2016年9月30日金曜日

宮本武之輔と九州の縁

学生時代の宮本
窪内石太郎
偉大なる技術官僚だった宮本武之輔(博士)は、愛媛県の興居島に生れたが、いまでは松山市民はおろか出生地の興居島の住人さえもその功績を知るものは少なくなったという。

明治25年1月生 東京帝国大学工学科卒業
内務技師として我国土木事業に盡瘁 興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導 企画院次長として産業立国の策定に挺身 (企画院次長は戦前の技術官僚としては、最高位)
昭和16年12月東京に於いて没す 享年49歳。 
地元の顕彰碑の裏面には「宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し 卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す 知る者皆其の徳を慕う 」 と記されている。

九州との直接の縁はなかったが、彼の異父兄窪内石太郎が明治鉱業の幹部であり、宮本が大学生や若い官僚の時代には窪内石太郎に大きな影響をうけたという。
明治鉱業の当時の重役は、社長が安川清三郎、常務取締役が小西春雄と窪内石太郎、取締役は堀内敏堯、小林為之介、松本幹一郎、監査役は小出英男と松本源一郎、相談役は松本健次郎と白土善太郎の諸氏であった。
安川、松本、小出諸氏の一族とは少し面識があったので、宮本氏の話を聴いておきたかった。

2016年9月20日火曜日

フランク王国と馬具


フランク王国は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国で、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニアを領土とし、最大版図はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及ぶ。
ゲルマン系フランク人サリー・フランク族が建てた王国であることからこの名がある。
首都は508年にパリに置かれ、カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれてここが事実上の首都となった。

ローマ帝国の権力が衰え、騎馬民族がそれに代わって各地で勢力を伸ばし始めた中で、フランク族の軍事力がひときわ群を抜いていた。
その理由は、彼らが轡や鐙の馬具を全面的に採用した最初の民族だったからだ。

このため馬は大変制御しやすくなり、馬上の騎士は人馬一体となって戦うことができるようになり、騎手が振り回す長剣は威力を増し、射撃手も正確に矢を射ることが出来るようになった。
当時の最先端技術により馬の力を最大限にひきだし、軍事力強化で領土拡大に成功した。
日本でも、騎馬民族国家時代があったといわれているが、中世のはじめは馬の馬力が国を動かしたようだ。
しかし最強といわれた武田騎馬軍団も、鉄砲の出現によって、やがて消滅していった。

2016年9月18日日曜日

蛇行状鉄器と船原古墳



一昔まえ、福間町手光古墳から出土した蛇行状鉄器の説明を聴いた時は、これの使用目的は不明だということであった。
今回(9月17日),古賀の船原古墳の側から同じ蛇行状鉄器が出土し、馬具考古学が専門の、福大桃崎教授の話を聴いた。以前にも3回聴いているが、今回は蛇行状鉄器の詳しい話を聴けた。
馬の鞍の後ろにとりつける旗竿で、古代ではひろく用いられていたようだ。
古代の戦で勝利したときや、和平が成立したときは、生贄の馬とその馬具を埋葬して、盛大な祭りや軍事儀式をおこなったようで、扶余の白村江の戦や、飛鳥の物部・蘇我の戦のあとの例をあげられた。
吉住氏の写真
古賀の船原古墳でも馬の骨からでたカルシュームが見つかっているので、馬と馬具の一体埋葬の跡であり、征韓軍が渡航中止になったときに、同じような儀式をおこなった可能性があると指摘された。
桃崎先生の結論を、吉住氏はつぎのようにまとめられた。

① 船原古墳の被葬者は糟屋屯倉の管掌者と改めて推定
② 管掌者は聖徳太子の一族「壬生部」、「舂日部」では
③ 鹿部田淵と結び沿岸港湾への馬輸送機能拠点か
④ 特異な埋納状況は背後に国際的な重大事件を想定

前回の講演では、来目皇子の墓でないかという話もでたが、さすがに今回はなかった。

箱崎地区の元寇防塁跡


平成15~6年にJR箱崎駅の移転工事にさいして、遺跡調査がおこなわれた。
そのときこの地区に元寇防塁跡があることも話題になっていた。
その後九大移転工事がすすみ、九大敷地内部での元寇防塁跡の発掘調査がすすめられていた。
最近になって総合図書館周辺で、防塁遺構や大きな石の防塁が発見され、さらに調査がすすめられている。











2016年9月13日火曜日

「九曜紋」と殿中刃傷事件

上図のように、家紋には丸を重ね合わせたものが多い。

七曜紋は頼朝家臣の和田、滝川家臣の九鬼などが使用し、「九曜紋」は細川、土屋、石田三成の父などが使用していた。

この家紋の認識違いで、浅野匠守以後の殿中刃傷事件がおこった。細川家の「九曜紋」は、この事件のあと、外側の円がすこし小形に変更された。


細川家の
「九曜」紋

板倉家の
「九曜巴」紋

変更後の
「細川九曜」紋
延享4年(1747)8月15日、月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、6代細川宗孝が大広間脇のに立つと、そこで旗本寄合席7,000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した。
本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。
細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。
まだ若いこともあり、養子は立てていなかったので、世継ぎを欠いては肥後54万石細川家は改易必至だった。
この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村や若年寄り本田忠統らである。機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。
事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常はの両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。

2016年9月2日金曜日

香椎地区の教育施設の歴史

香椎地区の教育施設としては、明治維新直後開校した小学校から、戦後開校した福岡女子大学、九州産業大学など、地区内には多くの学校が存在し、西新とともに学生の町としても知られている。また、塾も多く存在する。

大学:
九州産業大学(松香台) 

1960(S.35)九州商科大として創立。’63より九州産業大学。
             ’80(S.55)に九州造形短期大学を移設。
九州産業大学は昭和35年に、九州商科大学としてスタートし、昭和38年に九州産業大学となった。商学部の定員120名からの出発で、当時の校舎の写真。



福岡女子大学(香住ヶ丘) 
1950(S.25)須崎校舎で創立。翌’51に現在地に移転。
福岡女子大は昭和25年に須崎仮校舎でスタートして、26年に香椎校舎に移った。一期生は115名の入学式でした。当時の香椎校舎の写真。

最近の夜景


高等学校:

福岡県立香椎高等学校(香椎)
1921大正10)に開校した「糟屋郡立糟屋実業女学と、1941(S.16)に開校した「財団法人香椎中学校(旧制で太田家の寄付により設立)
」を前身とする。1948年:統合、県立移管、共学化。
現在の場所は実業女学の跡地で、香椎中学校の跡地は、福岡女子大になっている。
黒門は当初は女子大の場所にあった。

福岡県立香椎工業高等学校(香椎駅東)  1962年(昭和37年)  


福岡県立香住丘高等学校(香住ヶ丘)    1985年昭和60年)

九州産業大学附属九州高等学校(香椎駅東)1963年(昭和38年)


中学校:

福岡市立香椎第一中学校(千早)      1947年(昭和22年)

福岡市立香椎第二中学校(香住ヶ丘)   1972年(昭和47年)

福岡市立香椎第三中学校(香椎駅東)   1983年(昭和58年)

福岡市立城香中学校(香椎浜)       1984年(昭和59年)

福岡市立照葉中学校(香椎照葉):      2007年(平成19年)


小学校:

福岡市立香椎小学校(香椎駅前)        1875(M.8)
香椎小の創立は明治8年。入学生徒数43名(女子ゼロ)よりスタートした。
当時の香椎村人口は1662人。
昭和30年代は団塊世代であふれ、昭和50年代はそのジュニアと団地開発であふれて、香住丘小、千早小、香椎東小、香椎下原小とわかれた。

福岡市立香住丘小学校(香住ヶ丘)       1956(S.31)

福岡市立香椎下原小学校(下原)        1985(S.60)

福岡市立香椎東小学校(香椎台)        1978(S.53)

福岡市立香椎浜小学校(香椎浜)        1983(S.58)

福岡市立香陵小学校(香椎浜)          1992(H.4)

福岡市立千早小学校(千早)           1964(S.39)

福岡市立千早西小学校(香椎浜)        1964(S.39)

福岡市立城浜小学校(城浜団地)        1971(S.46)

福岡市立照葉小学校(香椎照葉): 小中連携  2007(H.19)



学習塾:

セピア通り入り口付近の国道3号沿いに、英進館、全教研、日能研、明光義塾、個別指導塾など

多数の塾が密集している。英進館、全教研などは館が複数開設されている。

公共職業能力開発施設:

福岡県立福岡高等技術専門校(千早)