソード記憶を蓄えており、これを意識記憶に短時間に伝えて、正確な動作を再現できる。
「我思う。故に我あり。」という現象的意識は、幻想にすぎない。外界のモデリングを、脳内のエピソードモデリングにするのは、鳥類や哺乳類である。
 
仏教では、お釈迦様が言ったことは無我なのか非我なのかという議論があります。「私たちの心は無い(無我)」なのか「私たちの心ではない(非我) 」なのか。
リベットの実験から考えると、「指を曲げようという自由意思を感じるその瞬間に、本当は、自由意思というものは無い(なぜならその前に 無意識下の意思決定が行なわれているから)」(無我)と考えられますし、「指を曲げるということを始めたのは自由意思ではない(なにしろ始めたの は無意識下の運動野の神経発火の方だから)」(非我)とも考えられます。

いずれにせよ、指を曲げたい、おいしいものを食べたい、お金を儲けたい、有名になりたい、社会のために尽くしたい、などという欲望の実施を決定する自由意思は、本当はないということなのです。
 “心は幻想である”と言い換えることもできます。幻想とは、逃げ水のように、ありありとあるように見 えるけれども、近づいてみると実際にはないもの。私たちの心も、それが創り出している欲望も、自由意思も、あるようで実は無我・非我なのです。
なあんだ、自分って、ないんだ(あるいは、幻想なんだ)と気づいたとき、私の心は軽くなりました。すべての執着がなくなったことを論理として納得した気がしました。
実際、ないのです。全ては幻想なのですから、執着している自分も無いのです。執着しているのは自分ではないのです。そして、「 あ、これって、悟りじゃん」と思ったという次第です。何の迷いもない。悩みもない。なにしろ、それらはみんな幻想なのですから。過去の忘れられぬ 挫折や失敗も、未来の懸案事項も、関係ない。みんな、心が作った幻想なのですから。
「お前は既に死んでいる」です。心なんてない。幻想なんですから。最初から死んでいて、生まれてくるという幻想を感じ、生きているという幻想を感じ、そして死んで行くだけ。最初から死んでいたものが死んでいくのだから、悲しくも寂しくもない。 
だったら、今ここにあたかも生きているかのように感じているこの自分という幻想を、生き生きと精一杯生きようよ。今が人生最後の一瞬だと思って、一瞬、一瞬を、思いっきり生きようよ。そう思いました。
そこで、はじめたのが幸福学です。所詮は幻想のこの人生。どうせ幻想なのなら、思いっきり幸せに生きた方がいい。世界中の70億人が、みんな、生き生きと、精一杯 に、だれもが幸せに生きた方がいい。では、どうすれば幸せになれるのかを、明らかにすべきではないか。そう思って幸福学の研究と実践を始めました。
なぜ、仏教=幸福学なのか。仏とは、悟りに至った人のこと。悟りとは、悩みもわだかまりも幻想と理解した幸せの境地。つまり、仏教とは、幸せの教え。現代流にいうと、幸福学です。日本人1500人に対して幸せの心的要因 についてアンケートした結果を因子分析して、幸せの4因子というのを求めました。
自己実現と成長」「つながりと感謝」「前向きと楽観」「独立と マイペース」です。これらを高めることによって、幸福度が高まります。皆様も、この4つの因子を高めて幸せになって頂ければと思います。そして、その極限が悟りなのだと思うのです。
私は、仏教とは思想・学問であると考えています。誤解を恐れずにいうと、私が行ってきた受動意識仮説や幸福学は、仏教の新しい形といってもいいの ではないかと思っています。
仏教界から出てきた藤田一照さんのような新しい動きとも連携しながら、新しい思想・学問を構築し、人間理解と幸せに貢献できればと思っています。人々が、ざわめく心の幻想性をよく理解し、平静な心を研ぎすまし、皆が皆の幸せを心から願うような世界。そんな世界の実現を目指して、小さな一歩を歩んでゆきたいと思っています。 


五木寛之は、「他力」は、出口のない闇の時代に、ギラリと光る深い思想であり、すさまじいパワーを秘めた生きる力だといっている。
また、仏語に「超横」という言葉がある。80歳を越えたら「超横」で生きよという。

親鸞のいう「超横」とは、煩悩にまみれた凡夫が、南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間(『教行信証』等では「信楽開発の時剋の極促」とあります)に、煩悩を持ったままで極楽往生の正因を得た姿を言うようだ。

五木のいう「超横」とは、壁につきあたって前に進めない時は、横に道を求めよという拡大解釈である。80歳すぎて出来なくなる壁はいくつもある。そこでへこむのでなく、横に出来るものを見つけることで、新たな人生を見出せる。壁を「いなす」ことだという。

私も80歳からCGをはじめたり、FBをはじめたりした。

私の94歳からの生き方でも横超の生き方は同じで、今までの興味のあるものが行づまったら横に別の道を探すことにしよう。

2020年7月20日月曜日

中野正剛(生誕・幼少・学生・評論家・政治家)



福岡藩士・中野泰次郎とトラの長男として、福岡県福岡市西湊町58番地(現・中央区荒戸)の伯父・中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。

中野家は代々福岡藩の御船方であり、父・泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で
質屋を家業としていた。母・トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。
荒戸の師範・付属校の地図

幼少時より腕白坊主で、
福岡師範付属小学校時代は同級生に緒方竹虎の兄・大象がいて、一年下に竹虎がいた。


付属小・中の正門

師範学校の跡の石碑

 
師範附属小学校の高等科で教えていた柴田文城先生は、頭山満の縁戚で、学校へ白馬で通っていた
中野の組は非常に悪かったそうで、柴田先生はある日、中野を呼んで「君は元気があっていい。君は将来偉くなると思う。でも、今のようなことではつまらん。弱い者は助けなければならない。君があの子を守ってやれ」と言われ、それから人間が変わったように、強い者には立ち向かうが、弱い者は助ける、というふうによくなったという。
正剛が好んだ漢詩、「欲 窮 千 里 目 更 上 一 層 樓」や「豪傑之士雖無文王猶興」などを柴田先生は小学校で教えたという。



14歳で福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学したが、幼少時から家業の質屋を毛嫌いし“質屋の甚太郎”と呼ばれるのが不快で、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛(まさかた)と改名する。
明治時代の修猷館


自分の生涯を正しく剛毅に行く抜こうという意志の表れだったが、“まさかた”と呼んでくれたのは母親だけで周囲は皆“せいごう”と呼んだ。
中学校の柔道教師は飯塚国三郎で、柔道部に入部した中野は同級生の宮川一貫らと稽古に励んだ。学校で柔道をやるだけでは飽き足らなかった中野は市内に土地を買い、「振武館」という道場を旗揚げして生徒仲間らと共に毎晩9時頃まで汗を流すという、到底14歳とは思えない行動力の持ち主でもあった。資金は玄洋社に無心したようだ。

1905年(明治38年)、修猷館を卒業後は早稲田大学政治経済学科に進学し、上京している。 修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。





彼のジャーナリスト、政治家としての活動は著名であるから、省略する。
中野正剛の壮絶な切腹死は大戦末期(1943年10月27日)で、西公園にあった平野国臣の銅像が廃された頃である。その頃は中野の居は鳥飼神社の横に移していた。
その居住地あとに、正剛会有志により銅像が建てられたのは、国臣像の再建と相前後してである。

近くにある平野国臣の像


中野正剛の碑と銅像
この石碑の文字は緒方竹虎の書である。この二人は親交があったのは前述の通りである。
二人は、小学校、中学(修猷館),早稲田、朝日新聞社と行動をともにした。
私が付属小学校6年で座った机の上板には、初代に中野正剛、二代に緒方竹虎の名前が墨でかれていた。20代くらいまで名前があったが、私の書くスペースはもう無かった。机は空襲で焼けてしまったのが残念だ。
東條英樹の終戦処理不在に反対し、憲兵隊に逮捕されたが、国会会期だったので拘留はまぬかれた。しかし戦局末期の不安や兵役中の子供らへの心配もあって、自宅で自決した。





自決時の遺書



私は小学5年生の時に中野正剛が母校訪問にきて講演をしたことを覚えているし、100周年記念誌にも記載されている。
中野、緒方の偉大な政治家との、わずかな絆が私にあるのは有難い。
緒方竹虎生誕地の石碑

福岡市の主な銅像

東京・多磨霊園に眠る中野は、果たして、今の政局をどう見ているか。




中野は戦時中、戦争継続が難しく、国民に偽りの報道を続ける東條政権を新聞紙上で批判したことが引き金となり、東京憲兵隊による不当な逮捕監禁の末、自宅で自決した。それ以前も、言論弾圧を受けていたが、後輩である早稲田大学の学生に向けての演説は現在に至るも語り草となるほど有名。
 この中野は日本と中国とが直接対峙した事変を収拾するため、玄洋社の頭山満を蒋介石のもとへ派遣する工作をした。蒋介石が頭山満とならば会談したいとのことからだったが、政府は「浪人如きに何ができる」として、握りつぶした。官僚化した軍首脳、外務官僚の狭隘な見識が無謀な戦争へと日本を駆り立てた。
 ハーバート・ノーマンによって玄洋社、黒龍会は超国家主義団体と定義づけられ、日本の軍国主義を扇動した団体と決めつけられた。それが大きな間違いであることは、この中野を始め、緒方竹虎、廣田弘毅の行動からも見て取れる。
 中野は玄洋社員であり東方会の総裁でもあった。『東京朝日新聞』の記者から政界入りをし、一時期は『九州日報』の社長でもあった。
 孫文のみならず、中国人留学生、黄興、譚人鳳、段祺瑞という中国要人との交友関係も有する人だった。
 昭和十八年十月二十七日、自決する。
 尚、中野が中国革命を支援する動機は玄洋社の先輩である末永節の影響が大きい。

2020年7月16日木曜日

沈寿官と司馬遼太郎


笑福亭鶴瓶の「家族に乾杯」で、鹿児島の旅を振り返る再放送があった。

家の門
 
鶴瓶さんが14代続く薩摩焼の窯元、沈寿官さんの家の門から入り玄関をあけて訪ねると、さっそく座敷に案内されて、「司馬遼太郎さんは、こちらの庭の方から這入ってこられて、この家には門がないと書かれてしまった。」という話になった。

司馬遼太郎との秘話もいろいろ話題になったので、彼の「肥薩のみち」を読み返してみた。

「沈寿官の屋敷の門は、薩摩では中くらいの家格の士族門である。門を入るとすご矢防ぎがある。・・・
外敵が侵入しようとした場合、これを楯にして矢を射る。・・・かって訪ねたときはそれがあったが、いまは小型トラックの出入りをするため、それがとりはずされている。」と書かれている。
どうも14代の記憶違いのようである。
屋敷の中庭
 
両家は深い交流の間柄のようで、15代の結婚仲人を司馬さんがつとめたり、沈夫妻を祇園のお茶屋に案内したり、その時の秘話が断片的に述べられており、沈さんの人間味あふれる側面を知ることができた。
14代も15代も、作風は独自の路を進んでこられたようだ。

 
一族は司馬遼太郎の小説「故郷忘れじがたく候」のモデルになっている。これはまだ読んでいないので、家の門のことは、この小説のことかも知れない。

2020年7月14日火曜日

高貴なる敗北・・・日本史の悲劇の英雄たち(改訂)

高貴なる敗北・・・日本史の悲劇の英雄たち
コロンビア大学の日本研究の教授であったアイヴァン・モリスは、1975年に、題記の著書を書いた。これは、三島由紀夫に捧げられた一書であるといわれている。

日本人は、成功ではなく、没落の姿に美しさを感じ、心惹かれ、胸をあつくする。それが日本人特有の性情であり、、歴史の特長であると、彼はかんがえた。
モリスが論じた典型的な悲劇の英雄は、日本武尊、捕鳥部万、有間皇子、菅原道真、源義経、楠木正成、そして17世紀の天草四郎、大塩平八郎、現代では西郷隆盛などである。さらに最後にカミカゼ特攻の戦士たちが論じられる。
彼らは、成功よりも、誠をつらぬくことを重んじ、そのひとの努力と犠牲の死は、実益を重視する現実の世界でも、大きな価値があったはずだとモリスは強調する。
このような考えは、この著書のまえから、モリスの論文で述べられていたようだ。
三島由紀夫は、そのことを良くしっていたので、1970年の劇的な切腹の前に、モリスに手紙を書き、「・・・あなたは私の行き着くところを理解できる実に数少ないうとのひとりだと思っています。陽明学に影響された私はこう考えてきました。行動なしの知識は充分な知識ならず、また行動そのものは、その効果を問題にしない、と」。
国際基督教大学の斉藤和明教授は、日本の英雄たちが精神的理想のために生きたいきざまは、基督教徒の信仰への決断と同じで、ゆるぎない忠誠心をもっていたのではないかと問いかけている。
しかし現在のマスコミでは、楠木正成の忠臣伝説などと表現し、悲劇の英雄たちを、軽視している。
 

曙のつどい



かつて、香椎に温泉旅館があった。

その香椎温泉旅館で、五・一五事件の同士を集めて会合が行われた。

 五・一五は海軍を中心としたテロ事件だが、当時海軍で危険思想の持ち主として長崎の大村航空隊教官だった藤井斉が、一人一殺主義を唱えた僧侶の井上日召、および後の中曽根首相参謀となる四元義隆らに、藤井が九州で出会った同士と引き合わせるために香椎温泉旅館に集まった。

 その後、神武会会長大川国明の昭和維新の急進思想の流れを汲む九大の右翼学生グループ数名は、香椎温泉旅館をアジトとして、民間団体、少壮将校らと気脈を通じてしばしば会合し、5・15事件直前には民間団体の巨頭井上日昭、樋口孝三郎、頭山秀三なども参加し40余名が会合してテロを謀議したという。

 最初の会合は昭和5年12月のことで、昭和7年の五・一五事件のための初会合として歴史上では位置づけられている。
計画の中心人物だった
藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中華民国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

 場所は九州高校や香椎工業の東側で、現在はラフォーレマンションになっているが、その前に写真のような記念の石碑「曙のつどい」が建てられている。