2015年12月30日水曜日

漢字遊び

一  大無人  土無十  旦無日  百無白
ニ  天無人  些無比  示無小  竺無竹   
三  用無川  王無丨  丰無丨  目無冂
四  罪無非  署無者  罠無民  罹無惟
五  吾無口  伍無人  圄無回  娪無如
六  亢無一  交無人  亦無儿  宍無宀
七  切無刀  匙無是  化無人  它無宀
八  兵無丘  兄無口  釟無金  見無目  
九  鳩無鳥  馗無首  釚無金  仇無人
十  土無一  針無金  辛無立  計無言

植民地解放


 太平洋戦争後、世界で数十カ国が植民地から解放されて、独立をしました。

日本としてはあやまちであったかもしれないが、四年にわたって日本が太平洋戦争を戦い抜いたことが、これらの国々に解放をもたらし、大きなしあわせをもたらす一つの基礎になっていると思はれる。

この戦争で、若き青年あるいは学徒動員された人たちは、一路殉国の精神に燃えて、あるいは特攻隊員になって戦死された。そういう殉国の青年をして犬死というような人があるとするならば、許せないことだ。

そういう青年たちの尊い血が流されたということが、アジアなりアフリカの幾多の植民地の国々が独立した一つの基礎になっている。

しかし、そのことが日本国民のあいだでも言われていない。

のみならず、独立をかちとった国の人びとも、はっきりとそういうことは言っていない。

われわれは日本が4年間戦い抜いたことによって、そういう機会が生まれたということを、はっきり知ってもらうべきだ。

もし日本に実力がなくて、戦争が一夜にして敗北するか、あるいは短期間で敗戦の憂き目をみるというようなことがあったならば、植民地は解放されなかっただろうと思う。

このことは、昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦日の 大日本帝国が米英へ宣戦を布告した時の、昭和大帝の「開戦に当たっての詔書」のなかに明記されている。

 その内容とは、米英による帝国への横暴を排除し、自存自衞を確保するため、開戦の止む無きに至った経緯を説明し、南方へ出征する兵士を激励する と同時に内地に残る国民へ銃後の守りを固めるよう訓示したものである。

紙面の後段に「帝国政府声明」と言うものが記載されており、 アジア解放宣言が書き込まれている。

「而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る、 なんらその住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して、東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を分かたんと祈念するに外ならず。帝国は之ら住民が 我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」
解りやすく書き直すと次のようになる。

「そのため、今回帝国は東南アジア地域に武力進攻せざるを得なくなったが、それは決して東南アジア住民に対して敵意を持つからではない。ただ、米英から東南アジア住民に対し加えられてきた暴政を排除し、東南アジアを白人によって植民地化される前の、明白なる本来在るべき姿へ戻し、ともに協力して繁栄することを願うからである。大日本帝国は 東南アジアの住民たちがこの戦争目的を了解し、東亜に新たなる政治経済体制の構築を目差し共に行動することを疑わない」

平たく言えば、 「アジアを白人植民地から解放して、白人が支配する前の状態に戻す。即ち独立国家とする」と言って居るわけである。




ここで、注目すべきはこの”アジア解放宣言”において東南アジアの人々を「住民」と 表し「国民」とは呼称していないことである。その理由は明白で、当時東南アジアにタイ王国国民以外に「国民」など存在しなかったからである。タイ王国以外の現地住民は「植民地の住民」だったのである。

しかし、戦後、日本の研究者、メディアは”開戦に当たっての帝国政府声明文”の存在に気づかなかったか、気づいてはいても意図的に引用を避けて来たようである。

『有色人種を解放した大日本帝国』安濃豊著より

2015年12月27日日曜日

征清殉難烈士と孫文の歴史

20年ほど前に漢口や上海や台湾を旅したことがあり、中山記念館や銅像などをみた。

孫中山記念館

孫文肖像


先日,孫文の征清活動の解説を放送大学で聞き、また漢口楽善堂出身者などの征清殉難烈士の話をネットで
知った。
漢口駅



これらの事件は同じ時期かと思ったが、征清殉難烈士の多くは明治27年頃であり、辛亥革命は明治44年だから、15,6年のずれがある。
辛亥革命
九州出身者が多かった征清殉難烈士ことは、その後九州の政界・財界人が孫文の支援活動を活発におこなったことに通じている。

孫文の大アジヤ主義は、日本の大東亜共栄圏と一致するよう思われていた。
しかし孫文の本心は漢民族中心主義であり、五族共和も漢族中心の五族であったことを、放送大学の講義では強調していた。
日本中心の大東亜共栄圏のためでは、彼への支援はあまり有効ではなかったようだ。まして清国復活の満州国では、全く逆方向の政策だ。


民族の意識の差は大きいので、簡単に同盟をくんだり支援したりしても、すぐにくずれていまう。
いまの中・韓・日のギクシャクは当然の姿であろう。
日英同盟、日独伊同盟などの歴史をみても、いまの日米安保が絶対のものと安心できないことがわかる。

2015年12月25日金曜日

昭和の元号

わたしは大正15年5月生まれで、この年の12月25日に昭和にかわります。

この年代の同窓会名は大正・昭和にまたがるので、「大昭会」が多いようです。 


昭和は歴代元号の中で最長であり、外国の元号を含めても最も長いと言われます。

元年から64年まで続きますが、初めと終わりの元号使用期間がともに7日間であるため、実際は62年と14日になります。


 当時、宮内省作成の元号案では「神化」「元化」「昭和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」の9案がありましたが、昭和を候補の軸に、元化と同和を参考とする最終案が決定しました。

一方、内閣は「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を候補として挙げていたと言われます。

 ところが、東京日日新聞(毎日新聞の前身)が「新元号は『光文』」と報道します。東京日日は早くから「新しい元号は光文になるらしい」という情報をつかんでいたため、政府の公式発表を前に特報しました。

しかし、政府はすぐさま元号を「昭和」と発表したため、大特ダネは大誤報となってしまいました。この責任をとって編集主幹が辞任しています。

 誤報となった光文事件を巡っては、「もともと光文に決まっていたものが、新聞で先に報道されてしまったため昭和に急きょ変更した」という噂が立ちました。

同和も候補になっていましたが、今はこれが別の政治イメージになってしまっています。

2015年12月24日木曜日

多々良川上流の遺跡(内橋カラヤ遺跡と多々良込田遺跡・戸原麦尾遺跡)

多々良川上流は、福岡市、糟屋町、久山町、篠栗町と行政区域が別れていて、遺跡の総合的な報告文書が少ない。
私が今までこの流域で興味をもって訪れた所は、東区の筑前名所図絵にある天神森古墳、東照寺と、曽我神社、部木八幡宮と古墳群などである。
多々良川上流の史跡
この年末に、さらに下流の糟屋町内橋地区(図の赤星印)に、内橋カラヤ遺跡が発掘された。


新聞解説記事
地図、年代、形状


 
内橋カラヤ遺跡詳細地図

この地区は昭和46~47年に、新幹線ルートの試掘調査で発掘された多々良込田遺跡の範囲で、弥生時代から平安時代にかけての集落跡や官公的施設の存在が明らかになった場所で、鴻臚館と同じ遺物が多数出土している。
多々良込田遺跡出土品
多々良込田遺跡
この近くには以前から戸原麦尾遺跡(王塚古墳)もあり、今回の古墳はその王の親族か後継者のものと考えられているようだ。
戸原麦尾遺跡
古賀市の歴史資料館の前の石井館長は、糟屋町の遺跡には詳しい方だったが、内橋については詳しい話を聞いた記憶がなく、この近くに従姉妹の家があるので、何度も出かけたことがあるのに、いままで知らなかったのは、うかつであった
古代ではこの付近まで入海だったようで、そこに橋がかかっていたため、地名となったようだ。
古代人の居住に適した場所だったのだろう。
二ヶ月後にでかけてみたら、もう道路改修工事のため、完全に掘り繰り返されていて、古墳は永遠に消えうせていた。
古墳跡の工事風景

2015年12月22日火曜日

早良 地名と人名

義弟が早良区に居をかまえたので、早良の名前をしらべてみた。

筑紫という国名が筑前、筑後に分かれたのは持統天皇の頃で、その時期に筑前には15の郡が倭名抄に記されている。

怡土・志摩郡(糸島郡):       早良郡:

那珂・席田・御笠郡(筑紫郡)    糟屋郡:   
宗像郡: 遠賀郡:  鞍手郡:  嘉麻・穂波郡(嘉穂郡)     夜須郡・下座郡・上座郡(朝倉郡):
( )内は合併後の名前で、15郡が、9郡となる。

現在の福岡市になるのが、早良郡、筑紫郡と糸島郡、糟屋郡の一部分で、中央、東、西、南、城南、博多、早良の7区になっているが、早良区の地名だけが古代の名前が残されている。
早良は麁原(そはら)、祖原とも表される。


早良郡志によると、昔武内宿禰がこの地にすみ、壱岐真眞根子の女、豊子姫をめとり、平群都久宿禰がうまれた。その子孫が河内国皇別早良臣となったので早良郡と名付けられたという説が記されている。
また、乾くことを、古語で「さわらぐ」というので、この地区が乾燥していたためという説もある。
さらに、韓国の首都「ソウル」の地名を渡来人が住み着いて名付けたという説もある。

倭名抄時代の早良郡には6郷が置かれていた。

比(樋井):    乃計(野芥):   奴加多(額田・野方):

佐波良(早良・祖原): 倍久利(平群・背振):  田部(小田部)

このなかには、額田や平群など近畿の大和朝廷の歴史にも出てくる名前がある。

それで桓武天皇の悲劇の弟、早良親王の名前を思い出した。
長岡京造営に際して、この事業を主導していた藤原種継暗殺事件がおきた。

藤原不比等の四人の子がそれぞれ、北家、南家、式家、京家に別れて、主導権争いを演じていた。

藤原種継は式家で、おそらく、他の三家の誰かが、仕掛けたのだろう。藤原種継を抹殺して、大伴氏と秦氏の「思い上がり」を懲らしめる目的であったという。
大伴氏と親しかった早良親王も一味と疑われた。皇太子を解かれ淡路島に配流された。親王は抗議の絶食をして死亡した。

(これは桓武天皇に、弟の早良よりも、息子の安殿に皇位を譲りたいという親心が芽生えた可能性がある。)

ここから先、長岡京に戦慄が走る。早良親王の祟りが襲ったからだ。延暦七年(七八八)のことである。

桓武天皇の后きさき・旅子、早良親王の母・高野皇太后、安殿や賀美能親王の母で桓武天皇の皇后・乙牟漏がつぎつぎに亡くなっていった。

たまらず桓武天皇は、早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置き、周辺での殺生を禁じた。

しかし、早良親王の祟りの恐ろしさは、納まらない。延暦九年の秋から冬にかけて、天然痘が流行したのである。

安殿親王の体調が思わしくなかったので、占ってみると早良親王の祟りと分かった。

あわてて安殿は伊勢神宮に参拝、桓武天皇は改めて早良親王を祀った。早良親王は崇道天皇と追号されたのである。

ただし筑前の早良には、この悲劇の痕跡は波及していないようだ。

2015年12月20日日曜日

ブラタモリと馬出電停跡

『笑っていいとも』終了により、好評の『ブラタモリ』がレギュラー化して、今年は全国ロケとなり、ついに故郷福岡にもやって来ました。
タモリと桑木アナ


いままで高宮出身のお笑いタレントとして見ていましたが、各地のブラタモリをみているうちに、華丸大吉や前川清の旅番組とくらべると、NHKの企画も入念らしいけど、彼のすぐれた能力や話術が見えてきました。

この才能を最初にみいだしたのが、赤塚不二夫さんだったことも最近しりました。



“商人の町”博多と“武士の町”福岡の境界が、天神中央公園は福岡城の東の郭にあたりに、北側の枡形門に続いていた石垣の一部が残っています。

夏の山笠祭りの櫛田神社に代表されるの博多の歴史を、古地図や石段や高低差や道路の曲がり方で、謎解きのように解明していきます。
 また、栄西禅師が喫茶の文化を日本に伝え、中国からお茶の木を持ち帰り、聖福寺の境内や脊振山に植えたといわれています。                                    

とくに「福岡と鉄道」編では、明治中頃まで、九州で人口が5番目の町だったという福岡市ですが、それが九州一の大都市に発展するのは、路面電車や西日本鉄道、新幹線などの鉄道が果たした大きな役割を、タモリさんが探りました。
その他の鉄道ネタも満載で、筥崎宮近くの鉄塔は市電のレールを再利用したもの、 旧福岡市内線の唯一の電停跡である馬出電停(現在は路線バスの馬出通りバス停)の紹介などを詳細に訪ねました。
馬出電停時代
右の商店は母の友人の店


馬出電停跡のバス停
電停跡は路線バス専用道路上にあるためそのまま残されています。私の母の実家も、この近くだったが道路拡張のため立ち退きした。
先日20分ほど滞在して路線バスと電停跡を撮影しようとしたところ、バス専用道路のはずなのに、次々と一般車両が入ってくるので驚きました。

筥崎宮参道そば(箱崎バス停)も同様で、次々に一般車両や自転車が通過。よくみると侵入するドライバーさんは例外なく若い方です。

ブラタモリのロケ時も、西鉄の貸切バス車両ですら路線バス専用道には入れなかった訳で、侵入する一般車両の皆さんは標識を見てないんでしょうね。当然、人も自転車も通ることは禁止なので、ブラタモリのロケでも全員道路を遠回りして歩きました。

2015年12月11日金曜日

鎌田詮一中将

日本占領の米軍先遣隊150人の隊長テンチ大佐と副隊長のダン大佐。

日本側が米軍受け入れのために急いで作った「連絡委員会」の副委員長である鎌田詮一中将。

鎌田詮一中将
これが旧知の間柄であったことは日本にとって幸運であった。

実は、鎌田中将は昭和のはじめ頃(少佐の時)日本から留学し、米軍に勤務させて貰っていた時がある。

当時日米関係はよかった。アメリカはすごい国で、他国の軍人を自分の国の最も優秀な工兵連隊の大隊長に任命し、テンチとダンは当時少尉で鎌田の部下であった。鎌田は京都大学でも学んだ優秀な技術将校であったからだ。

戦場に臨むような気持ちで乗り込んできたテンチ大佐は、鎌田中将を見たとたんに相好をくずし彼の無事を喜んだ。
事務的なことが済んで3人で地下壕の広場でウイスキーパーティーをして懐旧談をしていたところへ、政府の津島蔵相の秘書官橋本龍伍が青い顔をしてやってきて、用件をつたえた。

鎌田は橋本の依頼事項をきいて 「やってみよう‥‥」 といって、「軍票を使わないよう」にテンチ大佐に強く頼んだ。
テンチ大佐はグラスを置いて考え込みました。こんな重大なことは先遣隊長ぐらいでは決められない。

するとダン大佐がそばからテンチの肩を叩いて、「テンチ大佐‥ほかならぬゼネラル鎌田によい知恵を出してやり給え、日本を焼け野原にした罪ほろぼしにね‥‥」 といった。


そしてテンチ大佐はさっそくマニラの総司令部に無線で頼んでくれた。飛行機からアンテナを出せばマニラにまで通じる‥‥すごい通信能力であった。

今なら、マッカーサー元帥は先遣隊の無事を喜んでくれている、今だ‥‥というわけだ。

間もなくマッカーサーから返電が届いた。
「日本経済復興を考慮し速やかに善処するであろう。」 という返信であった。

その後総司令部と日本政府との間にいろいろな折衝があったが、とにかく軍票だけは使わないで済んだ。最初が大切で、一旦使い出したら、あとは大変なことになっていた筈だ。

2015年12月7日月曜日

ソフィーの選択

高橋源一郎の講演で、『ソフィーの選択』(ソフィーのせんたく、Sophie's Choice)は、ウィリアム・スタイロンの小説(1979年)の話をきいた。

倫理的には選択不能の問題である。

あらすじ:

ソフィーはナチスに逮捕され、子供2人と共にアウシュビッツに送られた。 子供2人のうちどちらか一人を焼却炉送りに選べと命令され、仕方なく娘を選んだので、息子ヤンは児童収容所へ、娘のエバは2号焼却炉へ送られ抹殺された。

子供たちとのアウシュビッツでの悲痛な永遠の別れを背負って、

収容所から解放された1年半後のある日、
まだ「カカシ」の様に衰弱していたソフィーは、大学の図書館詩集を探している時、貧血で倒れてしまい、その場に偶然居合わせたネイサンに助けられ、2人は「奇跡の出会い」を果たす。

ソフィーとネイサンは、いろんな経緯をへて結婚するが、結局青酸カリで自殺を図って死亡する。彼女の腕には収容所時代の数字の刻印が消えることなく残っていた。

「自分の選択」の形で、子供や友人を失った人物の物語は日本にもいくつかある。
乃木大将は、二人の子供を旅順攻撃の戦でなくし、自らも明治天皇に殉死という形で死をえらんだ。

夏目漱石の「こころ」の主人公も、自分が裏切っので自殺した友人のことを、長年心に留めて悩んでいたが、乃木大将の殉死の報道に感銘して、死んでいった。

最近のニュースでは、幼子を自ら死に追い込むような親がいるが、これは倫理無き選択である。

2015年12月4日金曜日

小柴昌俊から梶田隆章まで(ノーベル物理賞)

2015年梶田隆章ノーベル物理学賞は、2002年小柴昌俊氏のノーベル物理学賞の延長線上にあろうと単純に感じていた。

しかし、昨日のテレビ番組に刺激されて、詳しくしらべてみると、実験場所も実験装置も、物理内容も大きく異なり、この十数年間の日本の物理学会の発展がすばらしいことを知らされた。


その概要をまとめてみた。
実験場所の神岡鉱山(かみおかこうざん)跡は、岐阜県飛騨市(旧吉城郡神岡町)にあった亜鉛鉱山跡。
2001年6月に鉱石の採掘を中止したが、奈良時代養老年間(720年ごろ)に採掘が始まり、明治7年(1874年)に三井組が経営権を取得、近代化により国内初のトラックレス・マイニング法を取り入れるなど、大規模採掘を続けていた。
三井組経営から閉山までの総採掘量は、約130年間で7,500万トンにも達し、一時は東洋一の鉱山として栄えた。

神岡鉱山の亜鉛鉱石の主要鉱物である閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムを原因とする、富山県神通川流域で発生した大規模な公害である。この公害により最も大きく発生した被害は、布団をかぶせただけで骨折し「痛い、痛い(いたい、いたい)」と叫んでしまう「イタイイタイ病」と呼ばれる公害病である。患者が神岡鉱山を操業していた三井金属鉱業株式会社(当時)を相手取り集団提訴し、1971年富山地方裁判所で患者原告が勝訴、名古屋高等裁判所金沢支部でも勝訴した。日本の四大公害病裁判において、最初の原告勝訴判決で、その後の公害病裁判に大きな影響を与えた

カミオカンデは、神岡鉱山茂住坑跡に1979年に建設が始まったのが東京大学宇宙線研究所ニュートリノ観測装置である。
世界最先端の研究施設の設置場所として、交通のアクセスも悪く他の研究機関からも離れた神岡鉱山が選定された理由は、
1)観測装置に必要な巨大な地下空間の作成に、岩盤強度の高い堅牢な飛騨片麻岩からなる地質が適していたこと
2)観測で使用する純水を調達する際に、豊富に坑内湧水が利用可能なこと
3)坑内気温が年間13 - 14℃と一定しており、観測に必要な環境の保持が容易なこと

が挙げられる。

カミオカンデはニュートリノの衝突を検出するため、超純水をつかう。カミオカンデの内部には超純水がためられており、ニュートリノが水の中の電子に衝突したあとに、高速で移動する電子より放出されるチェレンコフ光は青白く発光し、壁面に備え付けられた光電子増倍管で検出する。

チェレンコフ光を検出した光電子増倍管がわかると、計算によりどの方角からきたニュートリノによる反応かがわかるしくみになっている。1987年2月23日、カミオカンデはこの仕組みによって、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発 (SN 1987A) で生じたニュートリノを偶発的に世界で初めて検出した。
この功績により、2002年小柴昌俊氏が、ノーベル物理学賞を受賞した。

さらに研究を拡大するためのスーパーカミオカンデは、1991年12月に、新しい空間の掘削を開始した。建設には旧神岡鉱山の運営者であった三井金属三井造船が参画した。
1993年8月に深さ40mの円柱状に掘り下げる工事が完了し、1995年中頃にタンクの建設が完成。
さらに1995年6月から光電子増倍管の取り付け作業と電子回路への接続が行われ、同年12月に完了した。
以後、2か月以上を要して5万トンのタンクを純水で満たし、1996年4月1日0時に完成した

SK-1
1996年4月1日0時から後述の破損事故までの時期を Super-Kamiokande I (SK-I) と称している
1998年には地球の反対側から飛来する大気ニュートリノの数が少ないことを示し、ニュートリノ振動の確たる証拠を世界に発信した。これにより、スーパーカミオカンデ実験グループはこの年の朝日賞を受賞している。
1999年には世界初の長基線ニュートリノ実験K2Kを開始し、大気ニュートリノで発見されたニュートリノ振動の検証に成功した。2001年にはカナダのSNO実験の結果と合わせ、太陽から来るニュートリノも振動していることを発見した

1996年にスーパーカミオカンデが稼動したことにより、カミオカンデはその役目を終え、カムランドとして生まれ変わった。)


2001年11月12日11時01分に光電子増倍管の70%を損失するという大規模な破損事故が発生した。光電管爆縮時の衝撃波による連鎖破壊で、原因は補修作業時の負荷で基部にクラックが入ったためとされている。 

SK-2
破壊された数量の光電子増倍管の生産には約4年を要するため、2002年光電子増倍管にプラスチックカバーを被せる防爆措置を行った上で、予備を加えた5,200本の光電子増倍管を再配置し、部分復旧された。これを「Super-Kamiokande II」と称している。

SK-3
2005年7月より、スーパーカミオカンデの完全再建計画の実行が東京大学本部を通じて文部科学省によって承認され、同年10月から観測を中止して破損光電管の交換作業を開始、2006年4月にほぼ完了した。2006年7月11日に建造時と同数の光電管を備えた「Super-Kamiokande III」と称して観測を再開した。

SK-4
2008年夏には、さらなる性能向上のために、信号読み出し回路の総入れ替えを行った。以降を「Super-Kamiokande IV」と称している。

(この間民主党の予算仕分けで、計画が延期されることもあった。)

本実験施設と KEK-PS(陽子加速器)を用いたニュートリノ振動実験によって、ニュートリノに質量があることが世界で初めて確認された。
この発見により2015年梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞した。

さらに今後の計画としては、スーパーカミオカンデの20倍の規模(タンク体積100万トン)になるハイパーカミオカンデの建設計画(2025年の実現を目指す)が検討されている。

湯川博士のような理論物理学とは異なり、実験物理学の研究は大きな予算のかかる分野だが、つぎのノーベル賞も期待される話である。

2015年12月1日火曜日

地球の温暖化

今年もはや師走。

平均気温は上昇しているのに、やはり冬は寒い。 
寒暖の差が激しくなり、天候被害が大きくなっている。 
地球をこわしているのは人類か、太陽か?
COPも21回目だが、まだ世界の足並みは中々そろわない。
地球の未来・・・・・は・・・・・???。