2024年2月29日木曜日

「ヒッタイト王国」とその滅亡原因

 

ヒッタイト王国の粘土板か 日本調査隊 トルコ古代遺跡から発掘


ヒッタイト王国時代の周辺諸国


3000年以上前、今の中東地域で強大な勢力を誇った「ヒッタイト王国」のものと見られる粘土板を、日本の調査隊がトルコの古代遺跡からほぼ完全な状態で発掘しました。



粘土板にはヒッタイト語のほか国家的な宗教儀礼で使われていたとされる言語「フリ語」も刻まれていて、発掘した研究者は「この遺跡が王国の重要な都市だったことを示唆するものだ」としています。

粘土板が発掘されたのは、トルコ中部にある「ビュクリュカレ遺跡」です。

この遺跡では、15年前から中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所の松村公仁研究員が率いる日本の調査隊が調査を行っています。

去年5月、遺跡の北側から70行にわたってくさび形文字が刻まれた手のひらほどの大きさの粘土板がほぼ完全な状態で見つかりました。

粘土板は文字の形から今からおよそ3300年前、紀元前14世紀ごろのヒッタイト王国の時代のものだと考えられ、ヒッタイト語だけでなく当時、宗教的な儀礼で用いられたフリ語という言語も刻まれていました。

フリ語で書かれた粘土板は、王国の首都「ハットゥーシャ」など重要な都市の遺跡でしか見つかっておらず、今回の発見はこの都市も王家との強いつながりがある重要な都市だったことを示唆しているということです。

松村研究員は「これまでビュクリュカレがどういう都市かは分かっていなかったが重要な都市だったとすれば今後も未知の歴史を明らかにする発見が期待できる」と話しています。




ヒッタイト王国滅亡の理由は?


ヒッタイト」という王国は青銅器時代後期に、鉄の製造がすでに
行われていた。
他の周辺民族には、鉄の製造方法を国家機密として守り抜いたヒッタイト。
ヒッタイト王国には3つの時代区分があつた。
ヒッタイ古王国→ヒッタイト中王国→ヒッタイト新王国
ヒッタイト古王国では、王国が誕生しては滅んで行つた。
ヒッタイト中王国の時期は、王権の移り変わりが激しかったからか、殆ど記録
がない弱小な70年間の王国であった。
ヒッタイト新王国の時代は「ヒッタイト帝国時代」とも呼ばれている。
ヒッタイト王国は、この時ばかりはスポットライトを大いに浴びた。
当時隣国エジプトとシリアとのガデシュで戦い、鉄器や軽戦車を駆使して豪勇
を誇った。軍事記録に残された史上初の公式な戦争だ
和平条約や同盟を行った国際政治・外交の先駆者の実績もある。

その後、ヒッタイト王国が「海の民」によって滅ぼされたという説はあいまいで、
AC1200年頃の長期干ばつと、頻発した大地震、そして疫病の発生により、ミケー
ネ文明やエジプト文明とともに、ヒッタイト文明も衰退していったのでした

断層と地震の被害地×

現代でも、昨年この地方のトルコ国で、大規模の地震が発生し、大きな被害が
でている。

2024年2月14日水曜日

超高齢者の老衰と健康指数

 人生100歳時代である。100歳以上の人が9万人以上の現状である。

死亡原因の1位はがん、2位は循環器、3位が老衰。

老衰は死へのソフトランディングであるが、しかし老衰の定義は今まであいまいであった。

高齢者が死亡の原因が不明なままの、いわゆる自然死が老衰とされていた。


老衰の原因となる化学物質の候補は、いろいろ挙げられてきたが、どれが主現因か不明のままであった。

先輩のK氏は107歳で亡くなられたが、100歳を超えてからは、主治医に健康指数のことを質問しても、「100歳以上のことは医学部で習っていないから」と笑われたそうだ。

私も98歳になり、健康測定会などでいろんなデータを測ってもらうが、75歳くらいまでの指数はあっても、90歳以上の指数はあいまいで、関係者も「お元気ですね」くらいの挨拶ですまされる。

最近のNHKテレビで老衰の番組があり、100歳前後の健康指数の話が少し示された。

最近の分析で明らかになったのは、指数としてのBMIの低下があげられている。


食事摂取量や水分摂取量は低下していないのに、肥満の度合いを示すBMIの量が低下しており、17以下になると死亡に急接近することがわかった。


BMIは脂肪肥満の指数として知られているが、超高齢者の場合は、筋肉や臓器の重量も減少しているのが、老衰現象である。




細胞の再生をする
幹細胞の能力が低下すると、すべての細胞の新陳代謝が行なわれず、細胞の数が減少するから、臓器の重量も減少し、その働きも低下する。




腎臓や心臓などの臓器の細胞の機能低下により、摂取した栄養が吸収されず、血管外に漏れて、腹水やむくみとなり、死亡にいたることが多い。

私も腎臓の機能低下で、昨年から血液検査を定期的にうけているが、GFRという指数には年齢補正の項目があり、かろうじて危険値の境界でとどまっている。主治医からは、120歳まで生きたいなら人工透析をしますが、といわれて辞退している。

最近の体組成測定で、体内年齢は90歳であったが、体水分率が39%で、目安は55~65%であるといわれた。もっと水を飲むように努めよう。

西方浄土筑紫嶋: 自己流の健康診断 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

西方浄土筑紫嶋: 腎臓病の評価(改訂) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

西方浄土筑紫嶋: 老化を招く細胞の正体? (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

私の学生時代は紫外線による日焼けは、健康のバロメータとして奨励されていたが、最近は紫外線の弊害が重視され、幼稚園などでも日よけのテントの下で遊ばせている。


リボソームRNA遺伝子が紫外線により変質されて、タンパク質に変換する機能がなくなることが解明されたそうだ。これも老衰の原因の一つとなっている。

一般的な健康測定では、身長、体重、血圧、握力、片足立、など。

記憶力テストは、運転免許更新時、特定入院時などに受診。

In Body計測では、体成分分析、筋肉・脂肪、肥満指標、部位別筋肉・脂肪など。

たまに、血管年齢、骨密度など。

どの項目も適正値の数値は75歳くらいまでで、100歳周辺は記載されていない。

運動のリハビリ訓練、口腔機能向上訓練などを90歳すぎてから受けはじめた。

現在2ヶ月に一度、主治医の検診をうけ、高血圧、下脚筋肉痛などの薬投与をうけている。

健康サロンで、この様な話題を話したら、皆さんから、私をお手本の目標にしていますと言われた。

2024年2月13日火曜日

和風庭園の世界的評価

 和風庭園が世界的に人気の対象になり、毎年人気投票で順位が決められているそうだ。

この10年くらいは、1位が足立美術館の庭園、2位が桂離宮の庭園に選ばれている。

どちらも広大ですばらしい庭園で、昔訪れたことがあるが、その植木の選定法や景観美の理想は、異なっていることをTVで詳しく紹介された。

素人は気付かない美の差がある。


足立美術館



桂離宮


2024年2月8日木曜日

多色の美術はfine art

「 光る君へ」の大河ドラマでは、平安時代の女性が、十二一重の衣装で大勢登場する。

十二一重


日本人の色彩感覚は、東洋や西洋より優れていた証拠であろう。衣装だけでなく、当時の絵画なども、中国にくらべて多色であり、中国の識者からは、「多色の病に侵されている」と批判されていた。

虹の色は、日本では7色、英米では6色、仏,獨では5色、ロシアでは4色で表している。

明治維新後に来日したフェノロサは、東京大学で政治学、理財学(経済学)、哲学などの授業を担当する傍ら、日本美術に関心を示し、日本画の蒐集と研究を開始した。

次第に日本美術の世界に没頭するようになり、来日した翌年には狩野派の総帥、狩野永悳(えいとく)について、日本と中国の絵画の鑑定法を学び始め、絵画の収集をはじめた。

そして、日本人が思っているより、西洋画と比べても日本画には多くの美点がある。artとしても、applied art としてもすぐれており、このまま廃れてしまっていいのか?と問いかけた。

このフェノロサの問いかけは、日本の美術界や政府関係者を中心に大きな波紋を広げた。

明治政府の方針が急激な欧化政策に対する揺り戻しの時期を迎えていたという時流も受け、日本美術再興の機運が一気に高まった。

尾形光琳の燕子花屏風

フェノロサは、尾形光琳の燕子花金屏風を
applied art として評価していたが、さらに当時の東大森教授は、fine artとして評価し、飾る精神の作品であるとした。

本阿弥光悦の硯箱は和歌と絵の謎


本阿弥光悦にはじまる「琳派」の芸術集団の作品が、今までは装飾芸術家の集団として評価されていたが、最近の美術評価では、光悦がレオナルド・ダビンチであると評価されはじめた。

琳派の作品群


現在の東大辻惟雄教授も、装飾美術の高度のものを、fine art(かざりの精神)に格上げされている。

私も琳派の流れをひく小倉遊亀の金箔ぬりのツバキの絵を保有している。


また福田平八郎の絵画は、写実と装飾の融合と評価されている。

2024年2月6日火曜日

小山田斎宮

 日本書記に仲哀天皇が亡くなったので、神功皇后が仮葬の場所を小山田斎宮にしたことが記載されている。

江戸時代に貝原益見がこれを久山町の山田斎宮と推定したために、地元の学者(長先生たち)もこれを信じておられるかたが多い。貝原益見は福岡から山田まできて、小山田は遠いからと引きかえしている。

古賀市の小山田斎宮は辺鄙な場所のため、また古賀市の広報が不十分のため存在をあまり知られていない。
しかし、河村哲夫氏
の本では、「遠賀川河口から筑紫平野に上陸した一行が香椎までたどった経路」が地図のようなルートだったと推定し、久山まわりで香椎にいくのは不自然であり、古賀の小山田経由のほうが自然である。
仲哀天皇の遺体をこの経路にそって送り返し、香椎、小山田、穴門の順に移動させ、穴門の豊浦宮が忌宮神社と呼ばれるになったと想定している。
私も地元郷土研究者として同じ意見だったので、大いに意を強くした次第である。





河村哲夫氏は日本 の歴史家。. 立花壱岐 研究会会員。. 日本ペンクラブ 会員。. 
福岡県文化団体連合会参与。. 福岡県 柳川市 生まれ。. 
九州大学法学部 卒。. 元 九州産業大学 講師