2012年5月31日木曜日

アインシュタイン


アインシュタインといえば相対性理論が有名だが、彼がノーベル賞をもらったのは光電効果のほうだった。

論文は同じ年(1905)に発表されたが、光電効果の実証実験は比較的にはやく証明されて、1921年にノーベル賞を受賞した。
だが、相対性理論は概念として理解されるのに更に20年くらいかかったからだ。

ブラウン運動に関する論文も同じ頃発表しており、これを実証した人物はノーベル賞を受賞しているので、アインシュタインは3回ノーベル賞をもらってもおかしくなかった人物だ。 まさに天才である。

アインシュタインがノーベル賞受賞の知らせを聞いたのは、日本に向かう船の上で、このため日本では大歓迎をうけた。
授賞式には出席できず、授賞スピーチは帰国後の、翌年の7月に行っている。

来日したときは、わが福岡にもきている。
福岡高校(当時は旧制中学)で講演したときの黒板は、私の在学当時は文字が消されずに保管されていた。
残念ながら、敗戦当時の混乱で行方不明になっている。
福岡で宿泊したときの旅館での揮毫が、旅館の主人の母校である修猷館に残されている。

黄色い花

なぜか今、庭には黄色い花がいろいろさいている。
枇杷の黄色い実も、今年は例年より大きいようだ。



黄色いサクランボだけは見あたらない。

2012年5月30日水曜日

平家物語 由来の花

平敦盛を討ったのは熊谷直実。直実は戦いのあと、「武士の家に生まれなければ、こんな辛い思いをしなくてもよかったものを」と嘆きかなしみ、後悔して仏門に帰依したという。

敦盛・直実の対決像


二人の名前をつけた草花がある。上がアツモリソウ、下がクマガイソウ。二人の霊は風雅な華のなかにいきている。

2012年5月20日日曜日

蒙古襲来絵図

元寇の終焉の地である鷹島で、海底遺跡の調査が行われ、当時の船舶などの構造が明確になった。
昨日は林田憲三氏(アジア水中考古学研究所代表)の話を聴講した。
各種の出土物?(出水物)の話も面白かったが、飛び道具として日本にはなかった「てつほう」(手榴弾)が沢山発見されていた。
わが古賀市の歴史資料館長の石井先生はその最初の発見者であったことをはじめて知った。海岸での漂流物の研究では第一人者であるが、こんな歴史的な遺物を海岸でみつけるとは、幸運というべきだろう。
ただ蒙古襲来絵図では、てつほうの流れ方向が、日本軍側から蒙古兵の方に飛んでいるように描かれているので、学者の一部にはてつほうは推測の世界で、実在しなかったという説もあったそうだ。
しかし実物が沢山発見された現在では、この絵図をどう解釈するかが問題となっている。
1)絵巻ものは切り貼りしたもので、その順序を間違えてしまったこと。
2)通常の遠近法ではなく、横斜めの立体法で描かれていること。
などから、方向性に誤りを感じやすい絵図になっているという見解であった。

2012年5月4日金曜日

ふるさと大使

漫才コンビ「博多華丸・大吉」の大吉さんが、出身地・福岡県古賀市の観光や物産情報を発信する「ふるさと大使」に就任。市役所で1日、委嘱式があった。
 神戸市で生まれた大吉さんは2歳から古賀市に移り住み、地元の小中学校に通った。委嘱状とたすきを受け取ると「みんなに面白い街と思ってもらえるよう頑張りたい」と意欲を語った。
さて古賀の何をPRするのかな? いままでの二人のふるさと大使も、あまりぱっとした仕事をしていないようだ。
 隣り合う町や市に、大型の家具店や商業施設が相次いで開店している。「流れるお客の足止めに考えたのは信号をつけるぐらいで…」と漏らすと職員たちは思わず失笑。
隣で聞いていた華丸さん。「古賀のためにアタックチャンス!」と、おなじみの持ちネタで相方を鼓舞したという。

2012年5月3日木曜日

古賀の清瀧寺と戦国・江戸時代武将の縁

古賀市の北東部の山麓に清瀧寺という古刹がある。
奈良時代の行基和尚により開かれた寺といわれている。
清瀧寺本堂




本堂の内部


本堂から上の
その薬師堂に登る石段の前に、梵字をかかげた石の鳥居がある。
かっての神佛習合のしるしで、薬師如来の種子をしめす文字という。


薬師堂の横には、大きな梵鐘があり、年末にには108の鐘がつかれる。芦屋釜でつくられた梵鐘である。


ここからは、古賀市の平野の風景が一望できる。

大晦日の鐘衝き



近くには県指定の天然記念物の、大きなイスノキがある。枝垂れ桜ともあったが枯死した。
最近は海外からの観光客も増えて、麓には外人相手の宿もできている。

戦国時代には、地元の薦野立花家の尊崇があり、立花増厚の
棟札などが存在している。
背後の鶫岳(不動山)には山城があった。



かって平野住職の講演で、清瀧寺は江戸時代には黒田藩との関連もいろいろできたことを拝聴した。
故平野住職



福岡市の西公園(荒津山)地区には、いま黒田長政とその父孝高(如水)を祀る光雲〔てるも〕神社や教育大付属小学校などがある。

黒田二代藩主忠之は慶安元年(1648年)、荒津山にあった金龍寺を福岡西町に移し、三年がかりで徳川家康を祀る筑前東照宮を建立した。この事業には寛永年間に起こった黒田騒動によって失した幕府の信用を取り戻すという意味合いもあったと考えられている。
さらに東照宮の祭祀を執り行う天台宗の宮司坊松源院も山麓に創建された。江戸期の奥村玉蘭の筑前名所図絵にはこれらの建物が描かれている。

そののち東照宮の南西に三代将軍徳川家光の位牌を祀る安穏寺源光院が薬院から移された。
これらは明治維新以後撤去され、跡地に光雲神社や福岡男子師範学校などができた。この付属小学校は私の母校だが、当時は何も知らなかった。
また松源院が撤去されるとき、寺の仏像、仏具、資料などは、わたしの住む古賀市の天台宗の清瀧寺に移管された。
五代藩主黒田宣政のものだったという十六善神図もある。
ここでも、私は松源院や清瀧寺との縁が生じた。

さらに清瀧寺に葵の家紋がついた位牌がある。
八代将軍吉宗は、奇跡的な幸運でえらばれた将軍職を、自分の血筋に継がせたいと思った。
そこで田安家や一橋家をつくり、今までの御三家のほかに、将軍継承の権利をつくった。
三男が一橋家を継ぎ、その四男(吉宗の孫の一人)が、黒田家に襲封して7代藩主黒田治之となった。
彼が持参した父徳川 宗尹(とくがわ むねただ)の位牌は、西公園の松源院におかれていたが、院が廃止された時に、同じ天台宗の清瀧寺に移されたものである。







厳島神社

今年の大河ドラマの影響で、最近厳島神社にかんする歴史テレビ番組があいついで登場した。番組ごとに重点のポイントが少しことなり、総合すると世界遺産として沢山の価値が積算されていることが伺える。
歴史学的に神社の規模や分社の増加、神社の建築学的な特長、地形学的な特長や災害史、政治的な支配者の変化や戦略拠点としての価値、宗教的な特長やモデルの存在、神仏習合と分離の軌跡、経済的交易流通の内容や繁栄の町並み址、などなど。
単なる観光地見物で何回か訪れた場所であるが、詳しく知れば知るほど深みのある場所である。