(財)福岡県メディカルセンター 保健医療福祉研究機構 研究員
九州大学医学部付属病院、医療情報部教授大河内 二郎
(財)福岡県メディカルセンター 保健医療福祉研究機構 研究員
九州大学医学部付属病院、医療情報部教授太平洋戦争開戦直前に横須賀鎮守府附第1特別陸戦隊司令に就任。日本初の落下傘部隊として、1942年(昭和17年)の1月11日にはオランダの統治下にあったインドネシアのメナドへの奇襲降下作戦(334名)を指揮し成功を収めた。これが日本初の落下傘降下作戦である。
この際、鎖で足を繋がれて逃げられない状態で闘ったインドネシア人兵士がメナドの6基のトーチカを守っていたが、それを命じたオランダ陸軍歩兵大佐F・W・M・ティウオン(F・W・M・Tiwom)は、この日本軍の落下傘降下作戦の際に逃げた先のメナドの飛行場で命乞いをして捕虜となっている。
当時オランダの支配は過酷で、水田を潰し輸出用のタバコをインドネシア人に作らせていた。また水田を潰したことにより大量の餓死者をインドネシア人は出していた。その事と、メナドには地元住民の間に、「国家国民が危機に陥らんとした時に北方の空より翼が生えた白馬に跨った獅子達が救援に舞い降りてくる」とのジョヨボヨ伝承が相まって、堀内達の落下傘部隊は絶賛して迎え受けられる結果となった。
この伝説と落下傘部隊の行動は、後に海軍省製作の国策アニメ、『桃太郎 海の神兵』でも描かれた。
このあと堀内は3ヶ月間ここにとどまり、現地人兵士を故郷に帰し、オランダが課した塩税を廃止し、逆に塩の作り方も教えた。また家ごとに救急箱も配った。堀内とその部隊がバリ島に移動するとき、落下傘降下地区のカラビアンとラングアン地区の住民数百人が、別れを惜しみ60キロの道を歩いて、メナドまで堀内の部隊を見送りに行った。
戦後、堀内の部下がオランダ当局からBC級戦犯として裁判にかけられることになったが、堀内は元部下の潔白を証明すべく行動した際に、オランダ当局から巣鴨刑務所に勾留されてしまう。そして、堀内は翌1948年(昭和23年)1月にオランダ人虐待と村民に毒を盛って30人を殺害した罪で起訴され、メナドに送致された。
堀内の部下の裁判も、堀内が起訴された裁判も、日本軍に降伏して捕虜となった元オランダ軍のティウオン大佐によるものであった。彼は戦後、捕虜収容所から出るとセレベス島BC級戦犯を裁く裁判長を買って出、ティウオンの部下を検事役にし堀内の部下であった旧日本軍兵士12人に死刑を宣告した。堀内はその罪の潔白を証明する証言者であったが、堀内自身も勾留され、1年後に前述の罪で起訴され裁判にかけられた。
ティウオンが裁判長となった堀内の裁判は、戦中に堀内の部隊が村民に配布した薬箱が毒薬配布に仕立てられた事がのちに分かるが、それ以外の証拠がないままオランダ人9人の一方的な証言だけで死刑が求刑された。その際、堀内の弁護人の井出諦一郎が証拠の無い一方的な証言だけの裁判に対してその意義を問うと、裁判長のティウオンの職権で、判決を前に井出はメナドから強制退去させられた。また地元住民からも堀内の身の潔白を訴える嘆願書が出されていた。
同年5月、ティウオンは堀内に死刑判決を下し、同年9月25日、堀内はメナドにて銃殺刑に処された。戦犯裁判に関してはその潔さに心打たれたオランダ当局は堀内を海軍大佐としてオランダ軍の儀仗隊付での葬列を遇したとの逸話もある[4]。
処刑から5年後の1953年(昭和28年)4月29日、戦争犯罪人指定解除を受ける。墓所は熊本県熊本市浄行寺。靖国神社に祀られている。
私の叔父狩野毎はこの日本初落下傘部隊の輸送機隊長として働いたが、その後の輸送機活動中に戦死した。
2019年2月9日、グロービスが主催した社会保障制度改革のパネル討論で、成田悠輔は「『葉隠』の「武士道というは死ぬことと見つけたり」という一節を例示して、高齢化し老害化しないために『人は適切な時期に”切腹”すべし』と発言し、「皆さんのようなリーダーが次々と切腹するような日本社会になれば、それは単なる社会保障政策ではなく、最強の『クールジャパン」政策になる 』と語った。
2021年12月17日放送の『ABEMA Prime』にて、高齢化について「唯一の解決策ははっきりしている」として、「結局、高齢者の集団自決、集団切腹みたいなのしかないんじゃないか。僕はこれを大真面目に言っていて、やっぱり人間は引き際が重要だと思う。別に物理的な切腹ではなくて、社会的な切腹でもいい。過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤーで多すぎる。これがこの国の明らかな問題だ」と語り、スタジオのアナウンサーや専門家を驚かせた。
側脳室(そくのうしつ、英語:lateral ventricle)とは、左右の大脳半球の内部に対称性に存在する脳脊髄液(cerebrospinal fluid、以下CSF)で満たされた一対の空間(脳室)である。
側脳室を満たす脳脊髄液は、内側の室間孔(interventricular foramen、またはモンロー孔、Monro foramen)を通じて第三脳室に流れ出る。(側脳室は左右一対あることから、これらを第一と第二に数え、それに続く脳室は「第三脳室」「第四脳室」と呼ばれている。しかし左右の側脳室のどちらかを第一脳室と呼ぶようなことはなく、あくまで「右側脳室」「左側脳室」である。)
側脳室は大脳半球の形に沿って、(外側から見たときに)Cの字型に広がっている。その背側部分は中心部と呼ばれる。
中心部から吻側に延びた部分は前角、中心部の尾側から急なカーブを作って吻側腹側に延びた部分は下角という。中心部と下角の境界あたりでは、後頭葉に入る後角が出ている。
各部分の壁になっているものを次に挙げる。なお、各部分の区別は厳密なものではないから、対応する大脳葉もおおむねその位置にあるといった程度に理解されたい。
側脳室の脈絡叢で作られたCSFはモンロー孔を通って第三脳室に入り、第三脳室の脈絡叢で作られた分とともに中脳水道から第四脳室に向かう。
側脳室前角の異常:
髄液の流れが緩やかに障害を受け、脳脊髄液がゆっくりと貯溜し(脳室拡大)、頭蓋内圧亢進は来たさず、頭痛や嘔吐、意識障害はなく、脳室の拡大により脳が圧迫され、脳の機能が徐々に低下するものを慢性水頭症(正常圧水頭症)と呼びます。
髄液の流れが急に障害を受け、脳脊髄液が急激に貯溜し(脳室拡大)、頭蓋内圧が急激に上昇し、頭蓋内圧亢進症状(頭痛や嘔吐)、意識障害を来すものを急性水頭症と呼びます。
血の巡りが悪い いらいらする 錯覚する 妄想する など。
脳の各部の名称 |
側脳室と脈絡叢 |
幼児と成人の比較 |
側頭・前頭の接合部 |
脳弓、脳梁、海馬 |