私の両親は明治27年と32年に箱崎八幡宮の近くで生まれた。
母方は宮大工の棟梁で、八幡宮の仕事もてがけていたようだ。
境内入り口の左手に「大社箱崎宮」の石碑(大正3年3月
何故大正3年なのか疑問であったが、最近その理由がわかった。箱崎宮は明治初期は県社の格であったが、明治18年4月に官幣中社となり、大正3年1月に官幣大社に格上げされた。その祝賀のため地元有志で大社の石碑を建てたのだ。
さらに最後部に祖々母方の「西田清吉」の名前もある。
私が生まれた頃には死亡しているので、全く記憶のないご祖先様だ。
氏子の代表的名前のなかに加わっているので、当時はご先祖さまも景気がよかったのだろう。
大正3年当時の写真も残っている。
私が生まれた頃には死亡しているので、全く記憶のないご祖先様だ。
氏子の代表的名前のなかに加わっているので、当時はご先祖さまも景気がよかったのだろう。
大正3年当時の写真も残っている。
またこの大きな石材は、糸島の可也山の糸島花崗閃緑岩で、野北石という名前である。
野北海水浴場や漁港は知っていたが、 その北側に彦山があり昔は石材の産地だったようだ。今は採掘禁止になっていて、認可された開発工事のときにでてくる石材だけになっているという。
南側入り口の石碑では、官幣が削られたままになっている。
境内の大楠 |
稚児の姿(右が私) |
この石碑の横の箱崎宮一の鳥居は、黒田長政が寄進した鳥居である。その頃の長政は、豊臣黒田筑前守長政と称していたことが、鳥居に刻まれた名前からわかる。まだ秀吉の威光が残っていた時代だったようだ。
父方の曽祖父藤野八右衛門の墓は一光寺にあり、台石の裏面には、地区での業績がこまかく書かれている。
明治維新直後は、博多湾周辺の漁業者の統制が乱れて、漁区争いが続いた。明治新政府も手がまわらずにいたので、箱崎浦の古老だった曽祖父が飛び回って調整にあたり、問題解決にいたった経緯がきざまれている。
明治維新直後は、博多湾周辺の漁業者の統制が乱れて、漁区争いが続いた。明治新政府も手がまわらずにいたので、箱崎浦の古老だった曽祖父が飛び回って調整にあたり、問題解決にいたった経緯がきざまれている。
その内容は最後の写真に示している。
筑前触の絆は、深かったようだ。
石碑には、筑豊漁協、箱崎浦、姪浜浦、伊崎浦、玄海嶋、西浦、志賀島、浜崎浦、野北、唐泊浦,今津浦、弘浦、残島浦、小呂島浦、洲崎などの発起人や世話人の名前や各漁協の寄付金額などが刻まれている。
石工名には広田弘毅の弟の広田徳右エ門の名前がきざまれている。
広田弘毅の父広田徳平は、箱崎の農家の生まれで藤野姓であり、一光寺の檀家でもあった。徳平は広田石工店の丁稚として働き、その働きぶりを認められて広田家の養子となったそうだ。一光寺には広田による石碑が他にも多いようだ。