2023年3月30日木曜日

血圧の乱高下と頭痛?

 この1週間は血圧が乱高下して、高い時は頭痛がはげしい。

朝起きた時は普通の血圧が、朝食後の薬を飲んだころから上がり始め、昼食後あたりが最高になり、夕食の頃は少し下がりはじめて、寝るころは普通になる。

血圧の高い時間帯は頭痛がはげしい。

老人ホームと渡廊下でつながっているK病院の主治医に診断をお願いしたが、3月7日にリハビリ運動中に失神した時の運動との関係が大きいのではないかという意見で、その運動をしばらく中止するように言われた。

その時後の薬の一部変更はあまり関係ないだろうという意見だった。

薬については、循環器内科の和白病院に相談するようにということだったので、翌日は和白病院にでかけた。

担当医の意見では、K病院が腎臓病との関係で少し薬の量を変更していたのをもとに戻すよういわれ、頭痛については、脳神経科を受診するよう手配された。

MRIによる診断の結果は、脳細胞や脳内血管などには異常がなく、左鼻に蓄膿症があるのが原因だろうといわれた。頭痛解消の漢方薬をだしてもらって帰宅した。

なぜ昼間に血圧があがり、朝夕は下がるのか、その理由は不明のままで、しばらく経過を観察するしかないようだ。

次の日、午前・午後ともベッドに寝たままTVをみて過ごしたら頭痛はあまりおきなかった。血圧を測るときの姿勢でも数値は少し変化することがわかった。また気温や気圧の変化も多少えいきょうするようだ。

寝ていれば確かに血圧が低くても脳まで血がめぐる。立ち上がれば血圧をあげなくては、脳まで血がまわらない。そのために必要な血圧上昇の幅が、老化のため大きくなって、頭痛を引き起こすのだろうか。

そうだとすると、血圧を下げる薬を飲んでいるのがおかしなことになる。医師はそこまでは言及しなかったが、つぎの機会に尋ねてみよう。

翌日歯の痛みを感じたので、歯科にでかけた。歯茎の痛む場所のレントゲンで、歯科の神経範囲よりも上の鼻の神経範囲に異常がみられるので、耳鼻科に行くようにいわれた。その足で耳鼻科にでかけた。蓄膿症の自覚はなかったが、鼻腔炎と診断され、痛み止めの薬をもらった。

完治には1週間くらいかかるらしい。花粉症の時期なので、その影響かもしれない。

その後の1週間で、頭痛も血圧の乱高下も収まってくれた。こんな経験ははじめてであった。

2023年3月27日月曜日

 日本四島の東西南北の突端


北海道:北

北海道:東
九州:南
九州:南


2023年3月25日土曜日

脳の活動状態の最近の研究

脳の解剖学的な構造は、昔から知られていた。



また脳の各部の機能区分も近年詳しく解ってきた。



脳内の内分泌敬液系の循環系統やその心理判断の関連も次第に解明されてきた。



NHKテレビで最近の研究成果が昨日放送された。
(脳すごいぞ、ひらめきと記憶)

脳内には1000億の神経細胞があり、情報を伝える数十のメッセージ物質があることがわかってきた。

メッセージ物質は、体の各種臓器や筋肉などでつくられ、これが、この神経細胞の間をかけめぐると、細胞はその電気信号でキラキラと光りを出す。

これを記録することで、脳の活動状況が詳細にわかるようになった。

記憶は海馬に保存されることは解っていたが、記憶が作られる早い段階から大脳皮質の細胞が活動していることが確認された。



海馬・歯状回などの脳内メカニズムの解析も進んできた。






歯状回で生まれる新しい細胞が、記憶力をアップさせる決め手であることも分ってきた。



インスリンは、すい臓のベータ細胞で作られるホルモンで、糖分を含む食べ物は消化酵素などでブドウ糖に分解され、小腸から血液中に吸収される。

食事によって血液中のブドウ糖が増えると、すい臓からインスリンが分泌され、その働きによりブドウ糖は筋肉などへ送り込まれ、エネルギーとして利用される。

このようにインスリンには、血糖値を調整する働きが本質と考えられてきた。


    しかし強い記憶力の細胞には、インシュリンが多いこともわかった。古代人は、重要な食糧の発見場所を決して忘れないように記憶したからだ。

最近では、ショウジョウバエを用いて空腹状態にすると記憶力があがることを明らかになった。
さらに、その分子メカニズムを分析した結果、空腹で血糖値をコントロールするインスリンが低下すると、インスリンにより抑制されていたたんぱく質CRTCが活性化され、記憶力があがることが分かった。
CRTCは、ヒト体内にも存在することが知られており、ヒトでも空腹時に似た仕組みで記憶力があがる可能性がある。


このように
脳の記憶と体とは密接に結びついている。運動能力の記憶は、筋肉からのメッセージ物質によって作られるので、トレーニングにより記憶するしかない。


おもしろいのは、脳が何もしないで、「ぼーとしているとき」に、ひらめきが起こることが解り、この状態をデフォルト・モード・ネットワークと名付けられた。





ぼーとしているときに、記憶の断片を自由自在に繋ぎあわせて、新しいひらめきのアイデアがうまれるのだという

アルキメデスは風呂に入っていたとき、山中教授はシャワーを浴びていたときに、アイディアが閃いたなどの事例が多い。


2023年3月24日金曜日

自己流の健康診断

 腎臓機能が低下してから、この1年間は3月間隔で、血液検査と健康診断をうけている。

血液検査の項目は沢山あるが、医師からは問題点だけの指摘しかない.


自己流の健康診断のパンフレットをみながら、1年間のデーターの変化を見直してみた。

1)脂質異常症:LDLコレステロール 44~65mg/dL  基準値:65~139

     やや低めである。心筋梗塞や狭心症の危険度は低い。

2)肝臓病:                        基準値

  AST       18       10~40 U/L

      ALT        15        5~40  U/L

      r-GTP     22        0~70 U/L

                                    異常なし

3)糖尿病:                基準値

  血糖  93~159 (朝食後の値)     70~109  mg/dL

  HDL-コレストロール 51          40~86  mg/dL

       

次回より絶食して検査をうける。

   


4)貧血:                 基準値

  赤血球数      361      427~570 10.4/uL

  ヘマトクリット   32.9     39.8~51.%

                                                        貧血気味

赤血球の量は腎臓が調節している。



5)腎臓病                 基準値

  クレアチン   1.46~1.68   0.61~1.04

  GFR      29.7~34.7   30以下   

                      要注意!!

6)血圧

 この1ヶ月間不安定な状態が続いている。薬の変更で経過をみている。

  最高 150~90

  最低  90~55

  脈伯  50~80

血圧は腎臓が塩分を調節して管理している



7)食塩摂取量

  7.5~10.9     基準値  男性 7.5  g/day

       やや多め。


          以上。











































  ヘマトクリット   32.9





2023年3月23日木曜日

四條畷の戦

 1348年(正平3・貞和4)正月5日、南朝方楠木正行(くすのきまさつら)・正時(まさとき)らの軍と、室町幕府方高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)らの軍との河内(かわち)四條畷(大阪府四條畷市)における戦い

四条畷の戦場


楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代南朝後村上天皇に仕えた武将楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時正儀の兄。南朝左衛門尉河内守河内国守護[注釈 2]帯刀舎人贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。

楠正行


高 師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏[注釈 1]に側近として仕えた武将[4]、官僚、政治家、歌人。正式な名乗りは、高階 師直(たかしな の もろなお)

高師直


47年(正平2・貞和3)以来紀州などで蜂起(ほうき)する楠木軍に対し、細川顕氏(あきうじ)、山名時氏(ときうじ)らが討伐に向かったが失敗。

驚いた幕府は、その年の暮、高師直・師泰、佐々木高氏(導誉(どうよ))などの率いる大軍を送り、吉野鎮圧を目ざそうとした。

一方、楠木軍も、死を決して戦いに臨んだといわれ、『太平記』には、正行が、後村上(ごむらかみ)天皇に決別し、「返らじと兼ねて思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとどむる」という句を残して出撃したと記されている。

しかし、幕府軍8万、楠木軍3000ともいわれる戦いは、正行以下多くの武将を失った南朝方が大敗した。

この戦いにより、勢力回復を図る南朝方は大きな打撃を受け、師直はさらに吉野へ進軍。天皇は賀名生(あのう)に逃れた。

四条畷神社

四条畷神社


明治時代になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公(だいなんこう)として神格化され,神戸に湊川神社がつくられる。



その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ、崇められるようになった。それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められて整備され、その規模が拡大された。

楠正行の最後



2023年3月22日水曜日

筑紫の語源いろいろ

 

 伊耶那岐神・伊耶那美神が生んだ大八島国の第四の島、筑紫島は、身一つに面が四つあり、その四つのうち、筑紫国を白日別といい、豊国を豊日別といい、肥国を建日向日豊久士比泥別といい、熊曾国を建日別という。
諸説
 筑紫国は、筑前国と筑後国に当たり、七世紀末頃に二国に分けられた。
筑紫」は九州の総名にもなっているが、律令制下、九州を総管し軍事や外交をつかさどる大宰府が筑前国に置かれるなど、筑紫国は九州の筆頭となる要衝の地であった。
 
「筑紫」という国名の由来は、『釈日本紀』が引く『筑後国風土記』(逸文)に、「尽(つくし)」という語に因んだ起源説の由来が後述のよう三説挙げられているが、定かな説はない。
一般的には陸地の尽きるところの説が有力である。
 
「白日」は、明るい太陽の意とする説がある。筑紫島の国々の名前には、みな「日」がついていることにも注意される。「しらぬひ 筑紫の国に」(万5・794)のように「筑紫」にかかる枕詞「白縫」(語義未詳)に関係があるのではないかという見方もあるが、定かではない。
 
「別」という称号は古代の人名に見られ、岐美二神の生んだ島やその国の名前にワケ・ヒコ・ヒメとつくのは擬人的な命名であると論じられている。国生みの伝承の中で、島や国に擬人名を持つ『古事記』の伝承は天武天皇朝以後の新しい形態であると論じられているが、「別」のつく神名の成立については、歴史上の「別」の性格とからめて論じられており、大化改新前後までに形成されていた皇子分封の思想、すなわち、『古事記』『日本書紀』で景行天皇が諸皇子に諸国郡を封じたのが「別」の起こりとしているように、「別」が天皇や皇子の国土統治を象徴するようになっていたことに基づく命名で、七世紀以後にできたものとする説がある。

一方、大化以前の実在の姓や尊称という見方を否定し、ワクという分治の意味の動詞から発して、天皇統治の発展段階にふさわしい称号として採用、ないし創作されて伝承上の神名や人名に対して附加されたものと見なし、『古事記』の編集理念に基づいた称号体系の一環と考える説もある。
陸地の尽きるところの説もある。

「つくし」の名前の由来とは?

①筑後の国と筑前の国は、もとは1つの国でありました。この2つの国の間の山は、険しく狭い坂があり、馬の鞍(くら)をすり減らしてしまうくらい大変であった事から、「くらつくしの坂」と呼ばれていたそうです。そして、そこから「つくしの国」と呼ばれるようになったと言われています。

 

②昔、この辺りに気性の激しい神様がいらっしゃって、通る人々の半数が命を落としていた為、その神様は「命つくしの神」と言われました。そこで、筑紫君(つくしのかみ)がその神様をまつり祈って以来、安心して通れるようになった事から「つくしの神」と言われるようになりました。そして、それから「つくしの国」と呼ばれるようになったと言われています。

 

③ここで死んだ人をおさめる棺桶をたくさん作る為、この辺りの山の木を切り尽くした事から、「山の木つくし」と言われるようになりました。そして、そこから「つくしの国」と呼ばれるようになったと言われています。

「筑紫」発祥の地と伝わる筑紫宮(筑紫野市:Wikipediaから)

 オホド王と磐井の乱にかかわって、筑紫の話柄が続きます。本節では「筑紫」の名の由来を取り上げます。

 『書紀』は全30巻のうち「筑紫」の文字が登場しないのは4巻しかありません。初出は巻第一「神代上」の国生みで、本文と「一書」第1・2・4で4番目に「筑紫洲」の文字が出てきます。また『万葉集』巻第20に「都久志能佐伎」(ツクシの崎)とあって、7世紀には「ツクシ」の音もあった可能性が認められます。

 なぜ「ツクシ」というのか――については、『書紀』も『古事記』も由来を説明していません。俗説というか民間に伝えられている由来を探ると、おおむね次の5つです。

 ①筑後と筑前の境にあった馬の鞍を潰すほどの急峻な坂「くらつくしの坂」から。

 ②通りがかる人を見境なく殺した気性の激しい神様「命つくしの神」から。

 ③多勢の人が亡くなって棺桶を作ったため「山の木がつきた」から。

 ④西の陸地が尽きるところだから。

 ⑤太宰府に向かう石畳の道を「築石の道」と呼んだ。「築石」が「ツクシ」になった。

 ①~④は「尽きる」「尽くす」由来説、⑤は音韻転訛説です。いずれも後付けであることは否めません。

 漢字表記の「都久志」は倭音に漢字1文字を当てた万葉仮名ですから脇に置くとして、『書紀』「古事記』は「筑紫」、太宰府出土の木簡には「竺志」、656年に成立した『隋書』東夷伝は「竹斯」とあります。

 「チクシ」が意味するのは九州島、九州北半(現在の福岡県、佐賀県、長崎県、大分県)、福岡県、太宰府がある旧筑紫郡のいずれとも特定できません。一郷名に過ぎなかったヤマトの音が奈良県、日本全体を意味するようになったのと同じことがチクシにも起こったのか、その逆なのか、どちらともはっきりしません。

 ただ広義の筑紫は「豊、筑、火、熊」の4國で成っていたとされています。時代をさかのぼると、筑紫は「筑」と表記されていたか、チクと呼ばれていたのでしょうか。ちなみに「熊」は「熊襲」のことですが、原意は「クマ地方の襲(ソ)族」のこと。

 「魏志倭人伝」にはチク、ツクに類する國名(地名)は記載されていません。するとチク、ツクの音が生まれたのは4世紀以後、つまり邪馬壹国以後ということになってきます。意図的に付けられた地名です。

 そこで気になるのは、「紫」の文字です。なぜ「斯」や「志」ではなかったのでしょうか。

 紫は華夏で最も高貴な色とされ、それは「天の中心で天帝の住む所」された星群「紫微垣」に由来します。「紫微垣」の中央で輝く北極星を「太極」と呼び、皇帝が政治を司る建物を「大極殿」、臣下が紫の衣を着用して出入りすることを禁じたので皇帝が起居する宮殿を「紫禁城」と呼ぶようになりました。

 以下は倭人が漢字を使い熟すようになった時期とかかわるのですが、筑紫を「紫を築く」と解釈するなら、ミニ中華ワールドを指向した倭讃(推定在位382~425)の王城南遷と無縁ではないかもしれません。委奴國王や邪馬壹国王が華夏皇帝から下賜された「金印紫綬」の記憶が「筑紫」の名に引き継がれているように思えます。


2023年3月20日月曜日

佐賀平野は水の力(その2)科学技術の成長


 


竜造寺のあとを継いだ鍋島氏は、幕末の頃の鍋島直正の指導により、西欧の技術を積極的に導入しました。


日本初の実用反射炉を製作し、蒸気機関や大砲や船拍など鉄鋼製品の製作を行いました。




そのためには、水流を利用した水車の動力や、水路を利用した運搬など、水の力が活用されました。