2016年3月12日土曜日

龍馬の蝦夷地開拓計画の挫折


 坂本龍馬が北海道(当時は蝦夷地)に興味をもつようになったのは、脱藩後勝海舟に出逢い海軍操練所に入って、勝の手伝いをしているうちに、多くの北海道情報を得たからである。
 そして蝦夷地に乗り込むつもりで、妻と蝦夷語を学んでいた。
おりょうが持っていた蝦夷語の本

北海道の竜馬像
【1】 蝦夷地移住計画

1864年6月初旬には、京都・摂津の浪人を幕府の軍艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画を勝海舟に提案している。
蝦夷へ移住し、開拓事業を起こすのが目的であった。
移住計画
しかしその直後、池田屋事件が発生。
勝や龍馬に蝦夷地の情報を話をしていた北添佶磨(きたぞえ・きつま)や、神戸海軍操練所の塾生であった望月亀弥太が池田屋事件に含まれていたことから、勝海舟に迷惑がかかると判断した龍馬はこの蝦夷地移住計画を断念した。
龍馬にとってはさぞ無念だったろう。


【2】 蝦夷地交易計画
 
 その後蝦夷地交易計画をたてるが、まず活動の命である船舶の入手をしなければならない。

竜馬は船との縁が薄く、最初に手に入れたワイル・ウエフ号
亀山社中の練習船で、薩摩藩の援助を得て、グラバーから購入したプロイセン建造の木造小型帆船)は1866年慶応2年)4月28日 長崎を出航し、鹿児島へ向かっていたが、途中暴風雨に遭遇し、長崎県中通島の東、潮合崎沖で暗礁に乗り上げ転覆し、亀山社中の池内蔵太など、乗組員の多くが死亡した。


交易計画では、龍馬はプロシア商人チョルチーと交渉し「大極丸」という船を手に入れる。後述する船の支払い問題を抱えながらも、大極丸は動き出す。


この時、龍馬の頭の中にあったのは、次のような計画であった。

(1)蝦夷地開拓により、さまざまな資源開発を行う。石炭・林業・農業・漁業など、当時はまだほとんど手付かずであった産業を起こせると考えた。
(2)大阪で商業活動をしていたメンバーと合同で(陸奥陽之助や高松太郎ら)、大阪に営業拠点を置き、蝦夷地の資源開発で得た物産を「蝦夷-大坂-馬関-長崎」の物流に乗せる。
 
常識的には、「江戸-大坂ライン」や「馬関-大坂ライン」あたりの主要航路で既存の物流競争に勝とうと考えるが、龍馬の発想は大きい。
しかし…この計画は暗礁に乗り上げる。
大極丸の代金を、龍馬は近江商人から借り受ける予定でいたのだが結局お金は工面できず、大極丸は差し押さえられ運行不可能になった。

 次の手として、亀山社中が船乗りをリース(人材派遣)していた大洲藩(今の愛媛県)所有の「いろは丸」の賃貸契約を進め、海援隊になったあと、ようやく契約が成り、いろは丸が亀山社中を運行するという初航海で、例の「いろは丸事件」が起き、この船もワイルウェフ号同様、亀山社中の手に渡ったとたん沈没してしまった。

別のブログに書いたように、紀州藩からの賠償金交渉には成功したが、その直後に竜馬は暗殺されて、すべての計画は挫折した。

 蝦夷開拓情報を勝や坂本に伝えた人物

幕末期、蝦夷地には海獣の毛皮獲得を主たる目的にロシアが侵入しており、蝦夷地の防衛は急務であった。そんな中、当時の箱館には徳川幕府のみならず全国諸藩から様々な人々が訪れていた。ここではそのうちの二人を記載する。


(A) 北添 佶摩(きたぞえ きつま)

天保6年(1835年) - 元治元年6月5日1864年7月8日)は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷志士。佶麿(よしまろ)、源五郎とも。変名は本山七郎。

土佐藩高岡郡岩目地(いわめじ)村の庄屋北添与五郎の五男。16歳で庄屋職をつぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。

開国に反対して攘夷を唱え、文久3年(1863年)、本山七郎を名乗って江戸へ出て、大橋正寿の門人となり同志と共に学ぶ。
その後、安岡直行、能勢達太郎、小松小太郎と共に奥州蝦夷地などを周遊して北方開拓を発案。
これは、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。
なお、この策には坂本龍馬が一枚かんでいたとみられ、事実、龍馬は計画実現のために大久保一翁などに働きかけている。

その後、所属していた神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬に過激な尊皇攘夷派とは交流を絶つべきであると諭されたにも関わらず、同じく土佐出身の望月亀弥太らと京都へ赴いて公卿達と面会を重ねたが、元治元年(1864年)の池田屋事件に遭遇し死亡した。この際、新選組によって殺害されたと思われていたが、近年の研究によって自害して果てたことが判明している。享年30。



 しかし、残念ながら北添は池田屋事件で死亡、龍馬の第一次蝦夷地開拓計画も中止に追い込まれた。ちなみに、北添は蝦夷地視察に際して3人の親友を誘い、同行したといわれており、そのうちの一人、小松小太郎は箱館への渡航中に病気になり、看護の甲斐なく箱館上陸後に亡くなり、遺体は函館山麓(現在の住吉町共同墓地内)に埋葬された。

 発病当時、北添らは小松に下船するよう説得したが、小松は「死んでも北海の守護神になる」と聞き入れなかった。当時、蝦夷地に渡るということは命懸けの行動でした。


(B)望月 亀弥太(もちづき かめやた)
幕末土佐藩士で、土佐勤皇党の一人。神戸海軍操練所生。諱は義澄。

文久元年(1861年)、兄・望月清平と共に武市半平太尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)10月、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。

文久3年(1863年)、藩命を受けて幕臣勝海舟の下で航海術を学び、その後、坂本龍馬の紹介で勝が総監を務める神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年(1864年)、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏。長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けていたため、池田屋事件に遭遇した。池田屋を脱出した望月は幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入る事を許されずに門前で自刃した。享年27。

坂本龍馬も勝海舟も、この二人の死を嘆いた。

2016年3月11日金曜日

いろは丸沈没事件と坂本竜馬

1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃に伊予国大洲藩所有で、海援隊が借り受けて長崎港から大坂に向かっていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で衝突した。


明光丸は、イギリスで建造され長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であった。

いろは丸は大破し自力航行不能となって、船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦へ明光丸により曳航される途中に、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島沖で沈没した。

搭乗していた坂本龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったあと鞆の浦に上陸した。

龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。

長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩参政後藤象二郎)は紀伊藩勘定奉行茂田一次郎)と争った。
この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。航路の情況から、現代の専門家の分析では、いろは丸側に全責任があったとされている。


しかし土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630や金塊など4万7896両198を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及した。

紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。

さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。

事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して3万円から5万円となり、8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。

なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。

しかしまだ船底の土の中部は調査はされていないので、可能性は残っている。

賠償金はその後紆余曲折があって、五代友厚らの仲介により7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された



いろは丸展示館は、鞆の浦のシンボル「常夜灯」のすぐ手前にある。

「大蔵」と呼ばれる江戸時代築の蔵(国登録有形文化財)を利用したもので、慶応3年(1867年)に鞆の浦沖で沈んだ「いろは丸」の引き揚げ物などの関連資料を、沈没状況のジオラマとともに展示、紹介している。






2016年3月9日水曜日

水戸光圀と鎌倉と英勝院

水戸光圀は、江戸詰めが原則で、遠出する機会はすくなかったようだ。

昨日のテレビで、一番遠出したのは鎌倉だったということを知った。

鎌倉は源氏の根拠であり、鎌倉の英勝寺には水戸家と縁の深い尼寺があって、光圀の出生を誘ったお勝の方(英勝院)がいたという。

徳川家康側室で、大田道潅四代の太田康資息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。



家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した。


創建にあたっては、徳川頼房の娘小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。

光圀の出生のときは、お勝の方(英勝院)の助言により無事に出産できたという伝説があるようだ。


それで徳川光圀もこの寺を訪問したとされている。


しかし同時に源氏のルーツである鎌倉の地形や史跡も詳細に調査して、大日本史や新編鎌倉誌などに記載している。
1週間で178ヶ所も調査
鎌倉の史跡地図
新編鎌倉誌
建長寺の説明と地図

英勝院尼没後は水戸家の姫君が代々住職を勤めたため「水戸御殿」とも呼ばれた。
しかし六代の清吟尼を最後に水戸家からの住持は絶え、その後は徳川家の支援によって維持されていたという。

英勝院尼は寛永19年(1642年)没し、英勝寺裏山に葬られた。

2016年3月8日火曜日

黒田如水と大宰府

昨日のテレビで黒田官兵衛と太宰府 ~天才軍師の風雅な隠棲生活~の紹介があった。
大宰府天満宮の観光案内にも、あまり書かれていないので、紹介する。
筑前国に入った官兵衛(如水)は、福岡城内の居館が完成するまでの間、閑雅な太宰府に移り、太宰府天満宮の境内に隠棲した。
 如水が隠棲の地に太宰府を選んだ理由の一つに「連歌」がある。一流の文化人でもあった彼は、和歌・連歌の神としても知られる天神様(菅原道真公)を崇敬し、社家らを招いて連歌会を開き、太宰府天満宮に連歌を奉納するなど、連歌興隆に力をいれた。
 また、如水の天神様への信仰は深く、長年の戦乱で荒廃した天満宮の境内を造営するなど、太宰府天満宮の復興に尽力した。
 生涯を戦乱に明け暮れた如水にとって、太宰府で過ごす晩年の日々は、憧れの道真公の傍らで心置きなく風雅に興ずることができた時間であったようだ。
  1年半ほどの短い隠棲生活でしたが、太宰府内に今も残る彼の足跡をご紹介する。

夢想之連歌(太宰府天満宮所蔵)

慶長7年(1602年)、官兵衛(如水)が太宰府天満宮に奉納した連歌。梅の花が描かれた壮麗な懐紙に、妻光(幸円)、息子長政をはじめ、家臣、天満宮の社人とともに詠み連ねている。
 如水が夢枕に天神様からいただいたといわれる「松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡」を発句としており、この中で初めて「福岡」という地名が登場する

如水の井戸(太宰府天満宮境内)

 官兵衛(如水)が太宰府で過ごしていた際、茶の湯などに使っていたといわれる井戸。如水が過ごした平穏な日々が偲ばれる。 
 太宰府天満宮の境内、宝物殿の傍に静かに佇んでおり、井戸の裏には黒田家隆盛の礎ともいえる「目薬の木」が植えられている。

如水社(太宰府天満宮境内)

黒田官兵衛(如水)を祀った社で別名、山の井社ともいう。昭和63年、太宰府天満宮御神忌1085年御縁祭の齋行を記念して、一間社流造、銅板葺屋根の社殿を造営した。如水の井戸の裏手に鎮座している。

2016年3月6日日曜日

真田昌幸と室賀正武

真田昌幸と室賀正武は犬猿のなかであった。
室賀の居城は原畑城で政務を行い、一旦有事の際には笹洞城に立て籠もっていた。

本能寺の変により武田遺領の甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱が発生し、真田昌幸らが相模国の北条氏直に属すなか、正武は別行動を取っていた。
天正11年(1583年)に室賀が徳川家康によって他の信濃豪族とともに所領の安堵状を受けた。
同年、真田昌幸が所領を拡大しようとした際、室賀氏は真っ先に標的になった。
正武は守戦で自ら出撃して奮戦したが、間もなく真田氏と和睦した。

だが真田氏の麾下に入った事は不本意で、天正12年(1584年)家臣の鳥井彦右衛門尉を家康の元へ使いに出すと、家康より昌幸を謀殺すべしとの指示を受けた。
間もなく昌幸より居城・上田城に招かれたとき、正武は一門の室賀孫右衛門を徳川氏の家臣・鳥居元忠の元へと派遣して援軍を要請した。
だが孫右衛門は既に昌幸に内通しており、そのまま上田城に駆けこんで昌幸に事の次第を密告した。
孫右衛門がそのまま室賀家へ帰参したため、正武は経略が成功していると見誤り、桑名八之助、相沢五左衛門尉、堀田久兵衛らの家臣を引き連れて上田城へ参上した。
正武は書院に通されたが、次の間に控えていた真田家臣・長野舎人と木村渡右衛門に急襲され、その場で斬殺された。
正武が連れていた家臣たちも抵抗するが捕えられたが、のち真田氏に仕えた。
室賀正武の墓は前松寺にある。


2016年3月5日土曜日

90歳からの生き方

五木寛之の対談で、「80歳からの生き方」というのがあった。
仏語に「超横」という言葉がある。80歳を越えたら「超横」で生きよという。
親鸞のいう「超横」とは、煩悩にまみれた凡夫が、南無阿弥陀仏と称える中で、自分で称えていたはずの南無阿弥陀仏が自分の声ではなく阿弥陀仏の声と聞こえたその瞬間(『教行信証』等では「信楽開発の時剋の極促」とあります)に、煩悩を持ったままで極楽往生の正因を得た姿を言うようだ。
五木のいう「超横」とは、壁につきあたって前に進めない時は、横に道を求めよという拡大解釈である。80歳すぎて出来なくなる壁はいくつもある。そこでへこむのでなく、横に出来るものを見つけることで、新たな人生を見出せる。壁を「いなす」ことだという。
私も80歳からCGをはじめたり、FBをはじめたりした。
あと2ヶ月後の90歳からの生き方でも横超の生き方は同じで、今までの興味のあるものが行づまったら横に別の道を探すことにしよう。

2016年2月24日水曜日

長谷健(芥川賞作家)


最近では殆ど話題にならないが、福岡県出身では火野葦平についで2番目の芥川賞受賞者である。

WIKIによると、福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。因みに、東宮永小学校は大関琴奨菊の母校でもある。
旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。私の小学校の恩師樋口狷一先生と同卿の友人だったので、揮毫をもらったのが上の写真の書である。。
柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。
1932(昭和7年)年浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。
1939年(昭和14年)、浅草での教師体験をもとにした『あさくさの子供』を『虚実』に発表し、第九回芥川賞を受賞する。
1944年(昭和19年)に柳川へ疎開し、国民学校に勤務する。
同人誌『九州文学』の同人として5年間を郷里で過ごした後、再び上京し火野葦平の旧宅に同居し、日本ペンクラブ日本文芸家協会の要職につく。

児童文学の著述とともに、北原白秋を描いた『からたちの花』(1955)、『邪宗門』(1957)などを発表した。
1957年(昭和32年)12月19日、東京都新宿区西大久保にて、忘年会の帰りに寄った屋台を出て道路を渡ろうとしたところ、タクシーにはねられる交通事故に遭い、搬送先の国立東京第一病院で2日後の12月21日に死去。53歳。
葬儀委員長は火野葦平が務めた。