「悟りと受動意識仮説と幸福学」
前野隆司(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科)
「私はAIロボットの脳の研究からスタートし、脳科学の研究で悟りを理解し、悟りに達した!」と豪語するようにな ってから10年以上の時が経ちます。最近は、幸福学という学問をやっています。こちらも、「仏教=幸福学だ!」と豪語しています。
詳しくは、脳科 学と悟りの件については『脳はなぜ「心」を作ったのか―「心」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫、2010年)を、幸福学については『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)をご覧頂ければ幸いです。
さて、まず、脳科学での悟りの理解は、カリフォルニア大学のリベット博士が 行なった有名な実験によると、
「自由意思は自由ではない」ことが知られています。
私たちの意識にのぼる自由意思が「指を曲げよう」と思う0.35秒くらい前に、脳の運動野の神経は指を曲げるための準備を始めているというのです。
「指を曲げよう」という自由な意思が、指を曲げるという自分の動作を始めているように感じるのに、どうもそれは始まりではなく、“始めたと感じている”に過ぎないと考えなければ説明がつかないというのです。
人間には多数の小センサーからの情報が這入り、これをエピソード記憶として記憶し、それを意識記憶に伝え、行動におこすまでに0.35秒から8秒くらいの時間がかかるという。「受動意識仮説」
ゴルフなどのスポーツ選手は、多くの練習によりエピソード記憶を蓄えており、これを意識記憶に短時間に伝えて、正確な動作を再現できる。
「我思う。故に我あり。」という現象的意識は、幻想にすぎない。外界のモデリングを、脳内のエピソードモデリングにするのは、鳥類や哺乳類である。
仏教では、お釈迦様が言ったことは無我なのか非我なのかという議論があります。「私たちの心は無い(無我)」なのか「私たちの心ではない(非我) 」なのか。
リベットの実験から考えると、「指を曲げようという自由意思を感じるその瞬間に、本当は、自由意思というものは無い(なぜならその前に 無意識下の意思決定が行なわれているから)」(無我)と考えられますし、「指を曲げるということを始めたのは自由意思ではない(なにしろ始めたの は無意識下の運動野の神経発火の方だから)」(非我)とも考えられます。
いずれにせよ、指を曲げたい、おいしいものを食べたい、お金を儲けたい、有名になりたい、社会のために尽くしたい、などという欲望の実施を決定する自由意思は、本当はないということなのです。
“心は幻想である”と言い換えることもできます。幻想とは、逃げ水のように、ありありとあるように見 えるけれども、近づいてみると実際にはないもの。私たちの心も、それが創り出している欲望も、自由意思も、あるようで実は無我・非我なのです。
なあんだ、自分って、ないんだ(あるいは、幻想なんだ)と気づいたとき、私の心は軽くなりました。すべての執着がなくなったことを論理として納得した気がしました。
実際、ないのです。全ては幻想なのですから、執着している自分も無いのです。執着しているのは自分ではないのです。そして、「 あ、これって、悟りじゃん」と思ったという次第です。何の迷いもない。悩みもない。なにしろ、それらはみんな幻想なのですから。過去の忘れられぬ 挫折や失敗も、未来の懸案事項も、関係ない。みんな、心が作った幻想なのですから。
「お前は既に死んでいる」です。心なんてない。幻想なんですから。最初から死んでいて、生まれてくるという幻想を感じ、生きているという幻想を感じ、そして死んで行くだけ。最初から死んでいたものが死んでいくのだから、悲しくも寂しくもない。
だったら、今ここにあたかも生きているかのように感じているこの自分という幻想を、生き生きと精一杯生きようよ。今が人生最後の一瞬だと思って、一瞬、一瞬を、思いっきり生きようよ。そう思いました。
そこで、はじめたのが幸福学です。所詮は幻想のこの人生。どうせ幻想なのなら、思いっきり幸せに生きた方がいい。世界中の70億人が、みんな、生き生きと、精一杯 に、だれもが幸せに生きた方がいい。では、どうすれば幸せになれるのかを、明らかにすべきではないか。そう思って幸福学の研究と実践を始めました。
なぜ、仏教=幸福学なのか。仏とは、悟りに至った人のこと。悟りとは、悩みもわだかまりも幻想と理解した幸せの境地。つまり、仏教とは、幸せの教え。現代流にいうと、幸福学です。日本人1500人に対して幸せの心的要因 についてアンケートした結果を因子分析して、幸せの4因子というのを求めました。
「自己実現と成長」「つながりと感謝」「前向きと楽観」「独立と マイペース」です。これらを高めることによって、幸福度が高まります。皆様も、この4つの因子を高めて幸せになって頂ければと思います。そして、その極限が悟りなのだと思うのです。
私は、仏教とは思想・学問であると考えています。誤解を恐れずにいうと、私が行ってきた受動意識仮説や幸福学は、仏教の新しい形といってもいいの ではないかと思っています。
仏教界から出てきた藤田一照さんのような新しい動きとも連携しながら、新しい思想・学問を構築し、人間理解と幸せに貢献できればと思っています。人々が、ざわめく心の幻想性をよく理解し、平静な心を研ぎすまし、皆が皆の幸せを心から願うような世界。そんな世界の実現を目指して、小さな一歩を歩んでゆきたいと思っています。
五木寛之は、「他力」は、出口のない闇の時代に、ギラリと光る深い思想であり、すさまじいパワーを秘めた生きる力だといっている。
また、仏語に「超横」という言葉がある。80歳を越えたら「超横」で生きよという。
親鸞のいう「超横」とは、煩悩にまみれた凡夫が、南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間(『教行信証』等では「信楽開発の時剋の極促」とあります)に、煩悩を持ったままで極楽往生の正因を得た姿を言うようだ。
五木のいう「超横」とは、壁につきあたって前に進めない時は、横に道を求めよという拡大解釈である。80歳すぎて出来なくなる壁はいくつもある。そこでへこむのでなく、横に出来るものを見つけることで、新たな人生を見出せる。壁を「いなす」ことだという。
私も80歳からCGをはじめたり、FBをはじめたりした。
私の94歳からの生き方でも横超の生き方は同じで、今までの興味のあるものが行づまったら横に別の道を探すことにしよう。