2024年5月30日木曜日

摂政・関白をめぐる暗闘:藤原道長の覇権


 






網野善彦の「日本社会の歴史」の中に、藤原兼家・道長らの「摂政・関白をめぐる暗闘」が詳しく記載されている。

「安和の変」:冷泉天皇の後継者争いで、藤原氏と源氏の暗闘。
   村上天皇の子息の中で、源孝明の婿、為平親王がしりぞけられて左遷、守平親王が皇太子に立ち、さらに左大臣孝明は謀反の嫌疑をかけられて左遷され、失脚した。
 この事件は、藤原師輔、藤原師尹の陰謀により、行われた。


冷泉帝の即位

967年康保4年)5月25日、村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)・憲平親王(冷泉天皇)が即位する。関白太政大臣藤原実頼、左大臣に源高明右大臣には藤原師尹が就任した。

冷泉天皇にはまだ皇子がなく、また病弱でもあったため早急に東宮を定めることになった。

候補は村上天皇と皇后安子の間の皇子で、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王守平親王だった。

年長の為平親王が東宮となることが当然の成り行きとして期待されていたが、実際に東宮になったのは守平親王だった。その背景には左大臣源高明の権力伸張を恐れた藤原氏があった。

高明は為平親王の妃の父なので、もし為平親王が東宮となり将来皇位に即くことになれば源高明は外戚となるのである。高明といえば、かつては村上天皇の信任篤く、また皇后安子の妹を妻として右大臣藤原師輔を岳父にもつ姻戚関係もあったが、この時点では両人とも既に亡く、高明は宮中で孤立しつつあった。

謀反の密告

969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵藤原善時中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明であるが、後代に成立した『源平盛衰記』には、高明が為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝に即けようとしていたと記されている。

右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模藤原千晴藤原秀郷の子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。

源高明の左遷

事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥に左遷することが決定した。高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まれるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。

密告の功績により、源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また左大臣には藤原師尹が替わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。

その後

971年(天禄2年)高明は罪を許され帰京するが、政界には復帰せず京郊外の葛野に隠遁した。醍醐源氏は政治の主導権を失うものの、高明の末娘明子東三条院詮子一条天皇国母、藤原道長実姉)の庇護を受けのちに藤原道長と結婚し、その縁で高明の子の俊賢経房兄弟は中央政界で順調に昇進し、それぞれ権大納言、権中納言まで栄達した。

円融天皇

守平親王の兄である冷泉天皇が即位すると、立太子をめぐり藤原氏と左大臣源高明が対立したが、康保4年(967年9月1日、藤原氏の主張が通って9歳の守平親王が皇嗣となった。対立はさらに安和の変(安和2年、969年3月)の勃発をもたらし、源高明が失脚した。

高明の娘を妃にしていた為平親王の存在は宙に浮き、5か月後の9月23日に冷泉が譲位、守平は円融天皇として即位する。

即位後すぐに親密だった同母姉の資子内親王を一品准三宮とした。

いまだ数え11だったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼摂政に就任。

天禄元年(970年)に実頼が死去すると、天皇の外舅藤原伊尹(これまさ)が摂政を引き継ぐ。

同3年(972年)1月3日に元服を迎えるが、その直後に伊尹が在職1年あまりで死去すると、その弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って熾烈な争いが起きた。

天皇は亡母安子の遺訓に従って兼通を関白に任じた。翌4年(973年)、兼通は娘媓子を入内させ中宮とする。

当初、円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの「一代主」、すなわち中継ぎの天皇とみなされており、外舅である伊尹も兼家も娘を天皇に入内させる考えはなかった。

その中で安子所生の皇子女の面倒を見続けた兼通が天皇の唯一の後見として浮上し、安子の遺言で、円融天皇・関白兼通主導で新たな皇統形成が図られた

2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通は弟の兼家との対立から、外戚関係のない藤原頼忠を後任とした。

当時兼家は自身の兄である冷泉上皇には長女・超子を入内させていたのに対して、円融には娘を入内させておらず、そのため円融天皇も兼家に含むところがあり、むしろ自身に娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。

しかし、その後兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。

前年天元2年(979年)の中宮媓子が死に、中宮が空席となったが、円融はすぐには代わりの皇后を冊立しようとせず、天元5年(982年)になって入内していた頼忠の娘の遵子を冊立した。

ただし遵子はこれ以前にも以後にも皇子女を産むことはなく「素腹の后」とあだ名された。

こうした一連の動きに立腹した兼家は、娘の詮子と外孫の懐仁親王を自邸に連れ帰り、出仕をやめた。

一方の円融天皇も2度にわたる内裏の焼失の際にも兼家への依存を拒み、関白頼忠邸や譲位後も仙洞御所として使用した故兼通邸の堀河殿里内裏として使用した。両者の意地の張り合いは収まらなかった。

やがて天皇は兼家に譲歩し、永観2年(984年)、息子の懐仁親王の立太子と引き換えに、冷泉天皇の皇子・師貞親王に譲位し、花山天皇となり、自らは太上天皇となる。

寛和の変(かんなのへん):

寛和2年6月23日986年7月31日)に発生した花山天皇退位出家及びそれに伴う政変のこと。

関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは花山天皇の外叔父藤原義懐と乳母子藤原惟成であった。二人は革新的な政治を行ったが、革新的な政策は関白である頼忠らとの確執を招き、さらに皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。

そのため、宮中は義懐派・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。

ここに天皇の女性問題が加わる。藤原為光の娘・藤原忯子に劇的に心動かされた天皇は、忯子を女御にすることを望んだ。義懐の正室は忯子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も忯子の入内を決める。深い寵愛を受けた忯子は懐妊するが、寛和元年(985年7月18日、17歳で死去した。

これにショックを受けた天皇は、僧・厳久の説教を聞いているうちに「出家して忯子の供養をしたい」と言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白頼忠も加わって天皇に翻意を促した。

寛和2年(986年6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。

蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとした。

このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前に、かつて妻から貰った手紙が自室に残ったままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を急いで極秘に行いたかった道兼が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。

一行が陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝わる。天皇一行が寺へ向かったのを見届けた兼家は、子の藤原道隆藤原道綱らに命じ三種の神器を皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖した。

月岡芳年「花山寺の月」(明治23年)

元慶寺へ着き、天皇が落飾したのを見届けたのち、道兼は親の兼家に事情を説明してくるという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇は欺かれたことを知った。

内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこで政治的な敗北を知り、共々に出家した。この事件は寛和の変とも称されている。出家にともない懐仁親王(一条天皇)へ譲位し、太上天皇となる。

寛和2年(986年)6月23日、寛和の変により花山天皇は懐仁親王に譲位し、数え7歳の一条天皇が立った。

このとき兼家は、正式の官位の右大臣を辞職し、摂政となった。摂政は政令の官職を超える最高の職であることを明確にし、人事権を駆使して、子息たちの官位を引き上げていった。

藤原道長の覇権:摂政家の確立

藤原家の長者となった兼家流が、摂政・関白の地位につく家格として定着していった。



兼家が死亡したあと、その子供たちの間での競合が續き、父のあと、摂政・関白になった道隆・道兼が、都で流行した疫病で相次いで世をさると、道兼の弟道長と、道隆の子伊周の間で、はげしい対立が起こった。

長徳の変として有名である。

西方浄土筑紫嶋: 【藤原伊周】長徳の変 (ereki-westjapannavi.blogspot.com)

この対立は、翌年決着がつき、一条天皇の母で自らの姉の詮子の指示で内覧となり、太政官の筆頭、一上(位置の上郷)として、事実上の関白となった道長は、自らの立場をしっかりと固め、

もはや宮廷のなかでは揺らぐことがなかった。真の意味での「摂政時代」は、ここからはじまった。

道長は、その娘彰子を、当時の皇后、

伊周の妹定子とならんで、一条天皇の中宮に入れ、一人の天皇に二人の后という新例を強引に開いた。

さらに一条天皇のあとを受けて位についた冷泉天皇の子三条天皇は、道長の甥であったが、道長との間に円滑を欠き、結局道長は三条天皇を無理やり退位させて、その外孫で彰子の子、後一条天皇の即位を実現した。
ついで道長は、三条の子皇太子敦明親王を辞退させ、同じく彰子の子で道長の外孫敦長親王(のちの後朱雀天皇)を皇太子に立て、さらに娘の威子を後一条の中宮とすることに成功する。
「この世をば 我が世ぞと思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」という和歌を詠んだのもこの頃で、道長はまさに得意の絶頂であった。
道長はわずか1年ほどで、摂政も太政大臣も辞職し、彼のあとを受けて摂政となった子息頼道の背後にあって、「大殿」として実質的に国政を指導し続けることのなる。
このように公的な地位と、実質上の権力者「大殿」とを分離したことは、摂政家という「家」を成立して、実質の権力を世襲するという形態を形成したことを物語っている。

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2024年5月26日日曜日

【藤原伊周】長徳の変

 

藤原 伊周ふじわらの これちか)は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白内大臣藤原道隆の子。




長徳の変によって解官・左遷されたのち後、第一皇子敦康親王の伯父であることを理由に本位に戻された。寛弘年間に勅命を被って准大臣(朝議に参加する時の席次は大臣の下、大納言の上)の初例を作り、「三公に准ず」という意味を込めて古代中国の官職名「儀同三司」を自称した。

経歴

誕生と急速な出世[編集]

天延2年(974年)藤原北家九条流大納言兼家の嫡男であった兵衛佐道隆と、内裏内侍であった貴子の間に生まれる。異母兄に「大千代君」の幼名を持つ道頼がいたため、小千代君と名づけられた。

学才の高さで知られた外祖父の高階成忠高階氏一族の教育によるものと想定されるが、小千代君やその兄弟姉妹には当時の貴族に相応しい教養が身についており、特に小千代君は文筆の才能に優れていた。

花山天皇治下の寛和元年(985年)12歳で元服従五位下叙爵。改名した伊周は兼家の長兄伊尹(これただ/これまさ)と一字が共通し、古代中国の名臣伊尹(いいん)と周公に因む名と見られる。

翌寛和2年(986年一条天皇即位式の日に昇殿を許され、ついで侍従左兵衛佐に任ぜられると、翌永延元年(987年正五位下左近衛少将、永延2年(988年従四位下、永延3年(989年)従四位上と武官を務めながら昇進する。

正暦元年(990年)5月に祖父兼家の跡を継いで父道隆が摂政に就任し、同年10月中宮に同母妹定子が立つ。

同年中に右近衛中将・蔵人頭を経て、正暦2年(991年)正月に蔵人頭在任4ヶ月で参議に任ぜられて公卿に列すと、同年7月に従三位、9月には異母兄道頼とともに先任参議7名を超えて権中納言に昇進、さらに翌正暦3年(992年)には舅の源重光の譲りを受けて正三位権大納言に進み、道頼に先んじた。

父・道隆の強引な引き立て

その翌年の正暦5年(994年)7月に左大臣源雅信が没すると、8月に伊周は8歳年上の道長ら3人の先任者を飛び越えて弱冠21歳で内大臣に昇進した。

伊周の後任の権大納言は3歳上の異母兄道頼であった。

このような強引な伊周への官位引き上げは、一条天皇の生母東三条院詮子(道隆の妹)を始めとして朝野上下の不満を募らせる。それは当時は表面化しなかったが、やがて道隆死後、人々の伊周への反発を招き、道長の政権奪取の素地を提供することになった

長徳元年(995年)2月初め、道隆は飲水病(糖尿病)が悪化して重態に陥るや、後任の関白に伊周を強く推し、3月8日に一条天皇はまず関白道隆が内覧を行い、次いで内大臣伊周に内覧させるように命じた。

これに対して伊周は、自分は関白から内覧の業務を内大臣に委ねる旨を伝えられており、宣旨の内容がこれに反すると抗議した。これにより、翌日に改めて伊周をして文書内覧の宣旨を蒙らしめることに成功した。しかし、この時下された宣命で内覧について「関白病間」の語句があったのを、元は「関白病替」を望んでいた伊周は甚だ不満であったという。

これを見た左少弁高階信順(伊周の母方の叔父)は、宣旨を作成した大外記中原致時に訂正を迫り、拒絶されている。これは一条天皇の不興をも買った。

また伊周は内覧として倹約令を出し衣服の裾の長さなど細部に至るまで厳しく制限を加えたため、公卿から批判の声が高く上がり、人々はその器量を疑ったと『栄花物語』は言う。同4月5日に伊周は関白と同等の待遇を意味する随身兵仗を賜るも、同10日に最大の後ろ盾である父を失う。

道長との政争

17日間にわたる関白の不在を経て、4月27日に道隆のすぐ下の同母弟である道兼が関白・氏長者に就いた。倉本一宏は、当時の族長権継承は天皇家も各氏族も兄弟継承が基本であり、さらに道兼が一条天皇の伯父・詮子の兄だったのに対し伊周は天皇の従兄弟・詮子の甥に過ぎずミウチの範囲に含まれなかったと述べる。

既に疫病に冒されていた道兼は拝賀のわずか7日後に死没し、後継の関白を巡る政争が伊周と道長の間に繰り広げられた。

結局5月11日になって道長に文書内覧の宣旨が下り、翌月19日には道長が伊周を越えて右大臣に昇任、氏長者並びに天下執行の宣旨を獲得した。

大鏡』には、伊周が一条天皇の寵愛深い妹の中宮藤原定子を介し、御意を得ているのをかねてから快からず思っていた天皇の母の詮子が、夜の御殿に押し入り、渋る天皇を泣いて説得したと述べられている。

道長が伊周より人柄も資質もはるかに優れていたこと、中関白家の権力への執着に対し、東三条院詮子の聡明な判断であると『大鏡』は藤原氏列伝で評した。

7月24日に伊周と道長は陣座で氏長者の所領帳の所有をめぐって激しく口論、罵声が外まで聞こえて一座は恐れをなしたという。

3日後には伊周の同母弟・隆家の従者が道長の従者と都の大路で乱闘し、8月2日には道長の随身秦久忠が隆家方に殺害される事態に発展。

同じころ、道隆の舅であった従二位高階成忠が道長を呪詛している噂も流れた。

長徳の変

長徳2年(996年)に発生した長徳の変は、正月16日、故太政大臣藤原為光四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女が目当てと誤解した伊周が、隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するといわれている。





当時は貴族の間で暴力事件は決して珍しいことではなかったが、譲位したとは言え上皇に向けて矢を射掛けたという事件は政治問題化した。

道長は正月25日の県召除目で伊周の円座を撤する(出席をさせない)ことを命じ、一件が世上の噂に上るのを待って上意を動かした。

2月5日には一条天皇が検非違使別当だった実資に伊周邸、紀伊前司菅原董宣(伊周の家司)宅、及び右兵衛尉致光(伊周の郎等)宅の捜索を許可した。五位以上の者の邸宅でも勅許を待たずに捜索を先行させるようにとの勅命だった。

伊周は私兵を多く蓄えているとの噂があり、また実際に董宣宅から兵士八人・弓矢二具が見つかり、致光宅からは七、八人の兵士が逃げ去ったという。

2月11日には陣定の最中に、天皇から頭中将藤原斉信に対して内大臣伊周と中納言隆家の罪名勘申の旨を有司に伝達するように命令が出され、道長に伝えられた。

以後この事件の捜査は天皇の意向が優先され、道長らの決定が後追いするという展開で進む。

同4月1日に法琳寺の僧によって、国家にしか許されない大元帥法を伊周が私に修したことも奏上される。

4月24日に至り、花山法皇を射た不敬、東三条院呪詛、大元帥法を私に行うこと三ヶ条の罪状により、除目で内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に降格する宣旨が下され、彼らの異母兄弟や外戚高階家、さらに中宮乳母子源方理らも左遷されたり殿上籍を削られたりと、ことごとく勅勘を蒙った。

懐妊中の中宮定子は前月初めから里第二条北宮に退出しており、左衛門権佐惟宗允亮は御在所の西の対に在る伊周に配流の宣命を伝えたが、伊周は重病と称して出立を拒んだ。数日間膠着状態が続いたが、5月1日早朝になって朝廷は宣旨を降し中宮御所の捜索を許可。

検非違使率いる武士が戸を壊し御所に乱入した。この時捕えられたのは隆家だけで邸内に伊周の姿はなかったが、伊周は3日後僧形で帰ってきた。春日大社や木幡にある父道隆の墓に参詣していたのだという。

伊周は数日後に配所に向けて出発している。5月15日伊周を播磨国に、隆家を但馬国に留める勅が発せられている。伊周の母貴子は出立の車に取り付いて同行を嘆願したが許されず、やがて病の床に就く。

10月初めに伊周は病む母を思って密かに入京し中宮定子の御所に匿われたが、中宮大夫 平生昌平孝義らの密告により10月11日に捕えられ、改めて大宰府へ護送されて同年暮れに到着した。藤原実資は伊周のこれまでの行いの報いであると評している。

同年12月に定子は失意と悲嘆の中で、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産する。

一方、折柄の東三条院の病気の平癒を願って朝廷は翌長徳3年(997年)4月5日大赦を発し、これをうけて大宰権帥伊周と出雲権守隆家兄弟の罪科を赦し、太政官符を以てこれを召還することに決した。こうして伊周はこの年の12月に帰洛した。

その後、長保元年(999年)11月7日に定子は第一皇子の敦康親王を出産。同日に入内6日目の道長の長女彰子女御の宣旨が下った。

道長は蔵人頭藤原行成をして東三条院と一条天皇に働きかけ、翌長保2年(1000年)2月25日に彰子を立后させて中宮とし、定子は皇后に移って一帝二后となった。

定子はその年の暮れの12月に第二皇女媄子内親王を出産したが、後産が降りぬままに翌日未明に死去。御産に奉仕していた伊周は座産の姿勢のままで死んだ妹の亡骸を抱き、声も惜しまず慟哭したという。

皇后葬送の日、大雪の中を歩行して従った伊周が詠んだ「誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆき隠れぬる君ぞ悲しき」が『続古今和歌集』に入集している。

翻弄と失意の晩年

長保3年(1001年)閏12月16日、重病に悩まされる東三条院は、一条天皇に伊周を本位(正三位)に復すよう促したという。なお、この前年の長保2年(1000年)には道長が天皇に、伊周復位の奏上を行ったものの、天皇が異常な奏上だとして取り上げなかったとされる。

長保5年(1003年)9月22日に伊周は従二位に叙せられ、寛弘2年(1005年)2月25日正式に座次を大臣の下・大納言の上と定められ、翌月26日には改めて昇殿を聴される。

4月24日には伊周が極秘に参内をして天皇と会見し、11月13日には朝議に参加した。

この間の寛弘元年(1004年)秋には、道長が伊周作の「入宋僧寂照の旧房に到る」詩に唱和し、奏上して御製の詩を賜ったという、ささやかな交流の話も伝わる。

長保から寛弘初年にかけて、伊周が廟堂に復帰した背景には、なかなか皇子女を産まない中宮彰子に一条天皇が敦康親王を養わせ、道長も親王に奉仕を怠らなかったことが関係する。

皇位継承の最短路線上にある親王の伯父である伊周に対して、世人は昼は道長に仕えても、夜は密かにその屋敷へ参上し続け、それが敦成親王(のちの後一条天皇)の誕生後は絶えたという。

この間の寛弘4年(1007年)伊周・隆家兄弟が伊勢国を基盤とする武士の平致頼を抱き込んで、8月2日に平安京を出発して大和国金峰山参詣中の道長に対して暗殺を実行しようとしているとの噂がにわかに浮上し、8月13日には道長と連絡を取るために頭中将源頼定が勅使として派遣される。

結局、暗殺の噂はあくまでも噂に終わり、8月14日に道長は無事帰京している。

寛弘5年(1008年)正月16日に伊周は大臣に准ぜられ封千戸を賜り(のちに准大臣と称される地位。以後「儀同三司」と自称)、朝議にも発言権が持てるようになったが、同年9月11日に彰子が一条天皇の第二皇子敦成親王を産んだことは、甥の即位を強く望む伊周にとって致命的な打撃となった。

落胆した彼は、敦成親王百日の儀に列席し、請われもしないのにあえて和歌序を執筆し、一座を驚かせた。この時の序文は、『新撰朗詠集』に選ばれるほど素晴らしい出来であったが、時の人々は伊周の挙動を非難したという。

寛弘6年(1009年)正月7日に正二位に叙せられるも、翌月20日には中宮と新生の皇子に対する呪詛事件が起き、伊周の叔母高階光子が入獄させられ、伊周は直ちに朝参を止められた。

その後4ヶ月も経たぬ6月13日には早くも一件落着して、伊周は朝参を聴され、また本来は武官にしか許されない「帯剣」の殊遇も得た。

伊周は翌寛弘7年(1010年)正月28日、37歳で没した。臨終に際し、彼は后がねに育てた2人の娘へ「くれぐれも、宮仕えをして、親の名に恥をかかせることをしてはならぬ」と、また息子道雅に「人に追従して生きるよりは出家せよ」と遺言したという。

死後、その邸である室町第は群盗が入るほど荒廃し果てた。加えて道長側の政治的意向もあり、伊周の次女は道長の長女藤原彰子への出仕を余儀なくされている。

嫡男道雅は、三条院の皇女当子内親王との恋を引き裂かれて以後、官途にも恵まれず多くの乱行に及び、「荒三位」と渾名された。

長女は道長の次男頼宗の正室として重んぜられ、右大臣俊家・内大臣能長を始めとする多くの子をなした。

頼宗の孫藤原全子藤原頼通の孫師通に嫁いで嫡男忠実を生んだ。そのため女系ながらも、伊周の血筋は摂家に繋がっている。