永禄4年(1561)毛利元就と大友宗麟が門司城で激戦を展開。10月26日大友軍は退却を決定しました。
この戦いにおいて宗麟に不運だったのは、ポルトガル船に十分な弾薬が用意されていなかったため海上からの砲撃は尻切れ状態となり、加えて9月からは能島村上氏が毛利氏に加勢したため、大友氏は押され気味になりました。ちなみに村上水軍は翌年正月まで門司周辺の海域を押さえ、海陸の戦いとも抜群の軍功を挙げたと伝えられています。
宗麟は結局10月26日に門司城の攻略を断念、11月5日に撤兵しています。
信州では上杉と武田が川中島で激突した年でした。
門司城(北九州市門司区)は早鞆の瀬戸を望んでそびえる古城山(標高175m)の山頂にあり、防長二国を固めて九州進出を目論む安芸の毛利氏と、豊前~筑前を支配下に置こうとする大友氏の間で、天文23年(1554)の戦いを皮切りに幾度となく争奪戦が繰り広げられていました。
さて、この年(永禄4年)の6月に大友宗麟は三万の兵を率いて北上し、門司城を攻撃しました。
しかし急峻な坂道のため攻め上る大友勢は苦戦、そこで宗麟は一計を案じ、当時滞在していたポルトガル船の船長に海上から大砲で支援攻撃をするよう命じました。
しかし急峻な坂道のため攻め上る大友勢は苦戦、そこで宗麟は一計を案じ、当時滞在していたポルトガル船の船長に海上から大砲で支援攻撃をするよう命じました。
こうして8月、陸からは吉弘加兵衛尉らの一万五千で、海からはポルトガル船の砲撃で一斉に攻撃をかけました。
城内は前代未聞の攻撃に大混乱となりますが、元就もすぐさま嫡子隆元と小早川隆景に一万数千の兵を付けて救援に向かわせる一方、北九州の土豪たちに再度蜂起するよう画策しました。
この戦いにおいて宗麟に不運だったのは、ポルトガル船に十分な弾薬が用意されていなかったため海上からの砲撃は尻切れ状態となり、加えて9月からは能島村上氏が毛利氏に加勢したため、大友氏は押され気味になりました。ちなみに村上水軍は翌年正月まで門司周辺の海域を押さえ、海陸の戦いとも抜群の軍功を挙げたと伝えられています。
10月2日、総攻撃を決意した宗麟は城の麓に進出、10日に城攻めを開始すると同時に各所で毛利勢と戦いが起こりました。激戦となりますが結局宗麟は城を落とせず、この日に行われた戦いでは毛利氏が勝利しました。
宗麟は結局10月26日に門司城の攻略を断念、11月5日に撤兵しています。
信州では上杉と武田が川中島で激突した年でした。