【三畏閣】
孔子の言葉「君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。」から名付けられた「三畏閣」です。
この地域では、その食品スーパーを主要業態とするイズミ、トライアルカンパニー、リテールパートナーズ、沖縄のサンエーが揃って直近好業績で、コスモス薬品は食品の安売りを武器に業容を拡大した。イオン系の流通3社や「旧勢力」など同業他社のシェアを侵食したから、中小スーパーを次々と合併した企業もあるからという理由づけもできるが、それでも、高度経済成長時代から人口減少が始まり、小売業にとって「ゼロサム・ゲーム」より苛酷な「マイナスサム・ゲーム」という最悪の環境からでも成長企業がうまれている。
2017年11月28日火曜日
2017年11月12日日曜日
古賀の地名と姓名(更新)
花鶴川河口 |
鹿部・田渕遺跡 |
古賀の地名の語源は、地形から2種類、行政から2種類と言われる。
地形からは、カガ(水平な低い土地)、クガ(少し高い陸地)。行政からは、空閑(未開発の空き地として所有した土地)、国衙(国の行政機関がおかれた土地)である。
古賀市の場合は、花鶴川河口に近い鹿部山周辺のクガに古賀村が出来て、小早川時代に117石の村だった記録がある。
その後席内村に吸収されて名前がきえるが、明治時代に鉄道の駅が出来て、古賀駅と命名され復活する。周辺の人口が増えて、席内・青柳・小野村の合併時に古賀町となり、現在の古賀市となった。
茨木県には古河市が存在している。
姓名の古賀も、筑前、筑後、肥前は古賀、肥後は古閑が多い。政治家、医師、音楽家など著名な古賀氏がいる。
玄海義塾頭の土師氏の調査では、1338年に古賀浦の地頭職になった少弐氏の子孫(5代の分家)少弐景治が、初めて地名をとって古賀氏を名乗り、その後この一族は少弐氏と共に戦国時代を闘い、肥前国にのがれて、1559年ころ滅亡したという。その末裔は武士をはなれて、医者などになったらしい。大分市在住の医師古賀家に伝わる家系図から判明したようだ。
古賀浦という場所は、上の地図や鹿部‣田渕遺跡の模型のように、花鶴川の河口付近で、古代は鹿部山の麓まで大きく入り込んだ入江で、最近まで鹿部大池もあった。
古代、平安時代までは、布津留、華津留、華鶴、花鶴と呼ばれていた。
何時から古賀浦と呼ばれたかは不明だったが、この古文書によれば鎌倉時代かららしい。
何時から古賀浦と呼ばれたかは不明だったが、この古文書によれば鎌倉時代かららしい。
2017年11月7日火曜日
仏教の五蘊と脳の構造・機能
釈迦のいう五蘊(五温)とは、想・行・識・色・受である。
脳科学者の浅野孝雄先生は、この五蘊を現在の脳機能分析の内容から次のように説明されている。
「想」は左前頭葉で意識の統覚形成、
「行」は頭頂葉で行動意欲の形成、
「識」は右前頭葉で知識の記憶保存、
「色」は後頭葉で外部情報の感覚機能域、
「受」は脳幹・海馬部で情報の循環サイクルを統制する。
仏教の教えと先端科学の解析がなんとなく整合性があるのは面白い。
脳科学者の浅野孝雄先生は、この五蘊を現在の脳機能分析の内容から次のように説明されている。
「想」は左前頭葉で意識の統覚形成、
「行」は頭頂葉で行動意欲の形成、
「識」は右前頭葉で知識の記憶保存、
「色」は後頭葉で外部情報の感覚機能域、
「受」は脳幹・海馬部で情報の循環サイクルを統制する。
仏教の教えと先端科学の解析がなんとなく整合性があるのは面白い。
五蘊の働きは、小さな炎のように燃えているいる状態と表現され、現代科学でもその部位の色が変わることで、解明されている。
ウォルター・フリーマンの複雑系理論によると、これはカオス状態のものが、刺激により竜巻をおこすように、形を創発するためである。無意識状態から、0.1秒くらいで意識が生じる。
刺激は五感からの情報が主役であるが、最近の研究では、筋肉や脂肪からのメッセージ物質による視床下部や海馬への刺激もあるようだ。
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