2016年5月31日火曜日

オノ・ヨーコの家系

ヨーコ・オノ(小野洋子)は1933年2月18日、銀行家の小野英輔と財閥安田善次郎の孫・磯子の長女として東京府(現:東京都)の裕福な家庭に生まれた。

父の英輔は、ピアニストから銀行員となり、ヨーコが生まれたときは横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取。
2歳で父が暮らすサンフランシスコへ転居したが、2年後、母と帰国し、幼少期は安田家の鎌倉の別荘で暮らした。


父方の祖父は日本興業銀行総裁の小野英二郎。
母方の曽祖父は安田銀行創設者の安田善次郎。
 
(父方)
小野英二郎は、柳川藩士の家に出生。

立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の小野家との関係は不詳。(立花城跡の近くに住む筆者としては、この関係が明白になることを希望する。)

(立花道雪の武将:四天王の一人小野鎮幸は、宗茂の失格後は加藤清正に抱えられ、慶長14年6月23日、肥後にて死去。享年64。数年後、宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々大組組頭兼家老を世襲した。)

英二郎は明治13年、同志社英学校2年に入学。新島襄から洗礼を受ける。明治17年オバーリン大学に留学する。

大学卒業後はミシガン大学大学院に進み、Ph.D.を取得。
帰国後、橘蔭学館教頭を経て、同志社に赴任。同志社政法学校の創立事務を担当。明治24年の開校後は教頭に就任する。
明治29年、日本銀行総裁川田小一郎の招きにより日銀に入行。その後日本興業銀行に移り副総裁を経て、大正13年第4代総裁に就任した。昭和2年、在職中に心臓麻痺で逝去。


栄二郎の娘・寿満子は初代国連大使加瀬俊一 の妻。
だからヨーコは外交評論家の加瀬英明氏の従妹。

(母方)
安田善次郎は富山藩下級武士の安田善悦の子としてうまれる。
安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。
1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出る。
最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めた。やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立した。
九州ラーメン研究会代表の原達郎さんが、オノ・ヨーコの本家の再興に注力されていた。コロちゃん前、柳川を訪れた海外からの観光客は、再興されたオノ・ヨーコの本家跡に大喜びするそうだ。遺ったのは門だけですけど、荒地だった場所に花壇を設けたりと、綺麗になってます。
『ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか』加瀬英明著、祥伝社新書
・ジョン・レノンから日本を再考する一冊
 タイトルのジョン・レノンという名前に惹かれて本書を手にした。ジョン・レノンは親日的だが、その根本を探ろうというのが本書の試みだ。ジョン・レノンを通じてというよりも、ジョン・レノンも惹かれた日本文化の背景を考察した内容となっている。
 そもそも、著者がジョン・レノンを引き合いにしたのは、著者とオノ・ヨーコさんが従兄弟関係にあるからだ。オノ・ヨーコさんはビートルズを解散させた魔性の女と巷間言われているが、詳細にジョン・レノンの身辺をみていくと、ビートルズは解散すべくして解散したというのがわかる。むしろ、ジョン・レノンはビートルズの求める音楽の世界よりも、オノ・ヨーコさんの精神構造を成す日本の武士道に惹かれたのではないかと想像する。ジョン・レノンは日本の神道に惹かれたと著者は論じるが、オノ・ヨーコさんの先祖は九州柳川藩士の末裔であり、ジョン・レノン自身、本名に「オノ」という家名を実名に取り込むほど武士に憧れをもっていた。
 いずれにしても、世界各地の宗教の相違、文化の差を痛いほどに知り尽くした著者であるが故に、その考えに異論は無い。著者が語るように、さほど、人間関係、洋の東西に大きな思考の開きがあるということを改めて知る一助になる。
 オノ・ヨーコさんを通じて日本を感じたジョン・レノンを考えるヒントが詰まった内容である。同時に、自然と共生してきた日本人の姿を再認識する一書でもある。

画文共鳴


主な冊子: 明星;密室;みだれ髪;ラ・ブリューム;ヴェル・サクルム
その他の印刷物: かるた;ポスター;機関誌;挿絵;装丁

主な文学者:与謝野鉄幹・与謝野晶子・萩原朔太郎

主な画家:藤島武二・竹下夢二・恩地孝四郎・田中恭吉・井上凡骨・一条成美

欧州の画家:アルフォン・ミュシャ:ピエール・ボナール:ロートレック:エミール・オルリク


  



2016年5月30日月曜日

黒船来航と小倉藩


三段菱
有名な黒船来航の図の左下手前のグループがもった白旗には、小倉藩の家紋(三段菱)が描かれる。江戸藩邸から見物に出かけたのかと思っていたが、これは1853年で、小倉藩と松代藩(真田家)が横浜警備を命じられた時の絵だという。六文銭の旗が見当たらないのは残念だ。

小倉藩 譜代

こくらはん

石高15万石

豊前国(福岡県北九州市周辺)
当時の藩主 七代
小笠原忠徴 (小笠原家)



福岡県の幕末維新を読んで、はじめて知った。


藤島武ニ



藤島武二:
薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩藩士の家に生まれた。
はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。
1896年明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。

1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。
ただし、パリからローマに移った直後の事故で、フランス時代の作品の大半を失っている。帰国後、教授に就任する。

黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。


1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。


晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年昭和9年)12月3日帝室技芸員[2]1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。

田中恭吉


田中恭吉:
明治25年(1892年)、和歌山市に生まれた。
明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。
恩地の父も和歌山出身なので、友情が深まった。
平山郁夫画伯の美知子夫人の父親松山常次郎代議士も、和歌山県九度山のうまれで、恭吉より8歳年上である。
和歌山は美術家の誕生に適した環境だったらしい。
翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。
藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や
自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。

その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。

しかし大正2年頃に肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
焦心
この作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。

負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
 



恩地孝四郎



1891年東京生まれ。竹久夢二に感化を受ける。

東京美術学校で洋画・彫刻を学ぶが中退。
藤森静雄・田中恭吉と[月映]を刊行。

萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の装幀と挿画を担当。


28年『北原白秋全集』の装幀で装本家の地位を確立。
抽象画の先駆者、また日本の版画界のリーダーとして大きな足跡を残した。
『飛行官能』『海の童話』『博物誌』『虫・魚・介』など優れた自作装画本を刊行した。
1955年永逝(享年63)。



2016年5月29日日曜日

絹の道(シルクロード) 福岡 有田遺跡

 古代絹研究の第一人者の布目順郎氏(京都工芸繊維大学:故人)の調査成果「絹の東伝」(1988)によると、古代絹(弥生時代)の日本国内14カ所の出土事例のすべてが北部九州であり、古墳時代になってようやく本土の古墳にも絹が埋納された。
中国の揚子江下流の江南地域の絹と吉野ケ里遺跡の絹とDNAが一致した。
中国産の絹は、須玖岡本遺跡のみであった。



三井銀行OBの古代史研究家萱島伊都男(ペンネーム)によると、早良区の有田遺跡の絹が最古のものだという。


わたしの手持ちの郷土誌(下図)には、有田遺跡の銅鏡や銅戈は書いてあるが、絹の話は何も書かれていない。





 地元の世話役の坂口さんも、「最初、日本最古の絹がでた・・・といわれてもピンとこなかった。」そうだ。


有田遺跡の評価が大きく変わりそうだ。
今までシルクロードの到着点は正倉院といわれていたが、実は筑紫であった。
一度吉武・高木遺跡はでかけたが、有田遺跡にもいってみたい。



2016年5月28日土曜日

地球の歴史 46億年 と プレートなど


地球史を読み解く (東京工業大学特命教授) 丸山 茂徳


1)地球の起源と形成プロセス

地球の形成過程を学ぶ。
まず古典的惑星形成論を紹介する。

テクノロジーの発展に伴って、次々と発見された系外惑星により、古典的惑星形成論は崩壊したが、地球の起源とその形成プロセスは隕石学などの研究によって大きく進展した。

特に大気・海洋・生命を作る成分の起源に注目して解説する。

【キーワード】

惑星形成、大気と海洋の起源、二段階形成モデル




2)冥王代の地球と表層環境進化

冥王代地球については、直接的証拠となる物質が、ジルコンという鉱物粒子以外には、現在の地球上に残されていない。
ジルコン粒子に記録された情報、地球形成モデルや、冥王代物質が保存されている月の地質と隕石学を参考にして、冥王代の表層環境を推論する過程を学ぶ。

【キーワード】

冥王代、ジルコン、多様な表層環境、月の地質、初期大気


3)生命の誕生

生命誕生に関するこれまでの研究とその問題点を解説する。
冥王代の表層環境から出発して、どのような場で、どのような機構で生命が誕生したのか、現在の科学者の思考を追ってゆく。生命誕生のための「ハビタブルトリニティ」条件を提示する。

【キーワード】

生命の起源、ハビタブルトリニティ、前駆的化学進化、間欠泉モデル


4)太古代:地球生命孤児化と本格的生命進化の始まり

地球生命を育んだ原初大陸は40億年前までに地表から消失した。

プレート沈み込みによる構造侵食と断片化した原初大陸の直接的な沈み込みが原因であり、ほとんど海洋に覆われた単調な環境が太古代に出現した。

一方で、この時代には光合成生物が誕生し、その結果、生命が表層環境を支配し、文明を持つ惑星への道を歩むこととなった。


また、太古代末期のマントルオーバーターンによる固体地球の大変動をシステム変動の視点から解説する。


【キーワード】

太古代、構造侵食、光合成生物、マントルオーバーターン





5)原生代:極端な時代、全球凍結と生物大進化

原生代になると地球は2回の全球凍結に見舞われる。
また、大陸地殻がよく発達し、超大陸が形成されるようになった時代でもある。
これらの要因が地球と生命に与える影響を説明し、システム変動という観点から、原生代を読み解く。


【キーワード】

全球凍結、超大陸の形成、真核生物の出現、HiRマグマ、スターバースト


6)カンブリア紀の生物の爆発的進化

現代型生物の祖先はカンブリア紀に出現した。
これをカンブリア紀の生物の爆発的進化と呼ぶ。
これに関係する環境変動、およびその変動の原因となるシステム変動について解説する。

【キーワード】

海水の逆流、堆積岩の形成、巨大大陸の出現、生命の爆発的進化



7)古生代:多様な表層環境の再出現と生物進化

古生代は顕生代の生命進化のコアをなす時代である。
後生動物誕生から脊椎動物を誕生させた時代がカンブリア紀である。
最初期の記録は、小さな貝殻状の化石(SSFs)で、脊椎動物ほか、動物の門35の全てがカンブリア紀の前期(540-520Ma)に出現した。
こうして生まれたカンブリア紀型の動物群は古生代に大繁栄したが古生代末期に絶滅した。
この様な歴史を、大陸古地理や宇宙変動と関連させて説明する。


【キーワード】

大陸古地理図、大陸の離合集散、塩分濃度、大量絶滅、宇宙の変動

プレートが近づくとき:地上では衝突し、山脈となる。 海底では、海溝となる。

プレートが離れるとき:地上では地溝となる。 海底では海嶺となる。

プレートがすれ違うとき:断層となる。

大陸プレートは軽い。海底プレートは重い。
これが近づくときは、大陸プレートの下に、海底プレートが沈みこむ。

これらの変化が進んでいる場所を、構造浸食地域と呼び、地震の多発地区である。


8)中・新生代:生物進化と絶滅

古生代末の大量絶滅によって、古生代型生物は姿を消し、代わって出現した中生代型生物(恐竜、哺乳類)の繁栄、その後の新生代の哺乳類の台頭が起きた。
これらの進化と絶滅を生んだシステム変動(大陸移動、宇宙変動)と進化のパターンについて解説する。

【キーワード】

大陸古地理図、大陸リフト、茎進化、冠進化、大量絶滅

9)人類代:文明の構築と未来

第4の生命ともいわれる人類をあつかう。
その特異な脳の進化から、人類は科学を生み出し宇宙に進出する技術を生み出した。
人類は宇宙の起源、生命の起源と進化、脳の起源を明らかにし、自己複製可能なロボットを創るだろう。このような人類の未来についても考察する。

【キーワード】

第四の生物、局所絶滅、HiRマグマ、人工生態系、連合国家


附-1)付加体地質学の体系化と地球史

地球史研究を行う上で最も重要な技術を提供する付加体地質学について学ぶ。地層記録の意味を正しく読みとり解読するための背景となる体系が、日本を中心に発達した付加体地質学である。この方法によって、地球の熱史、過去のプレート運動、マントルの組成や温度圧力条件、そして過去の宇宙変動の記録をも付加体の地質情報から読み取ることが可能になる。

【キーワード】

付加体、付加体地質学、海洋プレート層序、プレートテクトニクス、地球史研究法



附-2)付加体地質学の体系化と地球史

地球史研究を行う上で最も重要な技術を提供する付加体地質学について学ぶ。地層記録の意味を正しく読みとり解読するための背景となる体系が、日本を中心に発達した付加体地質学である。この方法によって、地球の熱史、過去のプレート運動、マントルの組成や温度圧力条件、そして過去の宇宙変動の記録をも付加体の地質情報から読み取ることが可能になる。

【キーワード】

付加体、付加体地質学、海洋プレート層序、プレートテクトニクス、地球史研究法


附ー3)地球史研究の方法

前回に続き、地球史研究を可能とする方法論を学ぶ。今回は、過去のプレートテクトニクスを復元する方法を紹介し、造山帯の地質調査により得られる情報と地球史解読をつなぐ論理体系を示す。また、実際の地球史研究で用いられる二つの戦略、「横軸46億年研究」と「特異点研究」を紹介する。

【キーワード】

地球史研究法、プレートテクトニクス、付加体、横軸46億年研究、特異点研究

附ー4)システムとシステム応答

-細胞から銀河まで-

この章では、「システム」と「システム応答」の原理を考え、地球生命史が、システム変動の歴史であることを学ぶ。身近な例を挙げて、システムの原理を理解し、細胞、固体地球変動システム、宇宙変動、環境問題などを解説する。

【キーワード】

システム、内力、外力、システム応答


参考資料:
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H28/daigakuin/B/shizen/8960615.html#syllabus
放送大学 修士課程


http://www.geocities.jp/msakurakoji/900Note/104.htm