2015年10月30日金曜日

東行庵の総括

高杉晋作は、死んで赤間関(下関)の鎮守となると誓っていたが、下関街の大半は長府領・清末領であり、適当な埋葬場所がなかった。
萩本藩でもっとも下関に近い場所が吉田で、奇兵隊の本陣が置かれたところだった。その清水山の麓に山縣有朋が新婚生活を営んだ無鄰庵という小さな家があった。
これが晋作の愛人うのに譲られ東行庵となる。うのは剃髪して梅処と号し、明治42年に亡くなるまで晋作の菩提を弔い続けた。
山縣や伊藤ら晋作ゆかりの人々の寄付集めで、晋作、参謀福田、愛人うのの墓や建物、銅像、顕彰碑などが建立されて、境内が整備されてきた。東行庵の石碑の文字は毛利公の書という。









3代庵主のころには、奇兵隊や諸隊の兵士の墓130基ほどをあつめた顕彰墓地ができ、さらに反乱で処刑された兵士の墓も追加された。
この場所の高台には大きな聖観音石像が立っている。
 「おもしろき こともなき世を おもしろく
    ふきかえしたる 東行春風」

高杉晋作の東行庵に山県有朋の銅像がある。何故だろうと思ってしらべた。
この清水山麓には、もともと奇兵隊陸軍監山縣狂介が新婚生活を営んでいた小さな家があった場所で、それを晋作の愛人うのに譲って東行庵となったそうだ。

山県の銅像



東行庵建立寄付者のなかでも、毛利公55円についで、50円組4人のトップに山県が名前を書き、あと井上、山田、伊藤とならんでいる。
また、東行庵にある晋作の顕彰碑は大きいが、墓は予想していたより小柄な墓であった。
明治42年ごろにできたものだが、一緒に建てられる奇兵隊参謀の福田公明(侠平)の墓が先にできた。完成を待ち望んでいた梅処尼は「旦那のがまだ来ない」と言いながら、ついに墓石をみずに67歳で亡くなったという。彼女の墓も近くに建てられている。
宿理 英彦、新田 昌彰、他3人

2015年10月28日水曜日

大村益次郎の大村神社と墓と銅像

大村益次郎(村田蔵六)は周防国吉敷郡鋳銭司村の村田家で生まれた。
JR山陽本線四辻駅から歩いて数分の場所に益次郎生誕地の碑があり、整備された記念広場になっている。
石碑の書は山縣有朋である。
さらに国道2号線を東に行くと、長沢池という灌漑用の大きな池がある。
その奥の小高い山の中腹に益次郎と妻琴子の墓が並んでいる。
そのそばには業績を刻んだ神道碑があり、愛弟子の山田顕義の文字である。
その麓には地元の崇敬者たちによりたてられた大村神社がある。戦時中に現在の大きな社に建替えられたという。
花神の小説やドラマをかいた司馬遼太郎の記念塔もある。
社から鳥居をみると、広い長沢池が見下ろせる。
大村の考えた「将軍の術」とは、すなはち、勝つための作戦であった。
上野戦争では彰義隊を上野山に封じ込め、三方より殲滅、とどめは佐賀藩のアームストロング砲を使用し戦意を挫いた。
但し、袋のネズミにせず、根岸方面だけ逃道をあけておいた。
また事前に江戸の大火の過去分析を実施し、天候や風向きなども調査し、戦に勝つだけでなく民衆の支持にも配慮した。
すぐれた作戦とは一人のすぐれた頭脳から生まれるものである。


地元で、大村益次郎の新しい銅像除幕式が、2020年7月23日、生誕地の山口市鋳銭司であり、地域住民らが完成を祝った。

 地元の鋳銭司自治会などでつくる大村益次郎没後150年事業実行委員会(会長・岡本敏自治会長)が大村の偉業を後世に伝えようと企画。移転新築した市鋳銭司地域交流センターの敷地内に建立した。全国の約1100人から1200万円余りの寄付金が寄せられたという。

 除幕式で岡本会長は「近代国家成立に大きく貢献した大村益次郎を地域の誇りとして、地域への自信が生まれ、勉学に励み未来に挑戦する多くの若者が育っていくことを願っている」と述べた。

 大村は幕末に長州軍を率い、「日本近代建軍の父」として知られる兵学者。教育者としても活躍し、幕府の洋学所で教壇に立ち、私塾を開いて若者を育てた。

 銅像は高さ1メートル55センチ。東京の靖国神社にも銅像があり、「軍神」のイメージが強い大村だが、教育者としての側面に焦点を当て、地球儀のそばで講義する姿を表現している。
 

2015年10月24日土曜日

戦艦「伊勢」の運命

私が唯一軍艦に乗った経験があるのは、昭和9年頃、戦艦「伊勢」が博多湾に寄港していたときで、小学生が乗船して見学を許された時でした。
その後の「伊勢」の運命は、いままであまり詳しく知らなかったのですが、今回その建造から敗戦までの物語の詳細をしらべると、懐かしさと悲しみの物語でした。

戦艦伊勢の写真
戦艦伊勢の模型





「伊勢」は、大正2(1913)年の建艦計画で、最初は大型戦艦4隻が計画されました。

一番艦「扶桑」、二番艦「山城」、三番艦「伊勢」、四番艦「日向」

 ところが建艦は、一番艦の「扶桑」の建艦が行われ出したところで、残る3隻が、無期延期になってしまいます。国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。

日露戦争が終わって8年目、前年には朝鮮半島も併合しています。「もう戦争は終わったのだ」
「だいたい海軍はカネを遣いすぎる」
「ハコモノ行政はけしからん。もっと民生にカネをつかうべきだ」
「国民の生活が第一だー!、年金を出せ〜!、政府の財政赤字をなんとかしろ〜!」

要するに現在と同じ国民の世論です。海軍は、やむなく少ない予算で、なんとかして強力な戦艦を作ろうとしました。

けれどその結果、設計に無理が出てしまったのです。新造艦の「扶桑」は、英国の新鋭ドレットノート戦艦の戦力には到底及ばないツマラナイ船になってしまったし、しかも4艦建造の予定が1艦だけになってしまったのです。


日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、3:5:5と決めたのです。

日本が条約を飲むやいなや、翌年8月には日英同盟が失効し、変わって米英が同盟国となるという結果が招かれました。
こうして世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
日英(5+5=10):米(5)  から、  日(3):英米(5+5=10)
という、パワーバランスになったのです。
日本は、著しく不利な状況に置かれることになりました。
軍事バランスが変化したのです。日本はこれにより、東洋の「弱国」になってしまったのです。

要するに、日本が支那事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「ドレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級4隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、という説もあります。


ようやく大正2(1913)年には「扶桑」、大正3年には「山城」が建造開始となりました。

結果、できあがった一番艦の「扶桑」、二番艦の「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというありさまでした。

要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。

これでは戦艦の体をなしません。しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にありません。


そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正6(1917)年、「日向」は大正7(1918)年にそれぞれ就役させることになりました。

そして大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、徹底的に船体の改良をされていきます。

さらに、昭和9(1934)年、緊迫する世界情勢の中で、姉妹艦は大改装を施されました。


まず第一に、艦の主砲の最大仰角が45度に引き上げられました。

当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。

それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。

当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。

それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。

もともとは、最大仰角25度で設計された船です。
それを一気に45度に引き上げたのです。
しかも砲弾の命中率さえも向上させたのです。

これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸びました。なんと、33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。


次に装甲が格段に強化されました。これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしないものとなりました。

さらに新型タービンエンジンを搭載させました。船速は、25.3ノットまで引き上げられました。それでもまだ世界の標準艦には追い付かないものです。


そして新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させました。さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線を装備させました。

海軍は、なんとかして世界の艦隊レベルに追いついて行こうと努力したのです。けれど、それでもやはり船速が遅いのです。

連合艦隊の機動部隊に参加するなら、最低30ノットは出なければ、他の艦についてけないのです。


大東亜戦争がはじまったとき、ですから「伊勢」と「日向」は、練習艦として配備されました。実戦では使い物にならないとされたのです。

そんな姉妹艦が実戦投入されたのは、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦からです。「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練にいそしみました。ところが訓練中に重大事件が起こってしまうのです。

昭和17(1942)年5月5日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしたのです。

砲塔部が吹っ飛びました。乗員54名が一瞬にして亡くなりました。

やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部をそっくり外して、その穴を鉄板で塞ぎ、上に25ミリ四連装機銃を突貫工事で装備させました。


つまり主砲がない戦艦として「日向」はミッドウェー作戦に参加したのです。本来なら、対艦主砲の代わりに機関銃を設置した艦など使い物になりません。

「伊勢」と「日向」がこのとき参戦させてもらえたのは、ただ一点、試作品とはいえ、レーダーが装備されていた、という理由です。


ところが船速の遅い船です。

艦隊のはるか後方を航行しているときに、せっかくのレーダーも、まったく活かされないまま、ミッドウエー海戦では日本海軍が大敗してしまうのです。そして日本は、大切な空母をも失ってしまいました。

失われた空母力を補うのは喫緊の課題です。さまざまな商船や、水上機母艦などが、空母への改造を検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。


そこで結局、建造中の大和型の大型戦艦の3番艦である「信濃」を空母に改造すること、および事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいるだけの「日向」、「日向」と同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されたのです。

巨大戦艦は大和・武蔵の2隻と思われているが、信濃という巨大空母もあった。

写真の説明はありません。


しかし「伊勢」も「日向」も、もともと戦艦として設計された艦です。
だから艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。

これを壊して空母に改造するとなると、完成までに1年半はかかってしまう。ならば艦の後部だけを空母にしようと出来上がったのが次の絵にある「航空戦艦」という形です。


航空戦艦伊勢の図


     航空戦艦伊勢の写真



ただ、問題があります。「伊勢」も「日向」も、艦の中央に巨大な艦橋があるのです。

つまり空母として航空機の発着陸に必要な十分な滑走路を確保できないのです。そこでどうしたかというと、まず離陸は、カタパルト(射出機)で対応することにしました。

カタパルトを使えば、離陸に長い滑走路は必要ありません。
このためカタパルトは、新型のものを備え付けました。

これは、30秒間隔で飛行機を射出できる、当時としては最先端の技術品です。これを二基備え付けました。

これによって、わずか5分15秒で全機発艦できるようになりました。これまた世界最速です。
では飛行機の着艦はどうするのか。

甲板には、着艦に必要なだけの滑走路はありません。つまり、着艦できません。そこで「一緒に航海する空母に着陸させればよろしい」ということになりました。


といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。
そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがありません。

どうするかというと「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈になったのです。
残酷な話ではあるけれど、それは現実の選択でした。

そして「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、それぞれ大改造を施されました。

さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。

対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されたのです。それだけではありません。新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。

各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、超強力防空戦艦としての機能も身に着けたのです。

こうしてようやく完成した姉妹は、昭和19(1944)年10月に戦線に復帰しました。

そして同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊に、「航空戦艦」として参加することになりました。

ところが艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまったのです。つまり、載せる飛行機がなくなってしまったのです。


「伊勢」と「日向」の姉妹は、フィリピン沖で、艦載機を載せないまま、米軍のハルゼーが繰り出してきた527機もの飛行機の大編隊と戦うことになりました。

この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を受けました。
しかし、この戦いで、敢然と猛火蓋をきったのが、「伊勢」と「日向」でした。両艦あわせてほとんど損傷を受けないまま、100機近い敵機を撃墜してしまったのです。

さらに「伊勢」に至っては群がる敵機との戦闘のさ中に、自艦のエンジンを停止させ、被弾し沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業さえも行っています。

エンジンを停止すれば艦は停まります。停まっている艦には、爆撃機の爆弾が当たるのです。ですから本来は敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙なのです。

ところが「伊勢」の持つ強力な対空砲火は、敵の航空隊をまるで寄せ付けない。しかも戦艦設計の強力な装甲は、敵弾を跳ね返してしまう。

だから戦闘のさなかに堂々と艦を停止させ、対空砲火で群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員100名余を、助けることができたのです。

これは海戦史に残る、ものすごい出来事です。

レイテ沖海戦敗戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失ってしまいます。日本の戦況はますます厳しさの一途をたどります。

そのレイテ沖海戦で生き残った「伊勢」と「日向」は、武装した輸送艦として、主に物資の運搬に用いられました。

航空戦艦を輸送船に使うなどもったいない話ですけれど、当時の状況下では頑丈な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実だったのです。

こうして「伊勢」と「日向」は、昭和19年11月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運んできました。

途中で、何度も米潜水艦に狙われたのですが、そこはもともとが戦艦です。なんなく敵潜水艦を撃退し、無事に、内地にたどり着きました。

そしてこのとき「伊勢」と「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の航空燃料でした。

沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った最後の燃料です。

けれど最後の航空燃料を持ち帰った姉妹は、自分が海上走行するための燃料がなくなりました。

このため二艦は、呉の港の「海上砲台」として停泊したまま使用されることになりました。

終戦間近の昭和20年7月28日、呉の海軍兵廟は、米軍機の猛攻撃を受けました。

このとき「伊勢」と「日向」は、停泊したままで、まさに鬼神の如き戦いをしました。途中で大破しました。船底は、港の海底に着底してしまいました。それでも「伊勢」と「日向」の対空砲は火を吐き続けました。
そしてついに対空砲火が底をつこうとしたとき、やむなく「伊勢」と「日向」は、群がる敵機に向かって主砲をドドンと放ちました。

戦艦の主砲の威力は強大です。たいへんな爆風を伴います。

この主砲の発射の風圧によって、そのとき米軍機が、まるで空中のハエが突然死んで落下するように、パラパラと、まるで雨のように海面に落ちたそうです。

そしてこのときの主砲の発射が、日本戦艦が放つ最後の主砲発射となりました。

できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。

そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされませんでした。

その2隻が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の砲撃を行って、沈黙しました。

小学生で乗船し、巨大な主砲や、水兵さんの食事用の大窯なども見たときは、無敵艦隊の戦艦とばかり思っていましたが、ちょうど来年の大河ドラマ「真田丸」の真田信繁ような運命をたどった物語でした。





















2015年10月19日月曜日

信長が名付けた城名〔改訂)

織田信長は美濃の稲葉城を攻め落として、これを岐阜城と改名した。
岐阜城
その由来はつぎのように言われている。
岐阜の岐は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事により、また岐阜の阜は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるよう願って命名したという。
いかにも天下布武をめざした信長らしい話だ。
その後近江の目賀田山に安土城を築いたが、この名称の由来には2説ある。
安土城
 
内部構造


故郷の愛知は「あゆち」と呼ばれていたので、これを安土とおきかえたという説と、「平安楽土」の言葉から安土の2文字を選んだという説である。
どちらもすでに天下布武を達成したという心境から選んだ言葉のようである。
この心のゆるみが本能寺の変を誘発したのかもしれない。

2015年10月15日木曜日

麻の受難の歴史

「麻」とは大麻、苧麻(ちょま)、黄麻、亜麻、マニラ麻などの総称。
我が国では一般に大麻と苧麻をさし、苧麻は真麻(まお)、からむし、ラミーともよぶ。

 麻の歴史は古く縄文時代から栽培され、紅花、藍と共に有用の三草とされていた。

「 麻衣 着ればなつかし 紀伊(き)の国の
     妹背(いもせ)の山に 麻蒔く 我妹(わぎも)」 
          万葉集 巻7-1195 藤原卿

( 麻の着物を着ると紀伊の国の妹山、背山で麻の種を蒔いていたあなたがなつかしく思われてなりません)

藤原卿は藤原房前、あるいは藤原武智麻呂ともいわれているが定かではない。

 この歌での麻は大麻で春に種を蒔き晩夏に収穫する。
当時、貴族階級は絹物、庶民は麻衣を常用していた。
 作者は親しかった女性と共通の思い出のよすがとして
「麻衣着れば」(共寝したことが)「なつかしい」と詠った。

 日本語では、ひとくくりに「麻」と呼んでいるが、英語には日本語の「麻」に相当する単語がない。
 日本語でいう「麻」は、英語圏ではもっと細分化されていて、Ramie(ラミー)=「苧麻(ちょま)」、Linen(リネン)=「亜麻(あま)」、Jute(ジュート)=「黄麻(こうま)」、Hemp(ヘンプ)=「大麻」など、
その種類は、なんと20種類もある。

 他にも、マニラ麻のことは英語でAbaca(アバカ)というけれど、これは芭蕉科で繊維長5ミリから1センチくらいで、多年生植物。
ヘネケン(Henequen=サイザル麻)は、石蒜科(セキサンカ)の多年生植物だ。
つまり、種類も、科目も、生存年も、繊維の長さも、全然違うのだ。

 その日本に、ヘンプ以外の麻がやってきたのは、実は明治7年のことだ。ロシアに榎本武揚が公使として赴任していたが、そのロシアで栽培されていたリネン(亜麻)が、北海道開拓に役立つのではないかと、彼が、当時北海道開拓長官だった黒田清輝に、リネンの種を送った。

 その種を使って、まず札幌で、リネンの栽培が始まり、その後、フランスからリネンの紡績技術を学んで、明治17年に、リネン紡績株式会社が設立された。

 これに目を付けたのが安田財閥の安田善次郎であった。
彼は帝国製麻株式会社をこしらえてリネンの栽培と普及に乗り出し、この会社がいまも東証一部上場となっている帝国繊維株式会社に至っている。
 戦時中は、このリネンの栽培のために、北海道だけでも、約4万ヘクタールもの土地で、リネン栽培が行われていた。これが重要な軍事物資となっていた。

 その他に、マオランという種類の麻はニュージーランドノーフォーク島の固有の常緑多年草の一種で、繊維作物として栽培された。

 マオリ人がニュージーランドに到達してから、その繊維はマオリの伝統的織物英語版)に広く用いられていた。また、ヨーロッパ人の到達後、少なくとも第二次世界大戦前まではロープや帆の材料として用いられた。

 
 一時日本でもこの繊維植物「マオラン」(真麻蘭)が導入されて熱病のように全国農村を風靡しようとしていた。

 マオランの栽培は昭和四年あたりから福岡県を中心に九州一帯に流行を始め、漸次四国、近畿と東進して、五百町歩を超える栽培面積となり次第に関東方面に進出せんとしていた。


 古賀町にも昭和5年に古賀国策マオラン工場が設立され、昭和15年に高千穂製紙に買収されるまで存在していた。

 この種苗分譲商は陸軍省、逓信省等の官公機関の名前を盗用しマオラン繊維はマニラ麻繊維に代るべきロープ材料で軍事上欠くべからざるものと巧に非常時熱をあおり、栽培者から種苗をどしどし買いあおって更にその種苗を高価に新栽培者に分譲して巨利を占めていた。

 しかし農林商工両省の試験調査によると、当時のマオラン繊維の商品価値は低く、ロープ材料としての使用価値も悪かったので、流行に乗って貴重な土地を空費し、何時惨落するかも知れぬマオランを農家副業とすることの危険を痛感した農林省では、各府県にマオラン栽培警戒の警告を発することとなった。

 しかしマオラン栽培は一時的には、商人の種苗買いあおりにより栽培農家は種苗の販売によって相当の採算はとって居たので、この投機鎮圧には監督当局も少なからず苦慮したという。

 そこで、日本古来の「麻」を、他の「麻」と分ける意味で、昭和初期頃から、日本古来種の麻を、「大麻(おおあさ)」と呼ぶならわしになった。
 「おおあさ」は、音読みしたら、「大麻(たいま)」です。

 ところがその「大麻」が、いまでは、まるで麻薬のような危険な植物とされてしまっていることは、みなさまご存知の通りだ。

 この「大麻取締法」は、昭和23(1948)年、つまり戦後にできた法律である。どうして法律ができたかというと、GHQの強制であった。

 実はその裏には米国の石油資本の影響があるらしい。
麻(ヘンプ)は、荒れ地でもすくすく育つし、収穫高も多い。
繊維製品や紙製品としてきわめて歴史が古く、需要も多い。
その麻の栽培や収穫を規制すれば、石油から作られる化学繊維が爆発的に売れる。そうすれば石油資本は、巨万の富を築きあげることができる。

 そのために、麻=大麻=麻薬というイメージを作り上げ、麻を「麻薬(=源字は、魔薬)」として取り締まりの対象にまでして、規制してしまった。

 つまり、私達現代日本人が、有害植物、犯罪植物と信じて疑わない「大麻(=ヘンプ=麻)」は、実はたいへんに身近な、生活必需品だったものを、石油資本が私的な利益のために、GHQを通じて強引に「魔薬」としてまった。
 そして日本に限らず世界中で、ヘンプは、農業麻栽培や、産業が破壊され、それと同時に麻を利用した文化まで否定されてしまった。    

 (ねずブロ参照)

2015年10月14日水曜日

尾張・愛知・名古屋の地名

戦国時代に3人の天下人を生んだ愛知県だが、名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋にあったというように、尾張・愛知・名古屋の地名が錯綜している。

地名辞典などによると、最も古い地名は尾張で、「尾張」の発音が「終わり」と重なる点からもわかるように、ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされて、呼ばれたのが尾張であるという。
また『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如しという。
さらに江戸時代に尾張藩が編纂した『張州府史』によれば、小針(おばり)村は、古くは尾張村であって、尾張の名称は、この地から起こったとしている。

つぎに[愛知]の名前は、日本書紀に「年魚市」・「吾湯市」や「鮎市」、「和名抄」は尾張国「愛智」郡に「あいち」と訓を付しているが、古くは「あゆち」と発音されていた。
万葉集巻3に飛鳥期の歌人・高市黒人の詠んだ羇旅歌の
「作良田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」
とある「年魚市(あゆち)潟」という、伊勢湾に面する愛知郡の沿岸部に位置する低湿地帯の地名がある。現在も昭和区に「阿由知通り」の名に(あゆち)の響きが遺されている。
「あゆ」は、湧き出る意で湧水の多いところとする説、東風を「あゆ」と訓むところからめでたいものをもたらす風の意とする説などがある。また、日本武尊の東征の出発点、「足結地(あゆち)」とする伝承もあるという。
明治2年に尾張藩が名古屋県に改称されたが、さらに明治5年4月2日に明治政府が名古屋県を愛知県に改称した。
その背景には、戊辰の役の際の尾張国の動向を、明治政府は好ましく思っておらず、懲罰的な意味合いを含み「名古屋県」の県名を認めず「愛知県」に改称させたという説がある。

「名古屋」の地名は平安末期に小野法印顕恵(九条〈藤原)顕頼の男子)が領主となって開発、立荘した荘園「那古野荘」による。
現在でも名古屋市西区の中区に接する堀川西岸に「那古野」の地名が残っている。
「ナゴヤ」の由来には、気候や風土が“なごやか”な土地とする説、土地が崩れて崖になった場所を「なご」と言い、「や」は谷で、谷間にある湿地とする説、なごやかな地形=「なだらか」という連想から、なだらかな傾斜のある地形とする説などがある。

名古屋城は、名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」、「蓬左城」などの異名を持っている。
金の鯱矛で有名でわかりやすいが、「蓬左城」は熱田宮との位置関係から名付けられた。

熱田の地は古来から「蓬莱島」と呼ばれている。
その由来は、波静かな年魚市潟(あゆちがた)に面し、老松古杉の生い茂る熱田の杜が、海に突き出る岬のように見える事から、不老不死の神仙の住む蓬莱島(中国の伝説)に擬せられたからであろうといわれている。
また(あゆち)に「吾湯市」と漢字を当てた地名もあり、「あゆち田」が「あつた」と変化し、「熱田」となったという説もある。
かって尾張国造の尾張氏の本拠地が熱田神宮に近い断夫山古墳(美夜受比女の墓と言われる)付近に比定されていることから、愛知郡の中心的場所として「あゆち」を由来とする地名が中区に南接する熱田区域に存在した。

江戸や東京などよりは、地名が豊かで、天下人も多くうまれた歴史多き地域である。

2015年10月8日木曜日

中島宏の青磁の壷

青磁・人間国宝   中島宏氏
1941年、佐賀県生まれ。
69年、弓野古窯跡に登窯を築いて独立する。
2002年、日本工芸会理事に就任。05年から06年にかけ、東京・松涛美術館と福岡・福岡市美術館で「中島宏―現代を生きる青磁」展を開催した。
06年に日本陶磁協会賞金賞を受賞。
07年、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
12年には、日本工芸会副理事長、陶芸部会会長に就任。旭日小綬章も受章した。
中島宏氏


わたしは1990年九州工業大学の退官記念にY社から青磁の壷を頂いた。当時は武雄(弓野)の中島宏さんの作品ということをきいても、予備知識はゼロであった。
わが家の青磁の壷
その後嬉野温泉にいった帰りに、武雄の中島さんの窯元に立ち寄った。樟の木でつくられた立派な座敷に大きな作品が沢山展示されていた。もうかなり前のことで、記憶がうすれているが、美人の奥さんから迫力のある作品の説明をうかがった。
邸宅の広縁と庭


座敷の展示品


武雄の弓野窯玄関
後日Y社会長の自伝を読んでいたら、中島さんの窯元に行こうと誘われたのは高松宮であったと書いてある。ゴルフや陸上競技で深い交流があったらしい。これ以来会長も青磁にとりつかれたようだ。 
我が家の宝にしなければと思い、中島さんの作品集の本を購入して調べ、壷は大事にかざっている。
また岩田屋での作品展示会にでかけたり、天神でのご本人の講演会にでかけて、青磁の歴史の話をきいたりした。

その後中島宏さんが人間国宝となられたというニュースがとびこみ、驚くと同時にますます家宝としての価値があがった。
箱書きはないので、あらためて作品の銘を写真にとったが、独特の「宏」の文字が刻まれている。
「宏」の銘
箱書きの「宏」の銘の例
若い頃から小石原焼や有田焼の窯元にはよくでかけて作品を買ったり、九州産業大学では酒井田柿右衛門さんの話を聞いたり、その窯入れ式に参加させてもらったりしたが、中島氏の弓野窯には独自の静かな魅力を感じている。

2015年10月5日月曜日

福高(旧制福岡中学校)の前史(再改訂版)

 福岡県立の旧制福岡中学校(現在の福岡高等学校)は大正6年(1917)に創設されたということになっている。

同窓会名簿も、第1回卒業生は大正11年3月卒業からはじまっている。
しかし明治維新直後の混乱期の歴史をよく調べてみると、明治12年から22年までの10年期間、県立福岡中学校が存在していたことがわかる。

明治3年(1870年)福岡藩が太政官札を偽造してそれが日田県内に流通していると告発があり、その後の明治政府の調査の結果、福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。

このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代黒田長知は藩知事を解任され、後任の藩知事には有栖川宮熾仁親王が就任した。その後、廃藩置県により福岡県となり、さらに豊津県、久留米県、柳川県が福岡県に吸収合併された。

かっての藩校は、明治7年から11年までは臨時的措置で各種学校として復活存続されたのち、正式の福岡県立中学としては明治12年から新規に発足した。

1879年(明治12年)育徳館: 県立となり豊津中学校と改称する(小倉分校を設置)。

1882年(明治15年)思永館: 県立豊津中学校小倉分校を「小倉中学校」と改称。

1879年(明治12年) 明善館: 久留米師範学校を廃止。県立久留米中学校設置。

1879年(明治12年) 伝習館: 福岡縣立柳河中學校設立。


ただし地元福岡の藩校修猷館は黒田色を追放するためか廃校となり、建物は診療所として利用された。

そして育徳・思永・明善・伝習館と同じ明治12年に、県立福岡中学校が別途に創設された。場所は福岡城、下の橋の前でした。(現在の電通福岡ビル付近)

 明治13年の福岡市地図には、福岡城三之丸の橋の前に、中学校と師範校が並んで記載されている。この地図の面積からみると、当時の学校の規模は藩校の延長程度で、百名以下だったろうと推察される。

明治13年の県議会で、主要都市部の上記の五中学校のほかに郡部に十三校の中学分校を設置することになり、各郡部の上等小学校を中学分校とした。福岡中学の分校は箱崎小学校におかれた。しかしこれらは明治15年には悉く廃止され、郡立経史校となり、漢学などを教えたという。

明治23年の地図では、同じ場所が中学修猷館に変わっている。







            明治12年福岡市地図の中学校


 これは、もと黒田藩士の金子堅太郎や玄洋社グループなどの有力者らが修猷館復興運動をおこし、紆余曲折をへて明治19年についに復興に漕ぎ着ける。
金子堅太郎

しかもその後県の財政が悪化したために、福岡地区で2校の存続が不可能となり、福岡中学のほうを明治22年に廃校としたからである。

当時の事業仕分け人は不明だが、当時の県知事は玄洋社の杉山と親交のあった安場保和(熊本細川藩出身)であった。


昨年は1879年から130年の開校記念行事が、育徳、思永、明善、伝習などの旧藩校系の高校で行われたが、福岡高校は100周年を7年後に迎えるような後発高校になっている。

しかし明治12~22年の間の卒業生の記録は残っているいるので、小林前同窓会長の話では100周年記念の時には整理して出版する計画が進んでいるようだ。

この間の卒業生の中の有名人としては、明治専門学校の創設者の一人松本健次郎氏(安川敬一郎次男)が明治22年の卒業生であり、その邸宅は現在北九州市戸畑区の西日本工業倶楽部として現存しており、市の文化財に指定されている。

松本健次郎

また川上音二郎も入学していたが、継母とのおりあいが悪く、中途で家出して上京している。

川上音次郎

(開校記念行事の年代は2010年の記事)

2015年10月1日木曜日

大河 黒田官兵衛のまとめ

http://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/kanbee.html  (福岡県)


http://www.city.fukuoka.lg.jp/charm/kanbei/  (福岡市)


http://webtv.pref.fukuoka.lg.jp/ja/movies/detail/2424  (築上町)


http://www.jrkyushu.co.jp/kanbei/spot/nakatsu.html  (中津市)