2013年7月29日月曜日
2013年7月26日金曜日
2013年7月23日火曜日
王子誕生
2013年7月19日金曜日
2013年7月18日木曜日
2013年7月13日土曜日
黒田長政の妻
4人の妻
1)秀吉の養女(蜂須賀の娘)と結婚:女の子を残して離婚。2)宇都宮静鎮房の娘と政略結婚・父親を殺害と同時に殺害。
3)家康の養女(保科正直の娘):4男2女をもうける。
4)従姉妹の女にてをつける。男の子をもうけるが、世間体をは ばかり、部下の男と結婚させる。
2013年7月6日土曜日
黒田官兵衛の勉強会
中津入りして13万石の大名となる。しかし宇都宮一家の鎮圧に苦労し、隠居して迎えた関ヶ原の戦で、豊後地区や肥後地区の平定に活躍する。
息子の長政の活躍で筑前52石になるが、隠居の身は密に老後を迎える。
2013年7月5日金曜日
2013年7月3日水曜日
2013年7月2日火曜日
古賀の船原古墳出土品は国宝級(改訂)
2013年に、古賀市谷山の船原古墳周辺で出土した国宝級の馬具などが、古賀市を有名にした。
とくに今回、玉虫の羽で装飾された金銅製の馬具であったことが、国内で初めて見つかったことで、全国紙に一斉に大きくとりあげられた。各紙の概要をを抜粋する。
玉虫を使った装飾品は国内では4例のみで、そのうち法隆寺の「玉虫厨子(たまむしのずし)」と福岡県宗像市沖の沖ノ島の「金銅製帯金具」は国宝である。
当時の大和政権は新羅のライバル・百済(くだら・朝鮮半島南西部)と同盟関係にあり、船原古墳の被葬者が大和政権とは別に、独自外交を展開した可能性が浮かび上がった。同古墳が築造された6世紀末~7世紀初めは、朝鮮半島の勢力図が大きく変わる転換点にあった。半島北部の高句麗(668年滅亡)と百済(660年滅亡)が衰えはじめ、新羅が勢力を伸ばした。
大和政権は百済と密接な関係を保つなか、新羅は北部九州の勢力に接近。半世紀ほどさかのぼる527年には九州の豪族・磐井(いわい)が新羅を後ろ盾に大和政権に反旗を翻す「磐井の乱」を起こした。磐井は敗れ、大和政権は九州の統治を強化したが、その後も新羅は大きな脅威となっていた。
西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「大和政権は国家レベルで百済と同盟を結んだが、北部九州の勢力は朝鮮半島の複雑な力関係を見極めながら、独自につながりをもったことが考えられる」と話す。
福岡県粕屋郡にはヤマト王権の支配拠点「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」があり、外交窓口の役割も担った。当時は新羅との緊張関係が続いた時期。朝鮮半島では王陵級でしか出土しない玉虫装飾と確認されたことで、福岡大の桃崎教授は「船原の主は外交のキーパーソンであり、新羅からも一目置かれていた存在」とみる。また美術工芸の分野においての意義も大きい。新羅発祥の玉虫を使った馬具装飾技術は、次第に玉虫厨子(7世紀中ごろ)といった仏教美術、工は、芸にシフトした。今回の玉虫杏葉はその転換期のもので「空白を埋める資料」。謎の多い玉虫厨子の来歴を考える上でも価値が高いと、桃崎教授はいう。
杏葉の装飾に玉虫の羽が敷き詰められていたことについて、船原古墳の遺物調査などに助言する今津節生・谷山北地区遺跡群調査指導委員会会長(奈良大教授)は「装飾の材料としての玉虫は、国内では超一級、最高級の工芸品に使われている」と意義を説明。
田辺一城市長は玉虫が幸運を呼び込むとされていることに触れ、「世界の状況が厳しい中、社会に明るいメッセージを発することになる。今回の発見をこれからのまちづくりにもつなげていきたい」と声を弾ませた。
玉虫羽の発見が、発掘当初の2013年から7年後になった理由について、会場におられた歴史資料館長にお尋ねした。土豪の中に埋もれていたため、損傷がひどく、注意深く処理する必要があった。2015年にエックス線撮影によって、鳳凰の形の模様が発見された。この時は、玉虫羽は不明であった。
2013年7月1日月曜日
河合玉堂
しかし自分の描く素材を見出すのに苦労したという。
素朴な自然な田舎の風景と人物に徹して、新境地を開いた。
しかし戦時中の戦意高揚の展覧会には、荒れ狂う海の波と岩をえがいた。 苦心の作だったろう。