2012年1月24日火曜日

九州平家伝説@那珂町

最初に安徳天皇一行が九州大宰府に逃れてきたときに落ち着いたのは、那珂町周辺であったという。
地名として安徳台という場所がのこっており、安徳小学校、北と南の安徳小学校があり、安徳公園もある。
江戸時代の筑前名所図会にも周辺の風景図と御座所の図が掲載されている。

安徳天皇古跡


安徳天皇御所

滞在の期間は正確にはわからないが、短期間であった。周辺の豪族の援助がえられなくて、やがて屋島のほうに引き返したという説と、英彦山に逃れた後、対馬で生涯をすごされたという説がある。
その往来の時期に通過した各地に伝説があり、遠賀川河口の芦屋の地にも、安徳天皇御座所の石碑が建てられており、小倉の徳力団地の隠れ蓑という地名もあり、久留米の水天宮にも伝説が残されている。

江戸時代に奥村玉蘭が書いた筑前名所図会には、このほかに沢山の作品があり、古賀の郷土歴史会で発表した。



2012年1月16日月曜日

九州平家伝説@みやま市

一般に源平合戦は壇ノ浦の戦いで終了したと思われている。
壇ノ浦でも生き延びて南下した600の平家武士を、3000の源氏武士が追いつめて全滅させたのが、みやま市の要川の戦である。
さらに6騎の兵士が柳川の海岸に落ち延びて漁師となったので、北原白秋の生家の沖の端地区は六騎とよばれていた。柳川鰻料亭の「六騎」はこの地名から名づけられたそうだ。
柳川屋 六騎/やながわや ろっきゅ : この店でわが家の近くにあった香椎花園前のうなぎの店は最近閉店になったのは残念だ。
みやま市では2月に要川公園を中心に各種の記念行事が行われるそうだ。

2012年1月2日月曜日

対馬の人物(3) 白石一郎

海洋歴史小説家の白石一郎氏は対馬出身である。
戦後すぐ早稲田大学に進学したときは、学友から対馬から日本にくるのにはパスポートが必要だろうと言われたという。沖縄の一部と勘違いされたらしい。
福岡市でながらく作家活動をされていたので、息子さんは私の息子と高校で同級であった。
一郎氏は直木賞作家となり、有名になって講演会やテレビ出演が続いていたから、ご存知のかたも多いと思う。
その息子さんも若くして直木賞をとったので、親子直木賞ははじめてということで有名になったが、その後すぐ病没されたのは残念だった。

対馬の人物(2) 永留久恵

去年の10月に、対馬の郷土史家「永留久恵」氏の安曇族に関する講演を聴いた。90歳の高齢ながら、海神の祭祀と海民の文化について、整然とした講演をされた。
経歴は対馬で小中学校の教員を退職されたあと、対馬の郷土史研究の中心人物となったかたと紹介されていた。

昨日図書館でみつけた本によると、司馬遼太郎が、「街道をゆく。壱岐・対馬の道」の取材で訪れたとき、まっさきに教えを請いにきたのは永留さんの所だったという。

永留さんは戦前の学生時代だから、長崎の師範学校にいくのに、船で福岡経由では2日半かかったが、プサン・下関経由なら船中1泊で2日でいけたという。(パスポート不要の時代)

海軍に徴兵されて、ミッドウエイ海戦では航空母艦にのっていたが、沈没したので、駆逐艦に救助されて帰国した。
呉の軍港に帰ったが、救助兵は倉庫に押し込められていたそうで、大本営発表の勝利宣伝をきかせるわけにいかなかったためと後でわかったそうだ。

対馬と済州島は、大正時代には5万人と10万人くらいの人口だったのに、現在は対馬が4万人、済州島は60万人。あちらはリゾート開発政策の成功による繁栄に対して、こちらは全島要塞時代のままが続いているという。

対馬の歴史を身をもって体験している人と、認識し直した。

対馬の人物(1) 半井桃水

樋口一葉の小説に「雪の日」という作品がある。

まもなく20歳になる樋口一葉は、小説を書き始めたばかりだった。知人が半井桃水の妹の知り合いという縁で、東京朝日新聞の小説記者・半井桃水に小説の指導を受けていた。知り合って10カ月、一葉は、美男で31歳、男盛りの桃水に強くひかれていた。

 雪は降り続く。ふたりは新しく出す同人誌について語り合う。桃水はお汁粉を作ると言い、隣家に鍋を借りに行く。おかみさんが「お楽しみですね」と冷やかすのが聞こえた。夕暮れになった。桃水は、雪だから泊まっていけ、自分は近くの知人宅に行くから、と言う。一葉は、とんでもない、と断り、呼んでもらった人力車で帰途につく。

雪に 沈む町を見ながら、さまざまの感情が胸にせまるようなシーンで、一葉の成人の日であったろう。

この日記が公開されたのは、一葉死後16年の1912(明治45)年だった。世間は桃水へのせつせつたる一葉の恋心に衝撃を受ける。

一葉女史が恋した男、半井桃水は対馬・厳原で生まれた。藩主・宗(そう)家の御典医の家の長男で、幼名泉太郎のちに冽(きよし、れつ)と名乗った。泉太郎という名は一葉の亡兄と同じで、一葉はその偶然も好ましく感じたという。少年時代に韓国・釜山に渡り、その後上京して学び、東京朝日新聞に入社、小説記者として活躍する。その間、釜山に駐在したこともあり、海外特派員第1号でもあった。

対馬の厳原には半井桃水の生家といわれた古い家が残っていたが、町並み復元のため取り壊され、跡地に「半井桃水ふれあい館」という施設が建設された。入り口の説明板には、「一葉の思募の人」と書かれており、ようやく地元でも広く認知され始めたところだ。