最近きいたラジオ番組の話しと、関裕二・松本清張の著書や磯田道史の説などから、原因と経過を列挙してみる。
1)天智・天武の兄弟は異父兄弟で、実は天武が兄で高向王(反雄略の蘇我系)の子、天智は欽明天皇(雄略系)の子という説もある。天智には娘が多く、4人を天武の后とした。
2)額田姫をめぐっての恋敵。これは良く知られている。
3)天智と鎌足で蘇我入鹿を倒し、強力だった蘇我氏の勢力をおさえた。天武の周辺には蘇我氏の残党が多く集まった。
4)天智と鎌足で百済支援偏重の政策をすすめ、白江村の惨敗を招く。鎌足は百済系の人物らしく、親百済の政策をすすめ、天武は親新羅派であった。百済滅亡後は、天智は唐、新羅に、中立を保った。
5)天智は近江(大津)に遷都を強行し多くの豪族の反感を招いた。
6)天智は天武への譲位の約束をしながら、おそく妥女にできた実子の大友皇子への譲位を模索する。暗殺の計画があることを、蘇我安麻呂からしらされ、天武は出家して吉野へのがれる。
7)天智の死後、大友皇子(弘文天皇)の挙兵を予知して、天武は吉野より東国の尾張へ出て、尾張宿禰大隅のもとに行き、多くの兵が集まって、大津へ進軍する。ここで壬申の乱となる。大友皇子の挙兵は、唐への援軍派遣のためだったとも考えられる。当時は唐と新羅が対立していたので、大友は唐を支援し、親新羅の天武と対立した。これが壬申の乱の主原因であった。
両軍の動き |
9)勝利した天武は都を蘇我氏の地盤である飛鳥にもどし、親蘇我派の皇親政治を実現した。唐は新羅におされて、倭国への干渉はおさまった。
10)しかし天武の皇后の持統天皇「鸕野讚良(うののさらら)」は天智の娘であり、日本書紀は天武のために書かれたように見せかけながら、実は天智や持統のために書かれているふしがある。
編纂の主役が藤原不比等であり、天武の周辺の蘇我氏の人物を記載せずに、鎌足を英雄視してかいている。
この乱は九州とは直接の関わりが薄いが、二人の母の皇極(斉明)天皇は、白村江の戦のとき九州まで出陣し、朝倉の宮で崩御されている。ここは後の黒田騒動の栗山大膳がいた麻天良山城の麓である。
また胸形徳善の娘、尼子姫が天武天皇の妃となったのは、白村江の戦のおり、天武もまた九州まできており、宗像氏との接触があったのが縁である。
その子の高市皇子がこの壬申の乱の戦では大活躍して、天武時代には第3位の地位を獲得していた。