安川敬一郎の幼名は藤四郎である。
黒田藩士に藤(フジ) 四郎という人物がいる。
脱藩して長州の騎兵隊にはいった勤皇の志士である。
野村望東尼を姫島から脱島する際に活躍した人物である。
その名前を子供につけた徳永家も勤皇派であったのだろうか?
ただの偶然なのだろうか?
2013年8月29日木曜日
2013年8月27日火曜日
安川敬一郎の時代
大河ドラマ「八重の桜」は幕末明治を敗者の立場で描いたものだ。
主人公の八重子は、安川敬一郎より4年前にうまれ、4年後に死亡している。ほぼ同じ時代の人物である。
主人公の八重子は、安川敬一郎より4年前にうまれ、4年後に死亡している。ほぼ同じ時代の人物である。
黒田藩は勤皇の志士を皆殺害して、佐幕体制であったため、戊辰戦争が起こってはじめて3人の家老を切腹させ、戊辰戦争への兵隊を送った。
敬一郎も戊辰戦争に出兵予定だったが、安川家の養子となり中止となった。
明治になり江戸への派遣留学生にえらばれ、上京する舟のなかで、長州武士にあい、はじめて西郷や大久保の名前を知ったという。
勝海舟にあって、西郷や大久保や佐久間などの人物像をきいたという。その後薩摩藩士の事件にであい、薩摩や長崎にもでかけた。これにより敬一郎の世界がひろまったようだ。
再度上京し福沢諭吉の門下生となる。
敬一郎も戊辰戦争に出兵予定だったが、安川家の養子となり中止となった。
明治になり江戸への派遣留学生にえらばれ、上京する舟のなかで、長州武士にあい、はじめて西郷や大久保の名前を知ったという。
勝海舟にあって、西郷や大久保や佐久間などの人物像をきいたという。その後薩摩藩士の事件にであい、薩摩や長崎にもでかけた。これにより敬一郎の世界がひろまったようだ。
再度上京し福沢諭吉の門下生となる。
しかし長兄が贋札事件の責任者で切腹し、次兄が佐賀の役で戦死したため、帰郷して炭鉱経営を引き継ぐこととなった。
頭山満の父は、戊辰戦争に参加した人物だから、病で死亡するときは、畳の上では死ねないといって、庭の土の上に移させたという時代である。
戊辰戦争では、会津藩は壊滅状態にされたが、庄内藩は最後の交渉で、多額の献金条件を提示して殆ど無傷の条件で、明治をむかえている。新政府の弱点をうまく利用した藩もあった。
安川敬一郎は、苦しい炭鉱経営を見事に立て直し、さらに紡績業や鉄鋼業にも手をひろげた。
頭山満の父は、戊辰戦争に参加した人物だから、病で死亡するときは、畳の上では死ねないといって、庭の土の上に移させたという時代である。
戊辰戦争では、会津藩は壊滅状態にされたが、庄内藩は最後の交渉で、多額の献金条件を提示して殆ど無傷の条件で、明治をむかえている。新政府の弱点をうまく利用した藩もあった。
安川敬一郎は、苦しい炭鉱経営を見事に立て直し、さらに紡績業や鉄鋼業にも手をひろげた。
その利益を國家に還元するために、会津藩出身の東大総長だった山川健次郎の力をかりて、戸畑に明治専門学校を設立したことは有名である。
それ以外にも大河ドラマの人物と接触したことがありそうだ。
それ以外にも大河ドラマの人物と接触したことがありそうだ。
頭山満や玄洋社のメンバーとは親しく交流して、中国の孫文を支援したりし、衆議院議員にもなっている。
グラバーの子息の「倉場」の日本名を提案したという話もある。
2013年8月21日水曜日
今山の奇襲戦
【今山の戦い】元亀元年(1570)8月20日
鍋島信生(のち直茂)が、大友宗麟が差し向けた佐嘉攻めの大将・大友親貞を今山に奇襲して討ち取る。
この年の三月末、豊後の大友宗麟は肥前佐嘉城(佐賀市)の龍造寺隆信討伐の兵を挙げ、六万(兵数には異説あり)の大軍で肥前へと侵攻しました。宗麟は筑後高良山(福岡県久留米市)に本陣を置き、先陣の立花道雪・高橋紹運は三万の兵を従えて阿祢堤原に布陣、これに筑後の国人衆や肥前の反龍造寺氏勢力が集結して加わり、佐嘉を遠巻きに包囲しますが、戦線は膠着状態となりました。
七月~八月にかけて大友方の筑後勢が攻めかかりますが、龍造寺勢は必死に防戦して撃退します。
好転しない戦況に業を煮やした宗麟は弟(一説に甥)の親貞に三千の兵を与え、親貞は八月十七日に佐嘉城の北西・今山に陣を置きました。
対する隆信は納富信景に二千騎を与えてこの方面の押さえとし、翌十八日の夜に成松信勝が忍びの者を放って敵情を探ったところ、親貞は圧倒的な状況に楽観視していて兵の統制も取れていないとの報告がありました。
夜襲の絶好の機会と判断した信生は、隆信の許しを得ると直ちに行動に移りますが、城を駆け出た時はわずか主従十七騎だったと伝えられます。一方の親貞は二十日に総攻撃と決定しますが、前夜には酒宴を開いている有様で士気は緩んでいました。
後から駆けつけた者を合わせて三百騎となった信生勢は夜陰に紛れて迂回し、親貞の裏手の山へと回ります。そしてこの日の未明、一斉に鬨の声を上げて貝を吹き鳴らし、大友勢の本陣に切り込んでいきました。直ちに山麓の納富信景も呼応して攻め上ると、油断していた大友勢は大混乱に陥り、我先に壊走を始めました。
親貞主従三人は何とか混乱を脱し、山伝いに筑後方面を目指して退却しますが、成松らに追いつかれてついに首を挙げられました。大将を討たれた大友勢は一瞬にして烏合の衆と化し、二千余の兵を討たれて潰走、この戦いに大勝した龍造寺隆信は以後急速に勢力を拡大することになります。
2013年8月19日月曜日
2013年8月16日金曜日
薦野増時と小野和泉(鎮幸)
古賀の郷土史の主役は薦野増時(立花三河)であり、市の広報誌にも特集が掲載された。
内容は充実していたが、小野和泉のことには触れられていなかった。
立花城の城主が立花道雪や立花宗茂の時代では、家臣は小野和泉(鎮幸)と薦野増時の両家老の二派に、分かれていた。
薦野氏は、中世からの地元豪族であり、小野和泉は大友家の家臣で、立花道雪と共に立花城に赴任してきた。
小野和泉は立花城時代には、宗像軍との小金原の戦で活躍したり、島津軍側の星野吉実、吉兼兄弟の追撃戦などで活躍した武将であった。
立花宗茂が失脚して放浪中は、小野和泉守が資金援助をつづけたという。
薦野増時は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人を越え、田舎豪族には稀なる人材であると同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。
しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、戦国の世の習いである。
小野和泉派と薦野増時派の対立は、小野和泉派は相手を「比丘尼組」と呼び、薦野派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、それぞれに腹を立てさせることもあったという。
そのせいか古賀の郷土史家たちは、小野和泉のことを、あまり評価せずに、取り上げることが少ない。
小野和泉の子孫で有名なのがオノヨウコである。
彼女はジョンレノンをつれて柳川にきたという。お花亭の付近に小野邸跡があるからだ。そのためか、ゲームの世界では小野和泉が有名になっている。
古賀市にもかって小野村が存在した。
明治22年に席内村・青柳村・小野村の3村時代になり、昭和14年に席内村が古賀町となり、昭和30年に3者が合併して大型の古賀町となり、平成9年に古賀市となった。
薦野や筵内や米多比の地名は残っているが、小野の地名は消えて、小野公園や小野小学校の名前だけが残っている。
明治22年以前にも小野という地名はなかった。小野村という名前はどこからつけられたか謎だ。
小山田の小と、薦野の野をとったという説があるが、小野村の村誌には何も記載されていない。
立花道雪の家臣の小野和泉(鎮幸)がこのあたりに居住していたから小野村といわれていたという説もあるが、はっきりしない。
古賀の小野公園や小野小学校も、オノヨウコがきてくれれば、話題になるのだが、根拠がうすいので、招待できそうもない。
薦野増時のほうは、薦野城跡もあり墓もあって、薦野地区の郷土研究会で毎年記念行事や資料研究が行われている。
二人は現在でも、対照的な人物として取り扱われている。
内容は充実していたが、小野和泉のことには触れられていなかった。
薦野増時 |
薦野氏は、中世からの地元豪族であり、小野和泉は大友家の家臣で、立花道雪と共に立花城に赴任してきた。
由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた。「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で22度の大戦、多数の小戦に参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計68枚の感状を受けた。
筑後国柳川城の城主となった立花宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。
小野和泉は立花城時代には、宗像軍との小金原の戦で活躍したり、島津軍側の星野吉実、吉兼兄弟の追撃戦などで活躍した武将であった。
立花宗茂が失脚して放浪中は、小野和泉守が資金援助をつづけたという。
薦野増時は男柄良く、口上も明らかで分別厚く、その利発さは人を越え、田舎豪族には稀なる人材であると同僚たちも思い、他家からも賞賛され、その頃の大名衆たちも欲しいと思うような人物であった。
武辺においては小野和泉ほど回数を重ねていないが、居合わせた合戦のごとに、武功を加えていた。
しかし、智謀があって分別立てをするような大人しい人物は、武儀は二番のように言われるのが、戦国の世の習いである。
薦野増時も、能力のある人物であることは確かなのに、武儀は二番のように、特に物慣れぬ若い衆たちは思っていたようだ。
小野和泉派と薦野増時派の対立は、小野和泉派は相手を「比丘尼組」と呼び、薦野派は相手を「羨ましいとも思わぬ」などと言って、それぞれに腹を立てさせることもあったという。
そのせいか古賀の郷土史家たちは、小野和泉のことを、あまり評価せずに、取り上げることが少ない。
小野和泉の子孫で有名なのがオノヨウコである。
彼女はジョンレノンをつれて柳川にきたという。お花亭の付近に小野邸跡があるからだ。そのためか、ゲームの世界では小野和泉が有名になっている。
古賀市にもかって小野村が存在した。
明治22年に席内村・青柳村・小野村の3村時代になり、昭和14年に席内村が古賀町となり、昭和30年に3者が合併して大型の古賀町となり、平成9年に古賀市となった。
薦野や筵内や米多比の地名は残っているが、小野の地名は消えて、小野公園や小野小学校の名前だけが残っている。
明治22年以前にも小野という地名はなかった。小野村という名前はどこからつけられたか謎だ。
小山田の小と、薦野の野をとったという説があるが、小野村の村誌には何も記載されていない。
立花道雪の家臣の小野和泉(鎮幸)がこのあたりに居住していたから小野村といわれていたという説もあるが、はっきりしない。
古賀の小野公園や小野小学校も、オノヨウコがきてくれれば、話題になるのだが、根拠がうすいので、招待できそうもない。
薦野増時のほうは、薦野城跡もあり墓もあって、薦野地区の郷土研究会で毎年記念行事や資料研究が行われている。
二人は現在でも、対照的な人物として取り扱われている。
2013年8月14日水曜日
2013年8月9日金曜日
戦争を学ぶ
夏休みの宿題で、学生達に戦争を学ぶことを出題している先生が多いようだ。
そして生徒達は、戦災の跡地をしらべて、悲惨な戦争を止めようと考える。
負けた戦争の結果は悲惨だが、勝利した戦争の結果もある。 戦争の原因は複雑でなかなか複雑で、学生にはわかりにくいだろう。
しかし戦災のことだけで、戦争を考えるのは過ちである。
そして生徒達は、戦災の跡地をしらべて、悲惨な戦争を止めようと考える。
負けた戦争の結果は悲惨だが、勝利した戦争の結果もある。 戦争の原因は複雑でなかなか複雑で、学生にはわかりにくいだろう。
しかし戦災のことだけで、戦争を考えるのは過ちである。
2013年8月6日火曜日
黒田藩時代の古賀市郷土史
関ヶ原戦後に52万石で筑紫入りした黒田如水と長政親子。
江戸時代の古賀地区図(①~④は本文の中) |
薦野氏と米多比氏: 古賀市の黒田以前の戦国時代の代表的豪族は薦野氏と米多比氏であり、ここでは両者の比較をまとめてみる。
1)古賀町誌では薦野氏が10頁分、米多比氏が5頁分の記載で、最近発行の「古賀市うるわし」でも、薦野氏がメインで、米多比氏は2割程度の行数。
2)こが広報誌では米多比氏を昭和50年頃掲載、薦野氏は平成25年にやっと掲載。
3)現在の行政区地名として、薦野区、米多比区が隣接しており、その東側丘陵地(300m弱)に,薦野城跡と米多比城跡が現存している。
4)古文書としての数は、米多比氏が150、薦野氏が80。
5)立花氏が柳川城に移封したときの禄高は、薦野氏が4000石、米多比氏が3500石。
6)古賀時代の明確な石高数値は不明だが、大内勢と大友勢が拮抗していた時代は、米多比氏の活躍が上位だったようで、大内・宗像勢が撤退し、その後柳川に移動する前後からは、薦野勢の活躍が上位になったようだ。
7)同時代の薦野増時と米多比鎮久を比較すれば、増時は戦場の活躍のほかに、先見性や交渉力などが優れていたようだ。薦野増時は立花宗成の命により、黒田経由で家康との交渉にでかけてたりいる。
8)薦野増時の子孫の立花実山が、黒田藩史では有名だ。
団氏:
古賀に旦の原②という地名があり、ダンノハルという。
旦の字は日の出をあらわし、タンと読むのが普通である。
しかし旦那はダンナだから濁音もある。旦と団は意味が違うが、音は同じだ。
この地の出身豪族に団氏がいて、かってこの地の満本城の城主であった。
薦野氏との戦いに敗れて、その後は薦野氏にしたがって立花や黒田の家臣となった。
11代目の団尚静は幕末のころ黒田の勘定奉行までなったが、維新のころは江戸勤務であったため、黒田偽札事件には関係せずにすみ、同僚が多く罪にとわれるなかで、福岡藩から福岡県の官僚として生き残った。
筑前竹槍一揆が起こると、その事件処理に功績をあげて、県権大参事になった。
その子の団琢磨は藩の海外派遣員としてアメリカに渡り、鉱山学などを学び帰国した。東大の教壇にたったのち工務省の役人となり大牟田の三池鉱山の開発を担当した。鉱山の民営化で三井物産が入札したとき三井物産に天下りし、最後は三井財閥のトップとなるが、テロにあい生涯を閉じる。
その子の団伊能も実業家として活躍し、その長男の団伊久磨は作曲家として有名人となった。
伊久磨は団氏のルーツ探しに、古賀まで足を運んできたことがある。どんな感想をもって帰っただろうか。
今は九州高速道路の古賀パーキンエリアが出来て、九州では人気のある場所になっている。
飯尾理入:
飯尾理入は国東半島の大友の城の一つの冨来城代として黒田と戦い、降伏して黒田の家臣となって、古賀の小山田地区③に居住した。その墓が古賀市薬王寺にある。この飯尾理入は豊後では垣見理右衛門と名乗っていた。「飯尾」の姓は祖先が「尾張の飯尾氏の養子になった」時代があったかららしい。
菅六之助正利
黒田25騎のなかで、一人だけ糟屋との関係記録のある人物がいる。「菅(カン)六之助正利」である。
筑前入して3000石となり、伊都郡や糟屋郡の郡奉行となる。
糟屋郡では、古賀の「新原村」の新田開発をしたという記録がある。
播磨国揖保郡のうまれで、如水のもとで若い頃から働き、初陣は17歳の時の賎ヶ岳の戦で、二人を倒して如水からほめられた。
岸和田の陣で根来雑賀衆と戦い戦功を上げた。
九州役でも築井城攻めで敗退のとき、長政を守って活躍した。
中津入りしたときは200石であった。
朝鮮の役では虎退治の武勇伝が有名である。
関ヶ原の役では小早川秀秋との連絡役をつとめ、本戦では鉄砲隊を率いて、石田側の重臣島左近を打ち負傷させた。
晩年は和泉守を名乗り、茶の湯を楽しみ、黒田長政の没後は出家したという。
古賀の新原には何も古文書や遺跡らしいものが残っていないのは残念である。
もと民主党の菅首相はこの一族の別れの末裔ということらしい。
斉藤甚右衛門
古賀の筵内を領有していた斉藤甚右衛門は、黒田長政の家臣として筑前国いりをした。
斉藤家はもとは武田源氏の家臣だったが、信玄が死亡したあと武田家をはなれて保科家につかえ、さらに黒田家に移ったという。
甚右衛門は関ヶ原の戦のおり、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を後藤又兵衛と共同で苦労して救い出したのが大きな功績とされている。
関ヶ原以降は長政夫人付きの家老職をつとめたようだ。
筵内④の医王寺に一族の墓があり、幕末まで黒田に仕えていたようだ。
しかし薦野氏や米多比氏のように戦国時代から地元にいた武士ではないので、知名度が低いのはしかたがないだろう。
2013年8月1日木曜日
■【岩屋城の玉砕】高橋紹運(改訂版)
天正十四年(1586)7月27日、筑前岩屋城に籠もる高橋紹運が、島津軍の猛攻の前に再三善戦した後に自刃、城兵も全員玉砕して落城。紹運享年39歳。
紹運は入道名で、本命は高橋鎮種(しげたね)。
天文十七年、豊後大友氏の一族で豊州三老(大友三家老)の一人・吉弘左近大夫鑑理の二男として豊後国東郡筧(かけい)城(吉弘館=大分県豊後高田市)に生まれました。
幼名は弥七郎、初め吉弘鎮理(しげまさ)と名乗り、のち高橋氏を嗣いで高橋主膳兵衛鎮種と改名します(以下紹運で統一)。
紹運は寡黙沈着で勇気があり、口数は少ないが言うべき時には自分の意見をはっきり相手に伝えて納得させたと伝えられ、大友宗麟からも厚く信頼されていました。
永禄十年(1567)、大友氏の臣・高橋鑑種が立花城で毛利氏と通じて離反するという事件が起きます。
宗麟の乱脈に反抗した反乱ですが、後に鑑種は誅殺されます。
このとき紹運は宗麟の命で高橋氏の跡を嗣ぎ、立花道雪とともに大友氏を支えました。
大友氏は天正六年(1578)十一月の耳川の戦いで島津氏に大敗して以来凋落の一途をたどりますが、道雪や紹運の踏ん張りで何とか持ちこたえます。
しかし同十二年三月、肥前島原沖田畷に龍造寺隆信を滅ぼして一気に勢力を強めた島津氏は、次の矛先を豊後・筑前に向けられました。
そして当時筑前岩屋城(福岡県太宰府市)を守っていたのが紹運だったのです。
島津氏は島津忠長・伊集院忠棟らの五万の大軍で筑前に向かって押し寄せ、各地で勝利してました。
対する紹運は千にも満たない寡兵で島津勢を迎えます。家臣たちは口々に援軍を求めるよう進言しますが、紹運は頑として受け付けませんでした。なぜなら敵は薩摩の強兵五万、少々の援軍など意味のないことが紹運にはよくわかっていたのです。
玉砕を覚悟した紹運は、開城を勧告する島津の軍使に対してもかたくなに拒絶しました。そして戦国期に存在した数ある壮絶な戦いのうち、その筆頭と言える戦いが始まりまりました。
五十倍以上の敵に一歩も引けを取らず、紹運は半月以上も持ちこたえました。ある時は果敢に城を打って出、ある時は石や火矢や鉄砲玉を敵に浴びせ、それこそ死にもの狂いの防戦が繰り広げられました。
しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ、とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運もこの日に切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。
さすがに島津の強兵たちも紹運の凄まじい働きには言葉を失い、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したと伝えられます。
紹運享年三十九歳。あまりにも早い終焉でした。斜陽の大友家にあって、最後まで義に生きた名将・高橋紹運の名は、四百年以上を経た現在においても色あせることなく語り継がれています。
幼名は弥七郎、初め吉弘鎮理(しげまさ)と名乗り、のち高橋氏を嗣いで高橋主膳兵衛鎮種と改名します(以下紹運で統一)。
紹運は寡黙沈着で勇気があり、口数は少ないが言うべき時には自分の意見をはっきり相手に伝えて納得させたと伝えられ、大友宗麟からも厚く信頼されていました。
九州関連地図 |
宗麟の乱脈に反抗した反乱ですが、後に鑑種は誅殺されます。
このとき紹運は宗麟の命で高橋氏の跡を嗣ぎ、立花道雪とともに大友氏を支えました。
大友氏は天正六年(1578)十一月の耳川の戦いで島津氏に大敗して以来凋落の一途をたどりますが、道雪や紹運の踏ん張りで何とか持ちこたえます。
しかし同十二年三月、肥前島原沖田畷に龍造寺隆信を滅ぼして一気に勢力を強めた島津氏は、次の矛先を豊後・筑前に向けられました。
そして当時筑前岩屋城(福岡県太宰府市)を守っていたのが紹運だったのです。
島津氏は島津忠長・伊集院忠棟らの五万の大軍で筑前に向かって押し寄せ、各地で勝利してました。
対する紹運は千にも満たない寡兵で島津勢を迎えます。家臣たちは口々に援軍を求めるよう進言しますが、紹運は頑として受け付けませんでした。なぜなら敵は薩摩の強兵五万、少々の援軍など意味のないことが紹運にはよくわかっていたのです。
玉砕を覚悟した紹運は、開城を勧告する島津の軍使に対してもかたくなに拒絶しました。そして戦国期に存在した数ある壮絶な戦いのうち、その筆頭と言える戦いが始まりまりました。
岩屋城地図 |
しかし所詮は多勢に無勢の悲しさ、とうとう城兵は一人残らず玉砕し、紹運もこの日に切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。
さすがに島津の強兵たちも紹運の凄まじい働きには言葉を失い、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したと伝えられます。
墓場入り口 |
紹運の墓 |
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