・この説は、以前(10年前)、「二中歴の検証・九州年号と九州の政権主催者(兼川晋)」(古代史論文集「倭国とは何か」収録)を読んで、初めて知った説である。
浅学の小生には難解だが、次のようにまとめたらよいものか。
・660年庚申、筑紫物部系の政権主権者が、百済の滅亡を聞いたとき、質として手元に置いていた百済の王子・豊彰を送り込み、三軍を組織して百済の再興を支援した。
この主権者について、古田説は筑紫君薩野馬の名を挙げているが、筑紫君が筑紫物部の主権者の別称であれば、筑紫君薩野馬は「鏡王」と考えられる。
なお、天武=大海人皇子は、白雉四年(653)に皇弟と表記されているから、このときの主権者鏡王の弟だったことになる。
・百済滅亡の翌661年に「白鳳」と改元したのは、九州の主権者の地位にあった「鏡王」であり、白村江の戦いを主導したのは「鏡王」だった可能性が強い。
斉明天皇と中大兄皇子は、鏡王に徴発されてしぶしぶ二万の兵を吉備で調達し九州まで船団を進め、朝倉にて、唐から帰国した伊吉博徳から帰朝報告を聞く。
・白雉元年壬子(652)~9年(660)が鏡王の時世だが、鏡王は、660年百済が破れたので、翌661年の年号を「白鳳」と改元して、ひとまず都を九州から近江に遷し、663 年10月白村江に出陣した。(同書は、662年8月と記す)。
・しかし、白村江の敗戦後、鏡王は戦死の可能性が強かったので、近江に遷っていた伊勢王が同所で即位、白鳳元年(661)~11年癸未(671)が伊勢王の時世となる。
白村江での敗戦後、伊勢王や大海人皇子ら九州政権者と吉備政権者の天智天皇との抗争が続いたが、668年2月近江で天智天皇が即位し、一応抗争に決着が着いた。
・671年伊勢王、天智天皇が相次いで死亡し、翌672年7月大海人皇子(天武天皇)による壬申の乱が起きた。これは、九州政権主権者の逆襲ともいえる
671年末か672年正月頃、唐から帰国した筑紫君薩野馬=鏡王がこの乱に加ったかどうかの記述はない。
・なお、同書によると、壬申の乱に貢献した高市皇子は、695年(文化元年乙未)即位し「高市天皇」となり、696年7月に崩じた。また、持統天皇は皇太后でその即位はなかった
のではないかとしている。
e. 筑紫君とは倭国王のこと
・日本書紀は、筑紫君を火君、宗像君、水沼君などと同じような次元でとらえているが、筑紫君薩野馬の「筑紫君」は、後から付けられた称号のような気もし、実際は「倭国王(倭王)」であった。
・筑紫君の名を取って「筑紫王朝」という人たちも多いが、「筑紫王朝」というと単に筑前・筑後国にあった王朝と捉えられそうになる。もともとの「筑紫」は「九州全土」を指す言葉、即ち「筑紫=九州」であり、「筑紫王朝」で問題はないが、どちらかというと古田武彦が称えた「九州王朝」の名称の方が分かりやすい。
この「九州王朝」が、本来の「倭国」であり、「筑紫君薩野馬」は、その「最後の倭国王」なので、その意味では、もとは「倭王薩野馬」と呼ばれていたのではないかとも思う。
なお、「倭王・筑紫君薩野馬」の名は、白村江の戦いの総大将であったと考えられるが、日本書紀にその名が出てくるのは、ただ一か所、捕虜となっていた唐から解放されて帰国するときのみで、日本の歴史からはほぼ抹消されている。
・因みに宗像君は倭国に属していたと考えられるので、沖ノ島で4~7世紀に行われた国家祭祀は、ヤマトではなく倭国のものであり、倭国の滅亡とともに途絶えたのである。4世紀にヤマト国があったのかも疑わしい。
因みに、旧唐書にヤマト(日本)が出てくるのは、663年の白村江の戦いより後の長安3年(703)年粟田真人の遣唐使入朝であり、言い換えればその年にヤマトは、唐に認められる「国家」になったことになる。