樋口一葉の小説に「雪の日」という作品がある。
まもなく20歳になる樋口一葉は、小説を書き始めたばかりだった。知人が半井桃水の妹の知り合いという縁で、東京朝日新聞の小説記者・半井桃水に小説の指導を受けていた。知り合って10カ月、一葉は、美男で31歳、男盛りの桃水に強くひかれていた。
雪は降り続く。ふたりは新しく出す同人誌について語り合う。桃水はお汁粉を作ると言い、隣家に鍋を借りに行く。おかみさんが「お楽しみですね」と冷やかすのが聞こえた。夕暮れになった。桃水は、雪だから泊まっていけ、自分は近くの知人宅に行くから、と言う。一葉は、とんでもない、と断り、呼んでもらった人力車で帰途につく。
雪に 沈む町を見ながら、さまざまの感情が胸にせまるようなシーンで、一葉の成人の日であったろう。
この日記が公開されたのは、一葉死後16年の1912(明治45)年だった。世間は桃水へのせつせつたる一葉の恋心に衝撃を受ける。
一葉女史が恋した男、半井桃水は対馬・厳原で生まれた。藩主・宗(そう)家の御典医の家の長男で、幼名泉太郎のちに冽(きよし、れつ)と名乗った。泉太郎という名は一葉の亡兄と同じで、一葉はその偶然も好ましく感じたという。少年時代に韓国・釜山に渡り、その後上京して学び、東京朝日新聞に入社、小説記者として活躍する。その間、釜山に駐在したこともあり、海外特派員第1号でもあった。
対馬の厳原には半井桃水の生家といわれた古い家が残っていたが、町並み復元のため取り壊され、跡地に「半井桃水ふれあい館」という施設が建設された。入り口の説明板には、「一葉の思募の人」と書かれており、ようやく地元でも広く認知され始めたところだ。