2016年10月12日水曜日

有柄銅剣

三種の神器




この中の有柄銅剣は、近年吉野ヶ里遺跡で出土し、考古学出土品として4件目あるが、その他のものも、九州・山口から多く出土している。


1)福岡県
糸島市三雲南小路遺跡より出土。51.5cm。

(福岡県)
(春日市の須玖タカウタ遺跡で、王族クラスが持つ権威の象徴とされ、握り手から刃先までが一体になった「有柄銅剣」の石製鋳型が見つかっている。2014年。)


2)佐賀県
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓に埋葬された甕棺の一つから、ガラス製の管玉と共に有柄銅剣が発見された。45cm。
日本での出土は4例目となるが、出土状況が明らかなものとしては唯一のものである。

3)佐賀県
唐津市柏崎遺跡よい出土。明治末期。49cm。

4)山口県
長門市油谷王屋敷(向津具)遺跡から出土した弥生時代中期の細形銅剣が有柄付きである。45cm。

2016年10月6日木曜日

高齢と障害は 「社会のお荷物」?


(2016年9月28日 「雨宮処凛がゆく!」より転載)


「文學界」10月号で精神科医の斎藤環氏と対談した石原慎太郎氏は、「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味でわかるんですよ」などと発言。

また、知的障害の息子を持つ大江健三郎氏に対し、「大江なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさんを持ったことが、深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」との発言もしているのだという。

文學界を読んでみると、確かにそんな発言もしているのだが、それ以上に私には大きな驚きがあった。

対談の中で斎藤環氏も「この対談は、読者にとってかなり衝撃的なものになると思います」と言っている。

「石原さんが生と死の間で葛藤しているとか、自分の衰弱に苦しんでいる、悩んでいるというようなことがあるとは誰も思っていないでしょうから」

その言葉通り、対談では、石原氏が「老い」や病(脳梗塞)に直面し、そんな自分を受け入れられずに戸惑いまくっている様子が率直に語られているのだ。

脳梗塞で海馬がダメージを受け、字を忘れたという話になると「斎藤さん、どうしたらいいんですか。こういう日々っていうのは」と尋ね、「自分で自分にイライラする感じ」「自分でこのごろ鏡に向かって言うんだ。『おまえ、もう駄目だな』って」と葛藤を吐露。

既に亡くなった人の名前を出しては「あの先生が生きていたら、すがって相談して迷妄を解いてもらえたと思うんだけど、そういう人が今、いないんだよな」と嘆き、また「いや、若者のつもりで居ても、日に日に老いさらばえていくとね。本当に超越者みたいな人が居たら、すがれたらすがりたいんだけどね」と思いを語る。

そうして対談の最後には斎藤氏に、「今日はお話しできて少しは気が楽になったような気がします。ありがとうございました」

私は心の底から驚いた。あの石原慎太郎が弱音を吐いている、しかも「すがりたい」とか助けを求めてる! そして「ありがとうございました」って、お礼を言ってる! なんかもう、完全に精神科医・斎藤環の「患者」になってる! と。

しかし、「高齢者」「病者」という弱者性を抱え、まさにそんなテーマを語りながらも、同じ対談で障害者差別発言をする彼の存在が、私の中でますますわからなくなった。普通、自分も弱さを抱えれば、種類は違っても「弱さ」を持つ人への共感の気持ちが生まれるのでは? と。

そんな私の疑問に鮮やかに答えてくれたのは、「相模原障害者殺傷事件」を丸ごと一冊特集した「現代思想」10月号に掲載された上野千鶴子氏の「障害と高齢の狭間から」だ。

文章の冒頭では、相模原の事件後、同市で開催された在宅医療を巡るシンポジウムで、「相模原事件を取り上げましょうか」とコーディネーターに言われたものの、上野氏が「ここに来る聴衆には、関心がないと思う」と答えるエピソードから始まる。以下、引用だ。

「なぜか? わたしには理由がわかる。高齢者は自分を障害者とは思っていないからだ。それどころか、障害者と自分を区別して、一緒にしないでくれ、と思っているからだ。脳血管障害の後遺症が固定して、周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても、それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である。

なぜか? その理由もわかっている。高齢者自身が、そうでなかったときに、障害者差別をしてきたからだ。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだ。

だからこそ、上野氏は講演で「齢(よわい)を重ねる」とは「弱いを重ねる」ことだと強調しているという。

「超高齢化社会とは、どんな強者も強者のままでは死ねない、弱者になっていく社会であること。すなわち、誰もが身体的・精神的・知的な意味で、中途障害者になる社会だと。

脳梗塞で半身マヒの後遺障害が残れば、車椅子生活にもなるし、言語障害も残る。認知症になれば、一種の知的障害と言っていいし、レビー小体型の認知症なら幻覚・妄想などの精神障害も起きる。いくらそう伝えても、いま健康な聴衆には将来への不安を与えるのみで、それなら、と認知症予防や健康寿命の延長のための体操教室がはやるばかりだ。(中略)

いついかなるときに、自分が弱者にならないとも限らない。弱者になれば、他人のお世話を受ける必要も出てくる。そのための介護保険である。それだからこそ弱者にならないように個人的な努力をするより、弱者になっても安心して生きられる社会を、とわたしは訴えてきたのだ」

しかし、多くの人が弱者になった自分を受け入れられない。講演会のあとの懇親会で、上野氏は初老の男性にこう言われたことがあるという。

「脳梗塞で倒れたあと、必死でリハビリをしてようやくここまで来ました。あの時、家族が救急車を呼ばずにいてくれたら、と何度恨んだかしれません」

障害者になった自分を受け入れられない。「役に立ってこそ男」という考えから抜けられない。「社会のお荷物」になる自分を受け入れられない。このような「高齢者の自己否定感」が、老後問題の最大の課題だと上野氏は指摘する。

石原氏も、今までの「強者」の思想と現在の自分との落差に愕然としているのだろう。

その背景にあるのは、生産性が高く、効率が良く、その上費用対効果がいいものでないと価値がないとする考え方だろう。すべてが数値化され、どれくらい経済効果が得られるかのみに換算される社会。そんな価値観は、結果的には「弱さ」を抱えた自分自身に牙を剥く。石原氏の苛立ちや葛藤は、そのような効率原理から抜け出せない限り、終わらない。そしてそれは今、多くの高齢者を苦しめているものだろう。

さて、そんなジレンマを「迷惑」というキーワードから論じているのは大澤真幸氏だ。同じ号の「現代思想」で、氏は「この不安をどうしたら取り除くことができるのか」という原稿を書いている。読んでいて、ハッとさせられた。

「たとえば、私たちは、できるだけ多くの人ができるだけたくさん幸福であることがよい、と考えている。言い換えれば、不幸や不快ができるだけ少なく、小さくなることがよい、と。これには、ほとんどの人が賛同するだろう。このアイデアを、倫理学的な原理にまで高めたものを、功利主義と言う。

だが、功利主義は危険な思想である。功利主義に基づくと、他人に多くの快楽や幸福をもたらす人の生は重んじられ、逆に、他人に苦労を要求せざるを得ない弱者の生は軽いものになってしまうからだ。その弱者には、障害者や老人が含まれる。すると、気づかぬうちに、私たちはUの主張のすぐ近くに来てしまう」(Uとは、植松容疑者のこと)

「素朴な功利主義と同じことだが、もっと単純に、ほとんどの人が、こう思っているし、こう言って子どもたちを教育しているのではないか。『他人に迷惑をかけてはいけないよ』と。確かに、これは文句のつけようがない道徳的な項目だ。

しかし、今見てきたように、これには、なおどこか落とし穴のようなものがあるのだ。その合意をどんどん拡張していくと、まったく賛成できない主張(Uの主張)にたどり着いてしまうのだから。それゆえ、こう問わないといけない。ほんとうに、迷惑をかけることは何もかもいけないことなのか」

相模原事件が私の心を離れないのは、彼の主張と現実の社会が奇妙に符合していることによるのかもしれないと。ネット上の悪意に満ちた言説を突き詰め、学校で教えられるタテマエを突き詰め、経済原理ばかりを追求して財源論で命を値切るような社会の空気を突き詰めた場合の最悪の「解」のような。

一方、事件後から容疑者の措置入院解除が問題視されているが、同誌で斎藤環氏は以下のように書いている。

「しかしこの議論の行き着くところは必然的に『予防拘禁』の肯定である。精神障害者は再犯の怖れが完璧になくなるまで隔離せよという主張は、『障害者に生きる価値はない』とする植松容疑者の主張とほとんど重なり合う」

同誌には、ここに紹介した以外にも、当事者や障害者団体による非常に興味深い考察が多く掲載されている。

同誌でもっとも心に残ったのは、DPI日本会議の尾上浩二氏の原稿に出てきた言葉だ。それは、以下のようなものである。

「殺されてよい命、死んでよかったというような命はない」

2016年10月2日日曜日

馬具の種類と効用

馬具の種類と効用




(サドル)
現代の乗馬のサドル(鞍)は馬の背中中央の緩やかに凹んだ馬の背と呼ばれる部分にクッション性が良く吸水性の優れた毛布やマット等(ゼッケン)を被せた後に鞍を載せ、腹帯と呼ぶ10cm程度の幅広の帯を用いて鞍と馬の胴体を固定する。
日本の近代以前では木製や金属製の鞍が存在したが、近代以降の鞍は圧倒的に皮製が多い。
鐙(あぶみ)
鐙革(あぶみがわ)でから左右1対を吊り下げ、騎乗時(馬に登るとき、および、乗っているとき)に足を乗せる(これを「鐙を履く」と言う)。ただし完全に足を深く通すのではなく、爪先を乗せるようにして使う。
腹帯
腹帯(はらおび)は、ウマの背に固定するための帯状の道具。ベルト。「ガース」とも呼ばれる。布製のものや革製のものがある。
鞍の両側であおり革の下にベルトがあり、これを腹帯のバックルに通して締め上げる。
競馬では通常の腹帯で鞍を着用した後、さらにその上からぐるりと締め上げる上腹帯というものがあり、これも使用される。
馬車用では馬の力を車に有効に伝えるための道具で、車種により各種工夫されている。

蹄鉄
蹄鉄(ていてつ)は、や牛といった動物の(ひづめ)に装着される、アルミニウムゴムプラスチック、牛皮、またはそれらを組み合わせたU字型の製具。
手綱(たづな)
手綱(たづな)は、乗馬する際、とコンタクトをとるための道具の一つ。頭絡の一部で、ハミに直接つながっている。乗り手はこれを手に持って、左右の方向指示や止まれなどの合図を馬に与える。
ハミ(馬銜)
ハミ(馬銜、銜)は、馬具の一種であり、の口に含ませる主に金属製の棒状の道具である。轡(くつわ)ともいう。
頭絡
頭絡は、拳による騎手の扶助手綱から(はみ)を通じて馬に伝える役割を持つ。別名「勒(ろく)」ともいう。
いくつかの革ひもと金具を組み合わせて作られており、耳の後ろ、後頭部に回す「項革(うなじがわ)」、耳の前、目の後ろに来る「額革(ひたいがわ)」、耳の下から口に向かい、項革と銜を連結する「頬革(ほおがわ)」、鼻の上に当たる「鼻革(はながわ)」、耳の下から喉元を通る「喉革(のどがわ)」、そして銜とそれにつながる手綱とで構成される。

江田船山古墳・トンカラリン遺跡

トンカラリン(2)



熊本県和水(なごみ)町に、江田船山古墳があり、近くに「トンカラリン」と呼ばれる古代の遺跡がある。


石室入り口



江田船山古墳は、国宝の刀剣で有名で、昔見学したことがある。
国宝の刀剣(銘文入り)


トンカラリンは地中にできた暗渠(あんきょ)や地割れによる縦穴の上部 を葺石で塞いで、延々460mに渡ってつなげた随道(トンネル)型の遺構である。
排水施設であるとか、道教の教えに基づく 祈願の為の隧道であるとか、卑弥呼の祭祀施設の一部であるとかいわれたが、結局のところ、この遺構建造の真の目的や用途 は判明していない。
また、土器類や時代を特定する地層とかも明らかではないため、はっきりした時代特定もできていない。
 地元に何の伝承も残っていない事や、最近、江戸時代の灯置台が3つ発見された事から、少なくとも江戸時代よりは前の遺構 である事は確かで、人によっては太古(縄文・弥生)という見方もあるし、4世紀築造とも言われる。
昭和49年に一度本格 調査され、推理作家の故松本清張氏が、「邪馬台国の卑弥呼の鬼道説」を発表すると、全国の歴史・考古学ファンが現地に殺 到して一躍脚光を浴びたが、現在は沈静化している。
ブラタモリが出かけてきたら面白がるだろう。


私は、 H.26.12.18.日に現地にでかけた。快晴の休日であったが、現地に観光客の姿はなく、ゆっくり見学できた。
江田船山古墳の方は、昔来た時より綺麗な公園に整備されていて、多くの人が遊んでいた。最近は古墳祭りが毎年開かれているようだ。






石人の丘にて
江田船山古墳前で
トンカラリン遺跡にて
ここはマラソンの金栗選手の出身地で、2019年の大河に登場するだろう。

2016年9月30日金曜日

宮本武之輔と九州の縁

学生時代の宮本
窪内石太郎
偉大なる技術官僚だった宮本武之輔(博士)は、愛媛県の興居島に生れたが、いまでは松山市民はおろか出生地の興居島の住人さえもその功績を知るものは少なくなったという。

明治25年1月生 東京帝国大学工学科卒業
内務技師として我国土木事業に盡瘁 興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導 企画院次長として産業立国の策定に挺身 (企画院次長は戦前の技術官僚としては、最高位)
昭和16年12月東京に於いて没す 享年49歳。 
地元の顕彰碑の裏面には「宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し 卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す 知る者皆其の徳を慕う 」 と記されている。

九州との直接の縁はなかったが、彼の異父兄窪内石太郎が明治鉱業の幹部であり、宮本が大学生や若い官僚の時代には窪内石太郎に大きな影響をうけたという。
明治鉱業の当時の重役は、社長が安川清三郎、常務取締役が小西春雄と窪内石太郎、取締役は堀内敏堯、小林為之介、松本幹一郎、監査役は小出英男と松本源一郎、相談役は松本健次郎と白土善太郎の諸氏であった。
安川、松本、小出諸氏の一族とは少し面識があったので、宮本氏の話を聴いておきたかった。

2016年9月20日火曜日

フランク王国と馬具


フランク王国は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国で、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及ぶ。
ゲルマン系フランク人サリー・フランク族が建てた王国であることからこの名がある。
首都は508年にパリに置かれ、カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれてここが事実上の首都となった。

ローマ帝国の権力が衰え、騎馬民族がそれに代わって各地で勢力を伸ばし始めた中で、フランク族の軍事力がひときわ群を抜いていた。
その理由は、彼らが轡や鐙の馬具を全面的に採用した最初の民族だったからだ。

このため馬は大変制御しやすくなり、馬上の騎士は人馬一体となって戦うことができるようになり、騎手が振り回す長剣は威力を増し、射撃手も正確に矢を射ることが出来るようになった。
当時の最先端技術により馬の力を最大限にひきだし、軍事力強化で領土拡大に成功した。
日本でも、騎馬民族国家時代があったといわれているが、中世のはじめは馬の馬力が国を動かしたようだ。
しかし最強といわれた武田騎馬軍団も、鉄砲の出現によって、やがて消滅していった。

2016年9月18日日曜日

蛇行状鉄器と船原古墳



一昔まえ、福間町手光古墳から出土した蛇行状鉄器の説明を聴いた時は、これの使用目的は不明だということであった。
今回(9月17日),古賀の船原古墳の側から同じ蛇行状鉄器が出土し、馬具考古学が専門の、福大桃崎教授の話を聴いた。以前にも3回聴いているが、今回は蛇行状鉄器の詳しい話を聴けた。
馬の鞍の後ろにとりつける旗竿で、古代ではひろく用いられていたようだ。
古代の戦で勝利したときや、和平が成立したときは、生贄の馬とその馬具を埋葬して、盛大な祭りや軍事儀式をおこなったようで、扶余の白村江の戦や、飛鳥の物部・蘇我の戦のあとの例をあげられた。
吉住氏の写真
古賀の船原古墳でも馬の骨からでたカルシュームが見つかっているので、馬と馬具の一体埋葬の跡であり、征韓軍が渡航中止になったときに、同じような儀式をおこなった可能性があると指摘された。
桃崎先生の結論を、吉住氏はつぎのようにまとめられた。

① 船原古墳の被葬者は糟屋屯倉の管掌者と改めて推定
② 管掌者は聖徳太子の一族「壬生部」、「舂日部」では
③ 鹿部田淵と結び沿岸港湾への馬輸送機能拠点か
④ 特異な埋納状況は背後に国際的な重大事件を想定

前回の講演では、来目皇子の墓でないかという話もでたが、さすがに今回はなかった。

箱崎地区の元寇防塁跡


平成15~6年にJR箱崎駅の移転工事にさいして、遺跡調査がおこなわれた。
そのときこの地区に元寇防塁跡があることも話題になっていた。
その後九大移転工事がすすみ、九大敷地内部での元寇防塁跡の発掘調査がすすめられていた。
最近になって総合図書館周辺で、防塁遺構や大きな石の防塁が発見され、さらに調査がすすめられている。











2016年9月13日火曜日

「九曜紋」と殿中刃傷事件

上図のように、家紋には丸を重ね合わせたものが多い。

七曜紋は頼朝家臣の和田、滝川家臣の九鬼などが使用し、「九曜紋」は細川、土屋、石田三成の父などが使用していた。

この家紋の認識違いで、浅野匠守以後の殿中刃傷事件がおこった。細川家の「九曜紋」は、この事件のあと、外側の円がすこし小形に変更された。


細川家の
「九曜」紋

板倉家の
「九曜巴」紋

変更後の
「細川九曜」紋
延享4年(1747)8月15日、月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、6代細川宗孝が大広間脇のに立つと、そこで旗本寄合席7,000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した。
本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。
細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。
まだ若いこともあり、養子は立てていなかったので、世継ぎを欠いては肥後54万石細川家は改易必至だった。
この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村や若年寄り本田忠統らである。機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。
事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常はの両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。

2016年9月2日金曜日

香椎地区の教育施設の歴史

香椎地区の教育施設としては、明治維新直後開校した小学校から、戦後開校した福岡女子大学、九州産業大学など、地区内には多くの学校が存在し、西新とともに学生の町としても知られている。また、塾も多く存在する。

大学:
九州産業大学(松香台) 

1960(S.35)九州商科大として創立。’63より九州産業大学。
             ’80(S.55)に九州造形短期大学を移設。
九州産業大学は昭和35年に、九州商科大学としてスタートし、昭和38年に九州産業大学となった。商学部の定員120名からの出発で、当時の校舎の写真。



福岡女子大学(香住ヶ丘) 
1950(S.25)須崎校舎で創立。翌’51に現在地に移転。
福岡女子大は昭和25年に須崎仮校舎でスタートして、26年に香椎校舎に移った。一期生は115名の入学式でした。当時の香椎校舎の写真。

最近の夜景


高等学校:

福岡県立香椎高等学校(香椎)
1921大正10)に開校した「糟屋郡立糟屋実業女学と、1941(S.16)に開校した「財団法人香椎中学校(旧制で太田家の寄付により設立)
」を前身とする。1948年:統合、県立移管、共学化。
現在の場所は実業女学の跡地で、香椎中学校の跡地は、福岡女子大になっている。
黒門は当初は女子大の場所にあった。

福岡県立香椎工業高等学校(香椎駅東)  1962年(昭和37年)  


福岡県立香住丘高等学校(香住ヶ丘)    1985年昭和60年)

九州産業大学附属九州高等学校(香椎駅東)1963年(昭和38年)


中学校:

福岡市立香椎第一中学校(千早)      1947年(昭和22年)

福岡市立香椎第二中学校(香住ヶ丘)   1972年(昭和47年)

福岡市立香椎第三中学校(香椎駅東)   1983年(昭和58年)

福岡市立城香中学校(香椎浜)       1984年(昭和59年)

福岡市立照葉中学校(香椎照葉):      2007年(平成19年)


小学校:

福岡市立香椎小学校(香椎駅前)        1875(M.8)
香椎小の創立は明治8年。入学生徒数43名(女子ゼロ)よりスタートした。
当時の香椎村人口は1662人。
昭和30年代は団塊世代であふれ、昭和50年代はそのジュニアと団地開発であふれて、香住丘小、千早小、香椎東小、香椎下原小とわかれた。

福岡市立香住丘小学校(香住ヶ丘)       1956(S.31)

福岡市立香椎下原小学校(下原)        1985(S.60)

福岡市立香椎東小学校(香椎台)        1978(S.53)

福岡市立香椎浜小学校(香椎浜)        1983(S.58)

福岡市立香陵小学校(香椎浜)          1992(H.4)

福岡市立千早小学校(千早)           1964(S.39)

福岡市立千早西小学校(香椎浜)        1964(S.39)

福岡市立城浜小学校(城浜団地)        1971(S.46)

福岡市立照葉小学校(香椎照葉): 小中連携  2007(H.19)



学習塾:

セピア通り入り口付近の国道3号沿いに、英進館、全教研、日能研、明光義塾、個別指導塾など

多数の塾が密集している。英進館、全教研などは館が複数開設されている。

公共職業能力開発施設:

福岡県立福岡高等技術専門校(千早)