2018年11月24日土曜日

楠君の家の火災




 この新聞記事をよんで楠亮二さんの名前にびっくりした。六本松の旧制福岡高校の同級生だったからだ。
福岡男子師範付属小学校と県立福岡中学校では、1年先輩だったが、わたしが4修で福高に入って同じクラスになり、1年間玄寮で一緒に生活した。当時の集合写真でも近い場所におさまっている。

彼は九州大学医学部の楠内科の楠教授の次男で、医学部にすすみ、九州中央病院の病院長をつとめたあと、開業医として活躍していた。
しかしクラス会には全く出てこなかったので、卒業後は顔をあわせていない。
彼の1年年長の兄は、私と同じ工学部にすすみ、九大応用化学の教授をつとめたあと、九州産業大学にきた。
私と教授室が隣あわせだったので、兄さんを通じて彼の近況を聞いていた。
晩年まで、蛾の採集を熱心にやっているということだった。
火事の状況は、福岡シニアネットで知り合いの小川さんが近所だったので、そのFBでしり、その写真を転載させてもらっている。楠君は足が悪かったそうだが、なんとか逃げ出せたのは幸いだった。
奥さんの死亡は残念なことで、深くおくやみをもうしあげる。
出火の原因は不明だが、昼間のことで料理作業中のことではなかろうか?
家内も高齢なので、てんぷら料理などはしないようにしている。
もう他の同窓生も、ほとんど生存者がいなくなり、交流がないので、これ以上の情報はもうはいらないだろう。

2018年11月5日月曜日

九州王朝諸説 その1

・3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府(王居)は、筑紫国内を転々とし、その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に広がり、生き続けた。

高市皇子=筑紫君薩野馬説?

・天武天皇(大海人皇子)は、斉明天皇の子でも、天智天皇(中大兄皇子)の弟でもなく、倭国・海人族と係わる人物であるとみなし、天智天皇の第一皇子・大友皇子(弘文天皇)を討った壬申の乱(672年6月)は、天智天皇によって滅ぼされた旧倭国(九州王朝)の復権のために起きたという説がある。

・しかし、673年飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、唐の傀儡によるの専制政治を行った孤高(孤独)の天皇で、天皇の称号や日本の国号を制定し、日本の皇統は一統で神話の時代より今日に至るまでヤマトにあるとする日本書紀の編纂を命じ、ヤマトを中心とする国家神道や仏教を推進し、あわせて旧倭国の官寺を尽く廃寺にしているので、天武天皇が旧倭国の復権を考えていたとはとても思えない。
 
・また、天武天皇崩御(686年)後も、倭国・宗像国と係わる第一子の髙市皇子は皇位を継承していない。

・髙市皇子は、天武天皇(大海人皇子)の第一子(長男)で、母は宗像君(胸形・宗形)徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)といわれ、壬申の乱で全軍を指揮し勝利に導いた第一功労者である。
もしこの高市皇子が筑紫君薩野馬であれば、671年末~672年正月頃、唐から帰国した直後(672年6月)、ヤマトに上り、壬申の乱に加わったことになり、これだけの活躍をした背景に倭国の復権がかかっていたと考えることはできなくもない。

・しかし皇崩御後、皇位を継いだのは持統天皇(天智天皇の娘)であり、天武天皇擁立の最大の功労者であったはずの高市皇子=筑紫君薩野馬は、皇位継承できず、持統天皇にお飾り的な太政大臣に任命され、藤原京の建設に関わったものの、696年(持統天皇10年)に薨御した。

以後、皇位は、天智天皇の系譜が続くことになるので、この面でも旧倭国(九州王朝)の復権はなかったことになる。
・なお、同説の根拠としているもののなかに、高市皇子が中心となって建設に取り組んだ「藤原京」が、復古調の「周礼」(しゅらい)に倣った形で作られていることを挙げているものがある。
つまり、この周礼の形は、唐で8年間の虜囚生活を送るなかで「周礼」の影響を受けた筑紫君薩野馬が持ち還ったもので、周礼に倣う形で藤原京の建設をした高市皇子は、筑紫君薩野馬と同一人物だったからだというのである。

宗像君徳善と筑紫君薩野馬説?
・上記のように高市皇子の母は、宗像地方の豪族、宗像(宗形・胸形)君徳善の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)である。
そして、宗像君徳善は、海人族・宗像国の君で、宮地嶽神社奥の院古墳(奥宮不動神社)(福岡県福津市宮司)が、その墳墓と言われている。
・宗像徳善は、倭国(九州王朝)の宗像君であり、その孫高市皇子がもし「筑紫君薩野馬」であれば、その祖父宗像君徳善が倭王であった可能性も考えられる。
・因みに下記倭王系譜で「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」の讃の一代前が「藤(「勝」ともいう)」で、徳善の古墳がある宮地嶽神社の祭神は「藤の勝頼」で、かつ徳善の古墳とされる宮地嶽社奥の院(奥宮不動神社)の神紋が九州王朝を表す「三階松」で、徳善が倭王、或は倭王の系譜を引いていたことは間違いない。

宗像・沖ノ島の国家祭祀の国家は倭国
 ・宗像君徳善が倭王であれば、古代宗像君が沖ノ島で行っていたという国家祭祀(4~7世紀)の国家とは、宗像国を含む倭国(九州王朝)であり、絶対にヤマト王権ではなかったことになる。
 ・沖ノ島と関連遺産群が世界遺産に認定され、古代、沖ノ島ではヤマト王権による国家祭祀が行われていたという説が固定化されたが、この説に対して疑問を投げかけている人たちは多い。
 また、ヤマト王権による国家祭祀の根拠とされた理由が、沖ノ島から三角縁神獣鏡が発見されたことによるが、三角縁神獣鏡は、今やどこででも発掘され、それをヤマト王権のものとする固定観念は、大和地方以外の前方後円墳はヤマト王権の許可を得て作られたものとする間違った固定観念と同じで、これら柔軟性のない固定観念は学術的に甚だ危険である。
・宗像国は、ヤマト王権に属していたものではなく、間違いなく九州の倭国に属していたはずで、663 年10月の白村江の戦いに際しては、倭王筑紫君薩野馬の呼びかけに応じて多くの軍船と兵士を出したが、その敗戦によりその多くの船と兵士を失い、国力の衰退を招いたと思われる。
その後、宗像国を含む倭国が滅亡し、ヤマトに吸収されたことにより、それまで沖ノ島で行って来た倭国のための国家祭祀が途絶えたのである。

・因みに宗像大社(沖津宮、中津宮、辺津宮)の祭神宗像三女神は、天照大御神と素戔嗚命誓約で誕生した神で、天照大御神は倭国につながる邪馬台国の卑弥呼(大日孁貴)あり、素戔嗚命は古代物部王国の祖神饒速日命の父(出雲神)であり、宗像三女神が最初に降臨した崎門山(六ヶ嶽の一峰)は、鞍手(弦田)物部王国(福岡県鞍手郡鞍手町)のなかにあり、もとよりヤマトで生まれた神ではない。

・3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府(王居)は、筑紫国内を転々とし、3世紀の邪馬台国(邪馬壹国)から始まった倭国(俀国)は、政庁を太宰府に置き、その王府 (王居)は、筑紫国内を転々とし、その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により 滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に広がり、生き続けたと思う。

その終末期の王府は朝倉にあり、白村江での大敗により滅亡したが、倭国の人々の末裔は朝倉を本拠にし九州地区に日本書紀」が言う、「天武」と言う人物は「九州倭国王筑紫君薩野馬(薩夜麻、大皇)」と、「その弟である大海人皇子(大皇弟)」を合算しして記述している。
列島の歴史は、「天智系」に先行、先在する「九州倭国」を中心に展開していた。
 そこに「天智系」が割って入ってくる。
でも「壬申の乱」で「天智ー大友」が一旦つぶされ、「光仁(天智の孫)、桓武」の代で復権する。
復権しなければ何も問題は発生しなかったのだが!
 「日本書紀、続日本紀」は、その最終権力者である「天智ー藤原系」の史書で、「九州倭国の存在を隠蔽している」。
「日本書紀」編纂の基本方針は、「神武が近畿地方に移動してきて以後、天皇は近畿地方にいて万世一系」だから。
「日本書紀の編者(改編者)」は、口が裂けても「天智―大友」で一旦断絶したとは記述することが出来ない。
そこでとんでもないことを考え、「天智と天武は兄弟」、これをキーにして、「日本書紀と続日本紀」を偽作して「光仁、桓武」に上手く繋ぎ、系譜の改編も行い断絶はないという史書を作成した。
 だから「日本書紀、続日本紀」は、「いたるところに、矛盾やほころびがあり、難解な訳の分からない史書」になっている。
「九州倭国」の皇統は、「筑紫君薩野馬(薩夜麻)」-「高市皇子(大皇の皇子)」ー「弓削皇子(高市の皇子)ー文武(草壁と阿閇の子ではなく、高市皇子と阿閇皇女の子)」ー「聖武(高市皇子の孫)」-「孝謙称徳(聖武の娘)」である。
「九州倭国の皇統」も「孝謙称徳」の代で、聖武が男子の後継者に恵まれなかったのと、天智ー藤原系との暗闘の結果、断絶してしまう。
そして時代は「天智ー藤原系」の時代へと変わっていく。

最後になる、「大海人皇子(大皇弟)」は九州倭国の皇統では「九州倭国王」に即位していない。「薩野馬(薩夜麻)」の次は「高市皇子(大皇の皇子)」である。

「日本書紀」は、「672年壬申の乱、673年天武即位」と記述しているが、「九州年号」では「661年の白鳳元年から683年の白鳳23年まで、改元がない」。 
本当に「大海人皇子(大皇弟)」が、壬申の乱以後に九州倭国王に即位していれば、間違いなく「改元」があるはずだ。
「日本古代史の謎」を考えるのに「九州倭国の存在」と言うのを考慮すると、「大局的に見て(謎)は全部解決するように思う。

補足:日本書紀の偽作:
「日本書紀」の言う、「継体」と「筑紫君磐井」による、列島の最高権力者争いは、「日本書紀の編者」により作られたもの。
列島の歴史を、実際に展開している「九州倭国」の存在を隠蔽しているのが「日本書紀」だ。「基本が近畿地方で万世一系だからだ。」。

近畿地方での「応神系」の皇統が「武烈」で断絶し、「継体」が近畿地方の権力者に名乗りを上げるが、「継体」が「九州倭国王筑紫君磐井」より「上位に君臨」していなければならない為の偽作だ。
「日本書紀」によると、「継体側」の大勝利だが、「筑紫君磐井」の後継者「葛子」が差し出したのは「糟屋の屯倉」一つである。
「九州倭国王筑紫君磐井の勢力範囲は九州島の北半分と西日本一帯なのに、これは変だ。
「日本書紀」の編者は、この時代にあった「物部」と「大伴」の勢力争いを隠蔽していて、継体と磐井」に置き換えて記述している。
近畿地方からの半島派遣軍が、九州で「反乱」を起こしたのは事実だが、すぐに「停戦協定」により終息している。
「磐井の反乱」ではなく「近畿の反乱」だ。
「磐井」の後も「九州倭国」は健在だ。



2018年11月3日土曜日

頼朝の天下草創と義経・行家追捕の院宣

頼朝の天下草創


文治元年(1185)11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。
11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。
11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。



12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して守護地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける。
24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。
 28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。
12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。
議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。
文治2年(1186年)3月には法皇の寵愛深い摂政近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。
4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤る。
5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った
頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。
11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。
朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。