学生時代の宮本 |
窪内石太郎 |
偉大なる技術官僚だった宮本武之輔(博士)は、愛媛県の興居島に生れたが、いまでは松山市民はおろか出生地の興居島の住人さえもその功績を知るものは少なくなったという。
明治25年1月生 東京帝国大学工学科卒業
内務技師として我国土木事業に盡瘁 興亜院技術部長として大陸の建設事業を指導 企画院次長として産業立国の策定に挺身 (企画院次長は戦前の技術官僚としては、最高位)
昭和16年12月東京に於いて没す 享年49歳。
地元の顕彰碑の裏面には「宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し 卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる文才とを兼ね具へ終生科学立国を主唱す 知る者皆其の徳を慕う 」 と記されている。
九州との直接の縁はなかったが、彼の異父兄窪内石太郎が明治鉱業の幹部であり、宮本が大学生や若い官僚の時代には窪内石太郎に大きな影響をうけたという。
明治鉱業の当時の重役は、社長が安川清三郎、常務取締役が小西春雄と窪内石太郎、取締役は堀内敏堯、小林為之介、松本幹一郎、監査役は小出英男と松本源一郎、相談役は松本健次郎と白土善太郎の諸氏であった。
安川、松本、小出諸氏の一族とは少し面識があったので、宮本氏の話を聴いておきたかった。
安川、松本、小出諸氏の一族とは少し面識があったので、宮本氏の話を聴いておきたかった。