B29の飛行隊 |
この年の9月から11月まで、八幡で学徒動員の労働をすることになっていた私達には、この空襲は大きな衝撃であり、また動員中に被爆現場をみたりしているので、強く記憶に残っている。
しかし、当時は作戦内容の詳細を知らずにいたので、記録を調べてまとめてみた。
1943年11月のカイロ会談において、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトはイギリス首相ウィンストン・チャーチルと中華民国国民政府主席蒋介石にマッターホーン計画を提示、計画への協力を要請した。
この中でルーズベルトは蒋介石に対して、B-29を実戦配備するために、1944年3月末までに成都周辺の飛行場建設を完成させるよう要請した。
要請を受けた中国は、翌月の1943年12月、以下の飛行場建設のための工事計画を推進した。
- 成都近郊に4カ所所の爆撃機基地-新津、邛崍(きょうらい)、彭山(ほうざん)、広漢を建設:
- また成都ほか5カ所に戦闘機出撃基地を建設。
米軍側は1944年5月、インドに進出した第20爆撃集団は、ケネス・ウォルフ准将の指揮の下、日本空襲のため様々な準備を開始した。真っ先に取り掛かったのは中国基地への燃料の備蓄である。
中国前進基地までの燃料等の補給は第20爆撃集団の輸送機とB-29自身で行う必要があった。しかしながら、この方法で中国~日本往復の1機分の燃料と備品を備蓄するにはインド~中国間を12往復する必要があり、またヒマラヤを越えての兵站行動となることから効率が悪く、作戦開始に十分な燃料を備蓄するには当初の予測以上の時間がかかった。
爆撃目標には、成都から2600kmの距離にある九州北部の工業都市八幡市が選ばれた。これは、第20航空軍司令部が1944年4月1日に下した、日本の鉄鋼業及びコークス製造業の壊滅を戦略爆撃の最優先目的とする決断に拠るものである。
八幡市内の官営八幡製鐵所は、当時日本全体の圧延鋼の24%を生産するなど、日本の鉄鋼業において最も重要な施設であり、3つのコークス炉があったが、そのうち最も大きな東田のコークス炉がB-29爆撃の第一目標となった。
なお空襲は夜間行うこととし、燃料節約のためB-29各機は編隊を組まず個々に爆撃をすることとした。
6月15日16時16分、B-29は基地から離陸を開始した。第58爆撃航空団のラベーヌ・サンダース准将が作戦指揮をとった。
出撃75機のうちR・E・ヒューズ大尉の指揮する1機は離陸直後に墜落し、更に4機が機械トラブルのため基地に引き返しているが、残り70機は隠岐諸島を経由して一路九州八幡を目指した。
第58爆撃航空団の4部隊は、それぞれ2機のB-29を先行させ、その後ろを飛行する航法をとった。この航法は、先行機が他機の飛行目標となり、またその作りだす気流に乗って燃料を節約するためであり、イギリス空軍が欧州戦線で採用したものである。
爆撃隊は中国の日本陸軍および陸軍航空軍によって察知された。「爆撃機が九州北部へ向かっており真夜中に現地に到着する」との報告は日本陸軍第19飛行団にも伝えられた。その後、済州島のレーダー基地と監視所は現地時間の23:31から00:30にかけて爆撃機を捕捉した。
空襲警報は00:24に発令され、その3分後には飛行第4戦隊の24機の「屠龍」戦闘機が北九州上空警戒のため離陸した。第59戦隊は、夜間作戦において第4戦隊と夜間戦闘の共同訓練をしておらず、運用する機体「飛燕」には機械的問題があり、また出撃することで芦屋飛行場を発見され、逆に攻撃することも恐れられたため緊急発進を見合わせた。
6月16日00時38分、B-2947機が八幡上空に到達しおよそ2時間にも及ぶ爆撃を開始した。だが市街地には既に灯火管制が敷かれており、さらにこの晩は街全体が靄に覆い隠されていたため、爆撃目標を視認できたのはたったの15機であった。残り32機はレーダー照準爆撃を行った。
B29の残りの部隊は中国の日本基地や日本本土の長崎、大村などの基地を空爆している。
八幡製鐵所の被害は極僅かであったが、爆撃は北九州5都市(八幡、小倉、戸畑、門司、若松)におよび、270名以上が犠牲となった。なお、米軍側報告では作戦中の事故により5機のB-29が損失、2機が日本軍機により撃墜とされた。これに対し、日本側報告では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機、日本側被弾機1機と報じられた。
爆撃目標とした八幡製鐵所コークス炉への命中弾はなく、空襲自体は不首尾に終わった。
のちに小説家となった城山三郎は、当時通信兵として中国大陸にいたので、米軍の無線を傍受して、成都周辺の基地の名前などをすべて覚えていたという。
しかし同日サイパン島に米海軍の上陸を許したこともあり(サイパン島の戦い)、大本営は八幡空襲の報に衝撃を受けた。
一方でアメリカや中国ではこの空襲の成果が大々的に報道された。作戦中B-29の収集した情報によって日本本土の防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後の大規模な本土空襲の発端ともなった。
空襲後の中国基地への帰還飛行は概ね良好であった。1機がエンジン不調のため中国河南省の内郷飛行場に着陸したところ日本軍機の機銃掃射を受け破壊された。他帰還中に2機が墜落し搭乗員全員と同乗のニューズウィーク誌記者が死亡している。
この空襲でのアメリカ側の総損害はB-29を7機損失、さらに6機を敵対空砲火で損傷し、搭乗員57名とジャーナリスト1名が死亡している。なお空襲から数日の間、多数のB-29が燃料不足のため中国内に足止めを余儀なくされ、ウォルフ准将が第312飛行隊から57,000リットルの燃料を借りることでようやくインドに戻ることができた。
この数日間は燃料がほとんど無く航空機の出撃がほぼ不可能であり、日本軍の報復攻撃に対して非常に脆弱な状態であったが、日本軍は何の攻撃もしなかった。
なお八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受けている。さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 死傷者は約2,500人 という 壊滅的な被害を市街地は被った。
それにしても米国は、日本軍占領下の中国大陸の奥地に飛行場をつくり、ヒマラヤ越えで機体と燃料を運ぶという膨大な出費と犠牲の多い計画を遂行し、半年後にはサイパンからの空爆に切り替えてしまった。資源と経済力の大きさを思いしらされる。
成都の諸葛孔明の廟 |
11月から12月にかけて近くの重慶に滞在したことがあるが、ヒマラヤの影響で秋、冬は濃霧に覆われ、晴れ間が殆どない地区で、当時の航空技術では、事故も多かったと思われる。