2015年2月23日月曜日

花燃ゆ関連家族の家系図と子孫


吉田家は殆ど杉家からの養子入りの人物で継続されているのは、驚きである。吉田大助も杉百合乃助の実の兄弟である。
杉家の子孫に、杉道助という大物がいた。
小田村家は伊之助が楫取という苗字を藩主にもらって、小田村家と楫取家にわかれた。
(久坂家は楫取道明が継ぐ予定だったが、玄瑞の隠し子があったので、楫取家の跡取りとなった。)
小田村家の子孫にも、実業界や大学関連の大物がいた。
伊之助の兄も勤皇派として活躍し刑死した。弟は明治まで伊之助と共に群馬県で活躍した。

2015年2月18日水曜日

戦後70年の記録

帝国大学の記録

 1)大学の入学証明書

昭和20年は戦争末期で、大学入試もなく、旧制高校での成績による書類選考だけで、合否が判定された。東大などはクラス3位なら合格と言われていた。私はその合格圏内だったが、火の海の東京をさけて、地元を選んだ。勿論大学での合格発表などもなかった。
私に大学の合格通知が送られてきたのは、昭和20年2月に学徒動員先の三菱化成の工場であった。
日付は2月10日になっているが、受け取ったのは1週間おくれであった。 工場には12日に着いていたが、勤労部長が出張中のためさらに遅れてうけとった。






)大学の授業料
大学の半期の授業料の納入証明書である。75円は当時の大卒の初任給と同じくらいの金額だ。
しかしインフレのためその後給料は急激に上昇した。
しかしそのわりに授業料は増えなかった。
3年生で半期300円であった。
就職したときの初任給は、3700円であった。








3)帝国大学の名称


帝国大学の名称は、昭和22年9月30日の法令で、国立総合大学となり
帝国の文字が消えた。
8月のこの受講証明書は帝国大学の名前の入った最後のころの書類である。
昭和23年3月の卒業証明書などには「帝国」の文字は無である。

4) 軍事教練・学徒動員

5)戦争体験記録


2015年2月7日土曜日

毛利家の領土

毛利家の領土は、関ヶ原の戦の前に120万石だったものが、戦後に37万石弱に激減されたというのが通説である。
しかし専門書によると、毛利輝元の領土はそうだが、毛利一族の領土をあわせると、50万石弱になっている。
さらに小早川秀秋が50万石をもらっているので、合計100万石となり、徳川家康の目から見ると、取り分は20万石にすぎない。
秀秋が若死して後が絶えたから、毛利川の領土が激減したというべきだろう。

2015年2月5日木曜日

萩城の獅子の廊下

江戸期の萩城本丸御殿には、獅子の廊下というのがある。
延々270年間関ヶ原の屈辱を思い起こし、年賀の儀が行われた。
獅子の廊下に渡らせる殿様に、控えていた重臣が、「畏れながら内々に申し上げたき儀が」
殿、「ウン?此の目出度き儀になんじゃ?苦しゆう無い申してみよ」
重臣「畏れながら…(パット腰にさした扇子を開いて殿の耳元で、)
今年は徳川征伐の軍を何時起こしましようか?」
殿「ウン・・・・まだ速かろうぞ」
此の暗黙の儀式は270余年続き、耐えに耐え、いよいよ幕末になり、殿の御答えが、「もうそろそろ良かろうぞ」になった。

この話は出来すぎているが、司馬遼太郎の本に書かれているので、まったくの作り話ではなさそうだ。
関ヶ原の戦以後、100年間ぐらいは続いていたという研究はあるらしいが、その裏付けとなる古文書はまだ見つかっていないと、磯田さんがテレビで行っていた。

(下の図をみると、この獅子の廊下の近くに,藩政改革の柱となった村田清風や周布政乃助の撫育方や越荷方の部屋が配置されていたようだ。)

2015年2月4日水曜日

『花燃ゆ』の長州藩改革(村田清風と周布政之助)

幕末の長州藩には二つの派閥ー(革新派と保守派)ーがあり、主導権も二つの派閥の間でコロコロと変わって解かりにくい。
『花燃ゆ』での幕末の長州藩の政界の代表者は、周布政之助が革新派、椋梨藤太が保守派と理解すればよい。
もちろん、寅次郎や小田村伊之助は周布政之助サイドということになる。
 周布政之助が政治家としてデビューしたのは1847年で、『花燃ゆ』が始まる3年前のことだ。
周布政之助は長州藩の重臣として、藩の財政再建に取り組んでいたが、彼が政治家になる前、長州藩では村田清風(むらた・せいふう)という人物が長州藩の改革をリードしていた。
村田清風は改革派の人物で、赤字体質の長州藩の財政再建を行っていた。
村田清風も『明倫館』に学んで、優秀な成績を修めていたため、長州藩の要職を歴任していた。(ただし彼は「花燃ゆ」には登場しない。)
 ちなみに、江戸で寅次郎に監視の目を光らせていた椋梨藤太(むくなし・とうた)は村田清風の改革には反対していた。改革派の村田清風に反対の椋梨藤太は保守派の代表だ。このため、両者は対立関係にあり、この関係はその後も継続していくことになる。村田清風の改革は周布ら保守派の反対で道半ばで終わってしまったが、それを引き継いだのが周布政之助だ。彼は村田清風を尊敬しており、村田清風の路線を踏襲した政治を行っていく。
村田清風は周布政之助や、その後の吉田松陰、高杉晋作などの改革派の若者の思想に大きな影響を与えていたのだが、歴史家はあまりとりあげていない。
周布政之助
村田清風

 


2015年2月3日火曜日

家康の敗戦経験(桶狭間と三方ヶ原)

天下人徳川家康も、若い頃は苦労の連続の人生だった。

その苦労の一つが徳川家康の旗印にあらわされている。
若い頃今川義元の家臣だった家康は、桶狭間の戦で義元が討ち死にしたことを知った時、周囲を織田軍囲まれており、前途を悲観した家康(当時は松平元康)は、祖先の墓前で自害しようと決意した。
そのとき、菩提寺(大樹寺)の住職がつぎの言葉を教えた。
『厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)』
(争いで穢(けが)れた国土を、住みよい浄土にする)のがあなたの役目と説得して、松平元康の切腹を思いとどまらせた。
それ以来、この言葉が徳川家康の旗印となっている。

ただこの言葉は戦場での武士を鼓舞するには、すこし難解な言葉に感じられる。
幼年の家康の教師だった太原雪斉だったら、どんな言葉を教えたであろうか。

さらに武田信玄と三方ヶ原で戦って大敗北し、哀れな姿で逃げかえったときは、反省のため「しかみ像」を絵師に描かせている。
最近はその絵の立体像まで作られたようだ。

浜松城が出世城と呼ばれるのには、このような反省があったからだ。

最近三方ヶ原の戦の詳細な経過を知った。
武田信玄は足利幕府と組んで、信長・家康同盟の包囲網をつくった。


今まで信玄は三方ヶ原にに北方から近づいたと言われていたが、実際には東方から近づいていた。
今まで言われていた信玄軍の進路
その証拠は信玄が東の高天神城を落城させている手紙が残っていたことだ。
最近発見された文書
信玄軍の実際の進路
そして浜松城をよけてニ保城を攻め、さらに三方ヶ原に向かった。これでは篭城していては、信長との同盟を疑われるために出城して追いかけたのは、当然の行動だったという。
 しかし信玄はそれを予想して、魚鱗の陣で待ち構えて、家康の鶴翼の陣を撃破した。

信玄と家康の陣形
 信玄の先見性に学んだ家康は、このときの信玄の作戦や陣形を、そっくり関ヶ原の戦でとりいれて石田三成にしかけ、見事に勝利して、ついに天下人への道を開いた。

吉田松陰の実像

大河ドラマの影響で、今まであまりしられていなかった吉田松陰や、その周辺の人物像が、あちこちで語られている。
今日の読売新聞で、歴史家の磯田道史さんが、松蔭の肖像と幽囚録に書かれたかれの持論を紹介している。
肖像画は有名な細目のものより目が太く、五代目円楽師匠に似ているという木像があるそうだ。
幽囚録の内容は添付資料のとおりである。
わたしの中学時代の日本国地図が、松蔭の目指した理想だったことになる。
平成の日本人からみれば、軍国主義吉田松陰の一面も見えるが、その前に異人たちの植民地になるのを防ぐという危機感が最大の焦点であった。
松蔭の企画書内容と戦時中の日本領土
松蔭の木象と円楽の顔写真

懸命行動と戦争と平和〔改訂版)

吉田松陰の密航は命懸けの行動であった。
戦後70年でよく取り上げられる特攻機も命懸けの作戦であった。
特攻機

イスラム国でのジャーナリストの活動も命懸行動だった。
イスラム国事件

吉田松陰は、大河ドラマでも発言していたように、孟子のいう性善説を唱えいた。
正しいことは必ず理解されるという人生観にもとづいた善行動。
この善行動は自己の内面的要求をみたす人格実現だから、哲学的には西田幾多郎の言う「絶対的善」であろう。

イスラム国でも同じような教育が行われているのだろう。
しかし個人の懸命行動と、政治的な懸命行動とは、別次元のものである。政治では善が正義にすりかえられる。

政治の権力者が使う戦争のプロパガンダには10の法則がある。

1.「われわれは戦争をしたくない」
 2.「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
 3.「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
 4.「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
 5.「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
 6.「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
 7.「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
 8.「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
 9.「われわれの正義は神聖なものである」
 10.「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

日本でも戦時中このような政府のプロパガンダを多々経験した。
松蔭の懸命行動が戦時中の特攻精神の教育に使われたが、特攻隊生き残りの人の多くは、当時の実情は志願でなく殆ど指名による特攻部隊だったといっている。
最近中国の防衛費が10%の伸びで、ガス田を開発したり、尖閣列島を乗っ取ろうとしている。これに対して日本は?というあせりの声がおこってい る。
安保関連法案の改正で、多国籍軍と共同で戦争をすることになりそうだ。まだ懸命行動のよびかけまではないが、やがて徴兵制度への動きにつながるかも知れない。
 
しかし敗戦国の日本は、永世中立で最小限の防衛本位の軍備ですますのが原則である。
藤原正彦の「国家の品格」では、情緒のある文化度の高い国は戦争を起こさないし侵略されにくいという議論がされている。
幕末の混乱期に植民地化されなかったのは、西欧諸国が日本の文化度の高さに感銘したからという説もあり、三島由紀夫の「文化防衛論」もこのような趣旨であった。
ギリシャなどが今も存在しているのは、かっての文明度の高さからだろうか。
だが軍国原理主義の指導者が近隣にいると、被害はまぬかれないこともある。
その時はかってのフランスのようにあっさり占領されて、地下でのレジスタンス運動を展開するのがよかろう。
負けるが勝ちというように、負け上手のフランスを学ぶべきだ。
日本も大きな負け方をしたあと、復興できたのだ。
仏・独の国旗
昨日西ドイツの首相の話では、「戦後フランスはドイツに歩み寄ってくれた」と言う話をしていた。
世界中が、犬猿の仲だったフランスとドイツのように仲良くなれば良いと思う。