2018年12月26日水曜日

聖徳太子信仰と神仏習合


斑鳩宮(いかるがのみや)は、聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿

聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。また、太子は斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍を建立した。
(当時の斑鳩伽藍は消失し、現在の法隆寺は蘇我氏滅亡後に再建されたとされている。当初の宮は現在の東院伽藍の場所に建っていたこと、また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、西院伽藍の裏手の若草伽藍であり、金堂や塔が火災で焼失した痕跡が残っており、斑鳩宮と斑鳩寺(若草伽藍)は、方位がほぼ同じで同時期の造営である。また、西院伽藍の東大門や西大門に沿う築地も同方向であるので、斑鳩宮造営と同時に築造され、道路や水路を広範囲に敷設したと推測されている。)
聖徳太子は、蘇我・物部の仏教争いに参戦した若い頃は仏教に心酔していたが、斑鳩宮を造営した頃から、蘇我氏の急速な勢力拡大による仏教と神道の争いに疑問を抱き、立松和平氏によると、「神仏習合」の道を志向し始めていたという。俗説ではキリスト教にも関心を示していたという。
法隆寺が再建されたのは、聖徳太子の遺族が蘇我氏に滅ばされ、太子の遺徳や説教に感化されていた天智天皇が、大化改新のあと白村江の戦にやぶれて、朝廷の威光失墜を回復するために行ったという説がある。その後の聖徳太子信仰の広まりで、法隆寺の拡充だけでなく、各地に太子村ができている。
「神仏習合」の歴史書によると、8世紀から9世紀半に、神社と寺院が結合して、仏になろうと修行する神(菩薩)のための寺というかたちの神宮寺が、本来の神社の一隅または近隣地におかれるようになったという。
具体的には763年頃、伊勢国桑名の多度大神、常陸国鹿島大神、8世紀末に山城国加茂大神の例などが挙げられている。


10世紀なかばの平将門の乱のおこりは、一人の巫女が八幡大菩薩の使者と名乗って、「朕はみずからの位を将門に与える。この位記は菅原道真の霊魂が書いたものだ。」と託宣したことによる。


八幡大菩薩はもと宇佐地方の土着神で、奈良時代に国を外敵から護る神に高められ、平安時代に王城鎮護の神として石清水宮に勧請された神だが、菩薩とは悟りをひらく前の釈迦のことである。仏のなろうとする神で、ここに神仏習合の典型例があらわれている。
また菅原道真は、この事件の36年前に死亡して、観自在天神に転生したとされており、これは大日如来の化身である。古来の神祇信仰の神の霊魂が仏教の神として再生している。
反乱者平将門が即位の儀式を行ったときの宗教儀礼は、古来の神祇信仰と外来の仏教信仰の組み合わせで演じられたという。
その後、鎌倉、室町時代となると、上流貴族中心だった仏教信者は、中流武士階級から庶民階級までひろがり、その宗派も多様化しながら、江戸時代まで神仏習合はつづき、寺社奉行のもとで行政管理されてきた。
しかし明治維新で王政復古思想のいきすぎから、寺社分離が強制されたのは、歴史認識のあやまりであった。
敗戦後は、宗教の自由が復活されたが、寺社の実態はそのままであり、国民は両方に分かれて参拝しなければならない状態が続いている
ただ古く巨大な法隆寺などでは、寺の境内に金堂や五重塔などの仏閣を火災から守る鎮守の龍田神社があり、法隆寺の建立に当たって斑鳩の里が適地と告げた龍田神社の分霊だそうだ。



日本的仏教の元祖は、聖徳太子信仰と考えていいだろう。
https://wajikan.com/note/syotokutaisi/#i
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聖徳宗(しょうとくしゅう)は、日本の仏教宗派の一つであり、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺を総本山とする。小本山に法起寺法輪寺門跡寺院中宮寺など末寺は、29ヵ寺。
昭和25年(1950年)に、法相宗からの独立を果たす(宗教法人として認可されたのは、昭和27年(1952年))。聖徳太子を宗祖とする。所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」である。
聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭。
 「和を以て貴しとし、忤(サカフル)ことは無いように。人には皆、党(タムラ)があり、悟っているものは少ない。よって君父(キミカゾ)に従わない。また、隣の里とも違うだろう。しかし、上と和し、下と睦まじくして、事を論じて話し合って、諧(カナウ)するなら、物事は自然と上手くいき、なんでも成せるだろう。」
 少し意訳になるが、「人は、それぞれ所属するところがあるし、生きている場所によっても色々異なっており、その範疇のことしか考えない傾向があるが、異なるものに対して無闇に反発するのではなく、それを調和させることが最高に素晴らしいものだと悟るべきだ。上も下も分け隔てることなく本質にそって対話を行い、その結果として調和に導くことができれば、物事は自然と上手くいき、何事も成就していく。」ということが、述べられている。


2018年12月11日火曜日

西南戦争の敗走路:天の古道と湾洞峠

大河ドラマの影響で、この一月位の間に、西南戦争の番組をいくつも見た。
熊本城、田原坂の戦くらいは知っていたが、7ヶ月にわたる戦で、熊本、大分、宮崎、鹿児島の各地に戦争の痕跡が残っている。
西郷が軍の解散を決意したのは、延岡市外の北川町俵野という説と高千穂峡という説があった。敗戦経路には、高千穂峡(三田井)や椎葉などの山奥がふくまれているのは驚きであった。
武士である私学校党が、軽蔑していた庶民の徴兵軍に破れ、西郷の死後四ヶ月で木戸が病死し、翌年5月大久保が暗殺され、維新の3傑の死で「維新」は終結した。


宮崎県で、いま天の古道が脚光を浴びています。西郷どんの大河ドラマで、西郷軍が延岡から高千穂へ敗走するとき通った山道として、放送されたからです。


 昭和31年まで、日之影町見立地区と高千穂町岩戸地区は、同じ岩戸村でした。町村合併により、岩戸村はなくなり、岩戸地区は高千穂町へ、見立地区は日之影町へ、それぞれ分村されました。

 その当時、岩戸地区と見立地区を結ぶ峠道が五本在りました。
そのうちの一つ、『湾洞越(わんずごえ)』(全長11km)を復元し、観光資源にしようという両地区民の願いが形となったのが、「天の古道」です。

全長11kmの行程です。(見立地区仲組川中より湾洞峠までが、約4km。湾洞峠より岩戸地区赤水までが、約2km。赤水より天岩戸神社までが、5km)
天の古道という名は、この道が、天岩戸神社に繋がる参道であることから、新たに名付けられました。

湾洞越は、分村後、県道の開通などもあり、山師や猟師が使うぐらいでほとんど利用されませんでしたが、それまでは貴重な生活道でした。村役場などは、岩戸地区にありましたし、郵便配達、保険の営業、子牛競り市など、頻繁に使われていたそうです。

 同村ということで、両地区民には、親類も多く、天岩戸神社の氏子や、お寺の檀家など、当時を偲ばせる繋がりが未だにあります。
湾洞峠は山中の地名としては不釣り合いな名前ですが、山の谷間が入江のようになっている地形からでしょうか?
天の古道の開通祝いの行事のブログから写真などを転載させてもらいました。


わたしが訪れたころは無かったが、今は田原坂や各地に、遺跡の記念碑や説明板が設置されているようだ。


2018年11月24日土曜日

楠君の家の火災




 この新聞記事をよんで楠亮二さんの名前にびっくりした。六本松の旧制福岡高校の同級生だったからだ。
福岡男子師範付属小学校と県立福岡中学校では、1年先輩だったが、わたしが4修で福高に入って同じクラスになり、1年間玄寮で一緒に生活した。当時の集合写真でも近い場所におさまっている。

彼は九州大学医学部の楠内科の楠教授の次男で、医学部にすすみ、九州中央病院の病院長をつとめたあと、開業医として活躍していた。
しかしクラス会には全く出てこなかったので、卒業後は顔をあわせていない。
彼の1年年長の兄は、私と同じ工学部にすすみ、九大応用化学の教授をつとめたあと、九州産業大学にきた。
私と教授室が隣あわせだったので、兄さんを通じて彼の近況を聞いていた。
晩年まで、蛾の採集を熱心にやっているということだった。
火事の状況は、福岡シニアネットで知り合いの小川さんが近所だったので、そのFBでしり、その写真を転載させてもらっている。楠君は足が悪かったそうだが、なんとか逃げ出せたのは幸いだった。
奥さんの死亡は残念なことで、深くおくやみをもうしあげる。
出火の原因は不明だが、昼間のことで料理作業中のことではなかろうか?
家内も高齢なので、てんぷら料理などはしないようにしている。
もう他の同窓生も、ほとんど生存者がいなくなり、交流がないので、これ以上の情報はもうはいらないだろう。

2018年11月5日月曜日

九州王朝諸説 その1

・3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府(王居)は、筑紫国内を転々とし、その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に広がり、生き続けた。

高市皇子=筑紫君薩野馬説?

・天武天皇(大海人皇子)は、斉明天皇の子でも、天智天皇(中大兄皇子)の弟でもなく、倭国・海人族と係わる人物であるとみなし、天智天皇の第一皇子・大友皇子(弘文天皇)を討った壬申の乱(672年6月)は、天智天皇によって滅ぼされた旧倭国(九州王朝)の復権のために起きたという説がある。

・しかし、673年飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、唐の傀儡によるの専制政治を行った孤高(孤独)の天皇で、天皇の称号や日本の国号を制定し、日本の皇統は一統で神話の時代より今日に至るまでヤマトにあるとする日本書紀の編纂を命じ、ヤマトを中心とする国家神道や仏教を推進し、あわせて旧倭国の官寺を尽く廃寺にしているので、天武天皇が旧倭国の復権を考えていたとはとても思えない。
 
・また、天武天皇崩御(686年)後も、倭国・宗像国と係わる第一子の髙市皇子は皇位を継承していない。

・髙市皇子は、天武天皇(大海人皇子)の第一子(長男)で、母は宗像君(胸形・宗形)徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)といわれ、壬申の乱で全軍を指揮し勝利に導いた第一功労者である。
もしこの高市皇子が筑紫君薩野馬であれば、671年末~672年正月頃、唐から帰国した直後(672年6月)、ヤマトに上り、壬申の乱に加わったことになり、これだけの活躍をした背景に倭国の復権がかかっていたと考えることはできなくもない。

・しかし皇崩御後、皇位を継いだのは持統天皇(天智天皇の娘)であり、天武天皇擁立の最大の功労者であったはずの高市皇子=筑紫君薩野馬は、皇位継承できず、持統天皇にお飾り的な太政大臣に任命され、藤原京の建設に関わったものの、696年(持統天皇10年)に薨御した。

以後、皇位は、天智天皇の系譜が続くことになるので、この面でも旧倭国(九州王朝)の復権はなかったことになる。
・なお、同説の根拠としているもののなかに、高市皇子が中心となって建設に取り組んだ「藤原京」が、復古調の「周礼」(しゅらい)に倣った形で作られていることを挙げているものがある。
つまり、この周礼の形は、唐で8年間の虜囚生活を送るなかで「周礼」の影響を受けた筑紫君薩野馬が持ち還ったもので、周礼に倣う形で藤原京の建設をした高市皇子は、筑紫君薩野馬と同一人物だったからだというのである。

宗像君徳善と筑紫君薩野馬説?
・上記のように高市皇子の母は、宗像地方の豪族、宗像(宗形・胸形)君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)である。
そして、宗像君徳善は、海人族・宗像国の君で、宮地嶽神社奥の院古墳(奥宮不動神社)(福岡県福津市宮司)が、その墳墓と言われている。
・宗像徳善は、倭国(九州王朝)の宗像君であり、その孫高市皇子がもし「筑紫君薩野馬」であれば、その祖父宗像君徳善が倭王であった可能性も考えられる。
・因みに下記倭王系譜で「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」の讃の一代前が「藤(「勝」ともいう)」で、徳善の古墳がある宮地嶽神社の祭神は「藤の勝頼」で、かつ徳善の古墳とされる宮地嶽社奥の院(奥宮不動神社)の神紋が九州王朝を表す「三階松」で、徳善が倭王、或は倭王の系譜を引いていたことは間違いない。

宗像・沖ノ島の国家祭祀の国家は倭国
 ・宗像君徳善が倭王であれば、古代宗像君が沖ノ島で行っていたという国家祭祀(4~7世紀)の国家とは、宗像国を含む倭国(九州王朝)であり、絶対にヤマト王権ではなかったことになる。
 ・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に認定され、古代、沖ノ島ではヤマト王権による国家祭祀が行われていたという説が固定化されたが、この説に対して疑問を投げかけている人たちは多い。
 また、ヤマト王権による国家祭祀の根拠とされた理由が、沖ノ島から三角縁神獣鏡が発見されたことによるが、三角縁神獣鏡は、今やどこででも発掘され、それをヤマト王権のものとする固定観念は、大和地方以外の前方後円墳はヤマト王権の許可を得て作られたものとする間違った固定観念と同じで、これら柔軟性のない固定観念は学術的に甚だ危険である。
・宗像国は、ヤマト王権に属していたものではなく、間違いなく九州の倭国に属していたはずで、663 年10月の白村江の戦いに際しては、倭王筑紫君薩野馬の呼びかけに応じて多くの軍船と兵士を出したが、その敗戦によりその多くの船と兵士を失い、国力の衰退を招いたと思われる。
その後、宗像国を含む倭国が滅亡し、ヤマトに吸収されたことにより、それまで沖ノ島で行って来た倭国のための国家祭祀が途絶えたのである。

・因みに宗像大社(沖津宮、中津宮、辺津宮)の祭神宗像三女神は、天照大御神と素戔嗚命誓約で誕生した神で、天照大御神は倭国につながる邪馬台国の卑弥呼(大日孁貴)あり、素戔嗚命は古代物部王国の祖神饒速日命の父(出雲神)であり、宗像三女神が最初に降臨した崎門山(六ヶ嶽の一峰)は、鞍手(弦田)物部王国(福岡県鞍手郡鞍手町)のなかにあり、もとよりヤマトで生まれた神ではない。

・3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府(王居)は、筑紫国内を転々とし、3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府 (王居)は、筑紫国内を転々とし、その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により 滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に広がり、生き続けたと思う。

その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に日本書紀」が言う、「天武」と言う人物は「九州倭国王筑紫君薩野馬(薩夜麻、大皇)」と、「その弟である大海人皇子(大皇弟)」を合算しして記述している。
列島の歴史は、「天智系」に先行、先在する「九州倭国」を中心に展開していた。
 そこに「天智系」が割って入ってくる。
でも「壬申の乱」で「天智ー大友」が一旦つぶされ、「光仁(天智の孫)、桓武」の代で復権する。
復権しなければ何も問題は発生しなかったのだが!
 「日本書紀、続日本紀」は、その最終権力者である「天智ー藤原系」の史書で、「九州倭国の存在を隠蔽している」。
「日本書紀」編纂の基本方針は、「神武が近畿地方に移動してきて以後、天皇は近畿地方にいて万世一系」だから。
「日本書紀の編者(改編者)」は、口が裂けても「天智―大友」で一旦断絶したとは記述することが出来ない。
そこでとんでもないことを考え、「天智と天武は兄弟」、これをキーにして、「日本書紀と続日本紀」を偽作して「光仁、桓武」に上手く繋ぎ、系譜の改編も行い断絶はないという史書を作成した。
 だから「日本書紀、続日本紀」は、「いたるところに、矛盾やほころびがあり、難解な訳の分からない史書」になっている。
「九州倭国」の皇統は、「筑紫君薩野馬(薩夜麻)」-「高市皇子(大皇の皇子)」ー「弓削皇子(高市の皇子)ー文武(草壁と阿閇の子ではなく、高市皇子と阿閇皇女の子)」ー「聖武(高市皇子の孫)」-「孝謙称徳(聖武の娘)」である。
「九州倭国の皇統」も「孝謙称徳」の代で、聖武が男子の後継者に恵まれなかったのと、天智ー藤原系との暗闘の結果、断絶してしまう。
そして時代は「天智ー藤原系」の時代へと変わっていく。

最後になる、「大海人皇子(大皇弟)」は九州倭国の皇統では「九州倭国王」に即位していない。「薩野馬(薩夜麻)」の次は「高市皇子(大皇の皇子)」である。

「日本書紀」は、「672年壬申の乱、673年天武即位」と記述しているが、「九州年号」では「661年の白鳳元年から683年の白鳳23年まで、改元がない」。 
本当に「大海人皇子(大皇弟)」が、壬申の乱以後に九州倭国王に即位していれば、間違いなく「改元」があるはずだ。
「日本古代史の謎」を考えるのに「九州倭国の存在」と言うのを考慮すると、「大局的に見て(謎)は全部解決するように思う。

補足:日本書紀の偽作:
「日本書紀」の言う、「継体」と「筑紫君磐井」による、列島の最高権力者争いは、「日本書紀の編者」により作られたもの。
列島の歴史を、実際に展開している「九州倭国」の存在を隠蔽しているのが「日本書紀」だ。「基本が近畿地方で万世一系だからだ。」。

近畿地方での「応神系」の皇統が「武烈」で断絶し、「継体」が近畿地方の権力者に名乗りを上げるが、「継体」が「九州倭国王筑紫君磐井」より「上位に君臨」していなければならない為の偽作だ。
「日本書紀」によると、「継体側」の大勝利だが、「筑紫君磐井」の後継者「葛子」が差し出したのは「糟屋の屯倉」一つである。
「九州倭国王筑紫君磐井の勢力範囲は九州島の北半分と西日本一帯なのに、これは変だ。
「日本書紀」の編者は、この時代にあった「物部」と「大伴」の勢力争いを隠蔽していて、継体と磐井」に置き換えて記述している。
近畿地方からの半島派遣軍が、九州で「反乱」を起こしたのは事実だが、すぐに「停戦協定」により終息している。
「磐井の反乱」ではなく「近畿の反乱」だ。
「磐井」の後も「九州倭国」は健在だ。



2018年11月3日土曜日

頼朝の天下草創と義経・行家追捕の院宣

頼朝の天下草創


文治元年(1185)11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。
11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。
11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。



12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して守護地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける。
24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。
 28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。
12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。
議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。
文治2年(1186年)3月には法皇の寵愛深い摂政近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。
4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤る。
5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った
頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。
11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。
朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。


2018年10月29日月曜日

九州王朝諸説2

[筑紫君薩野馬=鏡王(天武天皇兄)説]

 ・この説は、以前(10年前)、「二中歴の検証・九州年号と九州の政権主催者(兼川晋)」(古代史論文集「倭国とは何か」収録)を読んで、初めて知った説である。
 浅学の小生には難解だが、次のようにまとめたらよいものか。

 ・660年庚申、筑紫物部系の政権主権者が、百済の滅亡を聞いたとき、質として手元に置いていた百済の王子・豊彰を送り込み、三軍を組織して百済の再興を支援した。
 この主権者について、古田説は筑紫君薩野馬の名を挙げているが、筑紫君が筑紫物部の主権者の別称であれば、筑紫君薩野馬は「鏡王」と考えられる。
 なお、天武=大海人皇子は、白雉四年(653)に皇弟と表記されているから、このときの主権者鏡王の弟だったことになる。

 ・百済滅亡の翌661年に「白鳳」と改元したのは、九州の主権者の地位にあった「鏡王」であり、白村江の戦いを主導したのは「鏡王」だった可能性が強い。
 斉明天皇と中大兄皇子は、鏡王に徴発されてしぶしぶ二万の兵を吉備で調達し九州まで船団を進め、朝倉にて、唐から帰国した伊吉博徳から帰朝報告を聞く。

 ・白雉元年壬子(652)~9年(660)が鏡王の時世だが、鏡王は、660年百済が破れたので、翌661年の年号を「白鳳」と改元して、ひとまず都を九州から近江に遷し、663 年10月白村江に出陣した。(同書は、662年8月と記す)。

 ・しかし、白村江の敗戦後、鏡王は戦死の可能性が強かったので、近江に遷っていた伊勢王が同所で即位、白鳳元年(661)~11年癸未(671)が伊勢王の時世となる。
 白村江での敗戦後、伊勢王や大海人皇子ら九州政権者と吉備政権者の天智天皇との抗争が続いたが、668年2月近江で天智天皇が即位し、一応抗争に決着が着いた。
 
 ・671年伊勢王、天智天皇が相次いで死亡し、翌672年7月大海人皇子(天武天皇)による壬申の乱が起きた。これは、九州政権主権者の逆襲ともいえる
 671年末か672年正月頃、唐から帰国した筑紫君薩野馬=鏡王がこの乱に加ったかどうかの記述はない。

 ・なお、同書によると、壬申の乱に貢献した高市皇子は、695年(文化元年乙未)即位し「高市天皇」となり、696年7月に崩じた。また、持統天皇は皇太后でその即位はなかった
のではないかとしている。

e. 筑紫君とは倭国王のこと

 ・日本書紀は、筑紫君を火君、宗像君、水沼君などと同じような次元でとらえているが、筑紫君薩野馬の「筑紫君」は、後から付けられた称号のような気もし、実際は「倭国王(倭王)」であった。

 ・筑紫君の名を取って「筑紫王朝」という人たちも多いが、「筑紫王朝」というと単に筑前・筑後国にあった王朝と捉えられそうになる。もともとの「筑紫」は「九州全土」を指す言葉、即ち「筑紫=九州」であり、「筑紫王朝」で問題はないが、どちらかというと古田武彦が称えた「九州王朝」の名称の方が分かりやすい。

 この「九州王朝」が、本来の「倭国」であり、「筑紫君薩野馬」は、その「最後の倭国王」なので、その意味では、もとは「倭王薩野馬」と呼ばれていたのではないかとも思う。

 なお、「倭王・筑紫君薩野馬」の名は、白村江の戦いの総大将であったと考えられるが、日本書紀にその名が出てくるのは、ただ一か所、捕虜となっていた唐から解放されて帰国するときのみで、日本の歴史からはほぼ抹消されている。

 ・因みに宗像君は倭国に属していたと考えられるので、沖ノ島で4~7世紀に行われた国家祭祀は、ヤマトではなく倭国のものであり、倭国の滅亡とともに途絶えたのである。4世紀にヤマト国があったのかも疑わしい。
 因みに、旧唐書にヤマト(日本)が出てくるのは、663年の白村江の戦いより後の長安3年(703)年粟田真人の遣唐使入朝であり、言い換えればその年にヤマトは、唐に認められる「国家」になったことになる。

大伴部博麻呂



[大伴部博麻(おおともべのはかま)の顕彰碑]

 ・この大伴部博麻の石碑(自然石)が、次の二ヵ所に建っている。

 ① 「大伴部博麻呂碑」 文久3年(1863)7月15日、室園神社神職小川柳、北川内村庄屋木下甚助ほか建立。(銘文なし)。
 ※石碑前の門柱…右柱に「尊朝愛国」(そんちょうあいこく):左柱に「売身輪忠」(ばいしんゆちゅう)の刻がある。
  北川内公園頂上西部の一隅(福岡県八女市上陽町北川内寄口)

 ② 「大伴部博麻之碑」 明治25年(1892)11月建立。(銘文なし)
  久留米城址・篠山神社境内(福岡県久留米市篠山町)
 ・大伴部博麻の碑が、①八女市上陽町にあるのは、同地が博麻の出身地(上陽咩郡)で、唐から帰還後、同地で亡くなったとの伝承があるからだ。
また、②久留米城址にあるのは、上陽町が、藩政時代には久留米領内であったことと関係があるようだ。
 両碑建立の時代には、大伴部博麻は「郷土の偉人」としてよく知られ尊敬されていた。また、それ故に銘文を刻する必要もなかったのかもしれない。

 ・特に、上記①上陽町の碑前の門柱にある「尊朝愛国・売身輪忠」は、持統天皇が庶民に賜った日本初の勅言で、大伴部博麻は、忠君愛国教育が行われていた戦時中までは、朝廷を尊び、主君のためには自らの身を売ってでも主君に忠義を全うする忠君愛国・憂国の士としてよく知られており、国の鏡にあやかるべく、碑前にて合掌する人たちも多かったという。
 ・大伴部博麻が帰国したときは、白村江の戦いから27年後で、既に時代が変わり、倭国(九州王朝)は滅亡し、先に帰国した筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜麻)は死亡(?)、天智天皇(死亡)、天武天皇(死亡)の時代も終わった後の女帝・持統天皇(天智天皇の娘・天武天皇妻)の時世であったが、成り行き上、一兵士でありながらヤマト朝廷(日本国)に奉じた愛国忠君・憂国の士として喧伝・祭りあげられたのだろう。



 

2018年10月26日金曜日

邪馬台国論の解明は?(平原遺跡、岩戸山古墳など)


魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の所在地をめぐって、江戸時代より多くの議論がでているが、決定的な結論は不明のまま迷宮入りしている。

その理由を考えてみよう。

1)魏志倭人伝の記述が曖昧である。

壱岐国からの旅程で、地名や距離や方位の記事が曖昧で、現地の地形と対比するのが困難だ。

著者が直接旅行したのでなく、読み聞きした内容らしく、また行きと帰りの行程が変わることもあるので、余計に曖昧になったと考えられる。最初の末盧国も、松浦から宗像や遠賀川まで幅ひろく考えられる。

2)日本の文献が少ない。

記紀は数百年あとに書かれた記録で、そのなかに邪馬台国の記載がなく、類似の人名や場所も存在しない。類推の議論が主になっている。


3)考古学的な解明が不足している。

古墳や鏡や刀剣や土器や衣類や集落遺跡など多岐にわたり議論されているが、エジプト考古学のように、文字などの決定的裏付けになるものがなく、時代判定も変化が大きく、混沌としている。

4)研究者の主観がはいりやすい。

京都大学派は畿内説が多く、東京大学派・その他は九州説が多い。九州説も具体的候補地が多くまとまりにくい。

H.23のデータでは、
甘木・朝倉131;博多湾沿岸102;吉野ヶ里86;
八女市矢部村84;西都原62;宇佐56;大宰府49
などが上位である。 

時代による変遷:


1)江戸時代は、新井白石が初期に大和説を出すが、晩年に九州説に変更し、山門郡を想定。皇室に配慮して、地元豪族が朝貢したとする。本居宣長も国学的な大義名分論にもとづき、魏志倭人伝など中国の史書は非なること多しとする。

2)日露戦争後は、内藤虎次郎(京大)が、東は南のあやまりとして畿内大和説と提起し、白鳥庫吉(東大)は行程の総計12000里に着目し、九州説で肥後と想定した。


3)大正時代には、梅原末治らが考古学的遺物・遺跡から畿内説をだし、津田左右吉や和辻哲郎らは、記紀批判や民族学的に畿内説を展開した。

4)敗戦後は天皇制の解放で、邪馬台国の位置付けが自由になり、部族国家の認識が広まった。

昭和22年に榎一雄が行程が直列でなく伊都国以後は並列と解読する案をだした。考古学から小林行雄が同范鏡論で畿内説を唱えた。その後、考古学主導の畿内説と、文献解釈の九州説の対立が続いた。






5)専門家以外に、松本清張の「古代史疑」や宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」など、学界の外からの参加が多くなった。宮崎は盲目のため、音読による地名の判断を強調した。

6)昭和40年頃からの列島改造で土地開発がすすみ、各地で考古学的出土品が増えて、近畿説が強まったが、九州でも吉野ヶ里などの大型遺跡が見つかった。アマチャーの邪馬台国論参加がブームとなり、個人出版本も多くなった。

地域おこしの行事に、卑弥呼が引用されることも、増えてきた。
最近では、山田地区を邪馬台国と想定し、山田サービスエリアの近くの長田大塚古墳を卑弥呼の墓とする説が浮上している。



私の変遷:

1)学生時代

旧制中学の歴史の教師が森貞次郎先生で、自宅が近くだったので自宅に遊びに行き、考古学の面白味も教わった。(邪馬台国論の具体的な話はなかった。)

九大の鏡山教授が遠縁で、古墳調査の苦労などの話を聞いたことがあるが、当時は邪馬台国など知らなかった。

2)壮年時代

昭和40年代初期に、宮崎康平の「まぼろしの邪馬台国」が出版され、これを森繁久弥が演劇化したのを観て興味をもった。

昭和50年代なかばに、職場の観光旅行で糸島の平原遺跡や糸島町の資料館を見学し、邪馬台国の可能性を感じた。原田大六さんの本を購入し、調べはじめた。資料館もまだプレハブの小屋で、王墓も木枠の露出じょうたいだった。







{国宝}福岡県平原方形周溝墓出土品
・銅鏡 40面分
・玉類 一括
・鉄素環頭大刀 1口
・附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

その後王墓は公園化され、九産大神田学長の書による石碑が建てられた。










この頃九州産業大学の教授になられた森貞次郎先生の「北部九州の古代文化」が出版された。伊都国で魏志倭人伝に
ふれているだけで、邪馬台国の想定はされていない。
東古墳は双円墳で、主体部は失われていたが十六人を埋めたと思われる殉死溝をとどめていたという。古代の殉葬とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬこと、殉死させたうえで葬ることを殉葬というらしい。邪馬台国の女王「卑弥呼」が死去し塚を築いた際に約100人の奴婢が殉葬されたと魏志倭人伝に掲載されているが、平原遺跡は殉死者16人では人間の数は違いすぎる。三世紀頃の遺跡で、時期は卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一緒だ。
昭和60年代になると、邪馬台国関連の本や講演会などが急増した。
古田武彦、山田宗睦、松本清張、千田稔、武光誠、安本美典、森浩一、神西秀憲、岡本健一などの本を購入し乱読した。



西日本新聞の記事



吉野ヶ里の発掘調査時代に2回現地見学にいき、公園完成後3回でかけて、視察した。



北部九州地区の古墳の見学旅行にはあちこちと参加した。

平塚川添遺跡の見学にもでかけた。

また奈良の飛鳥地区や平城京地区にも2回ほど観光視察にでかけた。


(3)高齢時代

平成になると、正規の職業を退職し、自由時間が増えたので、福岡市周辺での講演会に多数でかけた。埋蔵文化センターでのシリーズは1年間通った。
聴講した講師名は、西谷、小田、奥野、高島、生野、平野、西川、柳田、荒金、森、松木、渋谷、石合氏ら多数である。

市のネット仲間の会で、自己流の邪馬台国論を話したこともあ
る。

邪馬台国の旁国名やその人口数などの研究もすすみ、各種の統計的なデータによる議論も増えてきた。


また外交の対象国も魏国だけでなく、後漢、呉、半島の諸国との問題も論議されている。




『魏志倭人伝』には「景初二年六月、倭女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝貢せしめんことを求む。
太守劉夏、吏を遣わし、将に送りて京都(洛陽)に詣らしむ」
と記されている。

現在は高齢のため出かけることが困難で、もっぱらネット情報で学んでいる。

これだけ膨大な情報がありながら、決定的な結論が得られないでいる邪馬台国論

私個人の考えでは、九州人の我田引水が半分あるが、白鳥説が合理的で九州説に魅力がある。

「倭人伝」では、帯方郡から邪馬台国への行程を方向と距離(里)で記載して、総計すると、一万二千余里としている。不弥国までの累計が一万七百里だから、あと千三百里で邪馬台国につくから、邪馬台国は九州の範囲としたのが、白鳥庫吉の説である。
しかし本文の記載には、不弥国の後に次の文がある。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
なぜ急に距離でなく日数「水行十日陸行一月」で記載したかを解説した著書は少ない。
私の知る限りでは、古田武彦氏と生野真好氏が、距離と方向で記載するのは、場所を明記するためで、日数で記載するのは、全部に要する旅費(軍事費)を計算するためでだと書いている。松本清張は魏の使者が行った事がない場所と考えている。
これを距離に換算して加算すると、邪馬台国は沖縄のはるか南の海の中になり、誤りだ。
生野氏は 水行十日陸行一月は、女王国から洛陽までの日数だとし、古田氏は朝鮮半島を陸行した場合を加算しているという。私は帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里の日数と思っていた。最近では、奥野正雄氏が私と同じ考えで、吉野ケ里を邪馬台国とする著書を出された。
文章の流れからいうと、すこし飛躍があるが、論理的には正しいような気がする。九州説の論者はよく研究してみる必要がある。

世界的にみて古代文明は大河の沿岸から始まるので、九州説では筑後川沿岸が最有力だと思う。


前述のように甘木・朝倉を比定する人が多いが、エジプトでの発掘調査をみていると、遺跡の下から古い遺跡が見つかることも多いので、古代豪族磐井氏の祖先がいた地区で、八女市や矢部村周辺、岩戸山古墳周辺の下に埋もれているのではないかと思っているが、確証はない。



九州古代史研究会で議論されている、筑紫王と豊前王の分類にも興味があるが、2~3世紀では区分がはっきり無かったと思える。

残る手段は、金印の発掘があるか、AIにデーター入力して判断してもらうかが解決策であろう。