2023年5月11日木曜日

昭和28年:古賀町の大水害と落合橋

 昭和28年古賀の大水害

28年大水害昭和28年6月4日から降りはじめた雨は29日まで続き、古賀で最大の水害となった。
死者10名、行方不明者5名、住宅24戸が全壊、床上浸水1403戸、橋梁も24流された。
写真は高千穂製紙の社
宅の様子と、花鶴川河口の地図。





復興のため、古賀町、小野村、青柳村が合併し、大きな古賀町(現在の古賀市)となった。

昭和28年には、私は八幡にいたが、やはり大水害が発生し、上司に家が被害をうけたので、復旧作業に出かけた記憶がある。福岡県各地で水害がおきたので、その記録のなかには、古賀の水害がとりあげられていないそうだ。


今の庄は大根川と谷山川の合流地点で、落合という字名もあり、落合橋は今はコンクリート構造だが、昔は木製であった。


 地名に、蛇、鶴、津留、沼、谷、蓮、袋、沢、滝、落合、野毛、窪、奥、久保、下、溝、井、曲、浜、江などに関わる地名は、元々河川流域で水害が複数あった、低湿地帯であった可能性がある。

落合橋

市役所が出来る前の地図

落合放水路

落合放水路は、昭和28年の大水害の後に作られた。この放水路で、中洲のような島になった地区は、平成時代に史跡調査がされたが、目立った発掘物がなかったので、宅地化され、今は住宅やマンションが建っている
対岸のコスモスというスーパーによく買い物にでかけるが、このあたりの堤防の下の地区の住宅は、河の水面より低い地形になっているように見える。


ハザードマップ
昭和28年と同じような雨季の大雨がおこると、河川の改善や管理が進んでいるが、水害の可能性は高い。
庄橋付近の河川監視カメラが、市役所屋上にとりつけられている。1時間ごとに映像がみられるので、雨季には参考になる。
福岡県総合防災情報 (fukuoka.lg.jp)

今のハザードマップでも広い範囲が危険領域となっている。

電気系統が水没すると、マンションなどは、しばらく住めなくなりそうだ。

1週間の食糧備蓄が必要だ。さもなくば餓死するだけだろう


2023年5月9日火曜日

立花山と北側の山々


 
マンションから見える上の写真の山の名前は、全体を立花山と呼び、中央の高い山が井楼岳3673m、その右側が松尾岳337m、白岳315mの3。左側が大一足258m、小一足208m、
井楼岳の裏側の大つぶら260m、小つぶら250mの七つの峰で成り立っている。立花七山(七座)と呼ばれている。

 古賀市登山協会では、「立花山七座巡り」が時々おこなわれているようです。
古賀市からは立花山の景色は三山のように見える小林恒火子の画が有名です。
市役所応接室の「歴史に香る立花山の雄姿」や「立花山と幸せを招く幻想の花」が青柳公民館で常設展示されています。

「立花山と幸せを招く幻想の花」


立花山の手前の低い山が左から尾東山121m、古子山100m、
立花山の手前が前岳160mと岳越山119mです。

上の写真では、立花山とその前の前岳の区別がわかりにくいですが、下の写真は朝靄で立花山がかくれたときの写真で、前岳がはっきりみえます。




写真ではわかりにくいので、スケッチ図をのせます。



地形の説明図をみれば、位置関係がはっきりします。

三城岳(三代山)は岳越山のかげで見えません。

これらの山々には、かって登ったことがあるので、懐かしいです。

幼稚園の風景


 5月9日の晴天の日。マンションから見える幼稚園。
「庄ひかりこども園」。

連休明けで園児が屋外で走り回る風景を期待していた。

しかし右側の広い運動場のほうには現れず、左奥側のテントの下の日陰にあつまって遊戯をしているようだ。

5月の紫外線が強いのを避けているらしい。

その後半年で、運動場のほうに芝生が張られて、小山も作られた。園児にやさしい環境が整備された。

その周りを園児たちが走り回るようになった。


幼稚園といえば、昔は園のバスが街をまわって園児を載せ集めていたが、ここでは各家庭が自家用車で送迎している。
園の横に20台位の駐車場があり、登退園の時間も1時間以上の幅があるが、ラッシュ時間帯は、ガードマンが忙しそうだ。車時代になったからの現象である。
 
五月がちかずいたら、さっそく鯉のぼりが高く泳ぎはじめた。




2023年5月5日金曜日

三河国の地名


徳川家康の大河ドラマで有名になった三河の国。3本の河が流れている領域を連想していたが、そうではないようだ。 

国郡制の時期に愛知県東部に設定された国名。参州(さんしゅう)。東海道15か国の一つ。

東は遠江(とおとうみ)国(静岡県)、北は信濃(しなの)(長野県)・美濃(みの)(岐阜県)の両国、西の北半は尾張(おわり)国(愛知県)に接している。

当国は北部山岳地帯としての奥三河、その地帯より源を発し、東部、西部をそれぞれ貫流する豊川(とよがわ)流域平野の東三河と矢作(やはぎ)川流域平野の西三河、さらに遠州灘(えんしゅうなだ)と伊勢(いせ)湾を東西に画し、志摩半島の志摩国(三重県)と相対する渥美(あつみ)半島の4地域に分かつことができる。4地域とも風土的・歴史的地域差をもつが、方言に端的に示されるように総体としては尾張とはかなり異なる東国的な文化圏を発展させてきた。

 三河の語源については、三つの川があったからとか、加茂(かも)の神の御川(みかわ)の義であるとかの説はあるが、通説というべきものはない。

先史時代の歴史を物語る資料としては、まず豊橋市牛川(うしかわ)町で発見された成人女性の左上腕骨と成人男性の大腿(だいたい)骨片の化石人骨がある。牛川人と名づけられた人骨はいずれも約10万年前の中期洪積世の旧人と鑑定され、いまも論争の続いている明石(あかし)原人を別とすれば、日本最古の人類である。

縄文時代の遺跡としては大量の人骨が発掘された吉胡(よしご)貝塚が、また弥生(やよい)時代では豊川河口近くの豊橋市瓜郷(うりごう)遺跡などがあり、豊川(とよかわ)市篠束(しのづか)町の篠束遺跡は三河以東での最初の農村遺跡として名高い。

 9世紀ごろに編纂(へんさん)された『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によれば、三河は古く三河と穂(ほ)の二つのクニに分かれ、それぞれ三河国造(くにのみやつこ)、穂国造が支配していたが、豊川市国府(こう)町所在の全長96メートルの船山古墳に象徴されるように、東三河の豪族の力が強大となり、国衙(こくが)は穂のクニに置かれることとなった。令(りょう)制では上国、『延喜式(えんぎしき)』では近国に位置づけられ、加茂、額田(ぬかだ)、碧海(あおみ)、幡豆(はず)、宝飫(ほお)、八名(やな)、渥美の7郡に分ける。このうち903年(延喜3)宝飫の北部を割いて設楽(したら)郡を設置した。国府および国分寺はともに豊川市内にあった。

平安時代には伊勢神宮との関係深く、1192年(建久3)には12か所に神戸(かんべ)、御厨(みくりや)、御園(みその)があった。鎌倉期には公武両勢力の接点となる。守護の初見は安達盛長(あだちもりなが)。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後は足利(あしかが)氏の世襲となり、斯波(しば)、一色(いっしき)、細川、仁木(にき)、今川氏などその一族被官(ひかん)の本拠となった。

彼らは南北朝時代の内乱に戦功をたて、管領(かんれい)や侍所頭人(さむらいどころとうにん)など室町幕府の要職につく。室町期の守護は仁木義長(よしなが)が初代、大島義高(よしたか)、一色範光(のりみつ)、一色詮範(あきのり)、細川持常(もちつね)、同成之(しげゆき)、一色義直(よしなお)と受け継がれて戦国時代を迎える。

 15世紀中葉から、加茂郡松平村より出た松平氏が台頭し、3代信光は碧海郡安祥(あんじょう)城、松平氏7代清康(きよやす)は岡崎城を拠点として西三河に勢力を広めた。松平氏8代広忠(ひろただ)の時期、三河は東西から今川、織田両氏の侵入にあい、広忠は今川義元(よしもと)と盟約しながら岡崎城1城を保つにすぎなかったが、その子徳川家康は、今川義元が桶狭間(おけはざま)合戦に敗死後、織田信長と同盟を結んで東進し、1590年(天正18)関東に転封する。

関ヶ原役後、家康は松平家清を吉田(豊橋):7万石本多康重(やすしげ)を岡崎:5万石本多康俊を西尾:6万石で置き、三宅、戸田、大岡、内藤、土井などの譜代(ふだい)大名を創設したほか、多くの旗本領、直轄領を設定した。

細分割支配の特色は江戸時代を通じて受け継がれ、三河の開発に大きな影響を与えた。


維新時の幕府直轄領は三河県となったが、伊奈(いな)県に合併、また10藩あった藩領域は額田県となり、1872年(明治5)に両地域とも愛知県に編入された。

 

三河地方は古代から良質のあしぎぬの産地として知られていたが、早くも16世紀からは木綿が栽培される。近世では所領関係が複雑なため、水田開発は比較的後れたが、「三河木綿」の名があるように木綿の名産地であった。

[所理喜夫]

2023年5月4日木曜日

古賀地区の変電所と送電線

 

マンションから見える高圧送電線の鉄塔


今の庄のマンションから犬鳴連山をながめていると、高圧送電線の鉄塔が沢山みえる。

220KVの超高圧線が、犬鳴連山を超えて、砕石場の西側付近(鹿見判れ:古賀、久山、宮若の境界)から古賀市の変電所につながっているのが、上の写真の右端の隅にみえる。

鹿見岐れの地図





私のFBのカバー写真のなかでも、左から右端の鹿部山の麓にある古賀変電所まで、超高圧線の鉄塔列が続いている。

いままで古賀地区の変電所が鹿部と久保にもあることは知っていたが、送電網の系統をしらべてみると、東福岡地区の重要な変電所は、古賀地区の鹿部山麓の変電所であることを認識した。

古賀変電所
古賀の工業団地への送電も、ここからなら近距離である。

太線が220KVの送電線

古賀から、さらに香椎地区、和白、新宮、福間、宗像地区までの電力を送っているようだ。

古賀町時代の広報資料の図


現在の古賀市総合防災マップには、高圧送電線の流れが詳しき記入されている。


2023年5月3日水曜日

リーベスト古賀



 古賀市役所の南の庄橋を渡ると、左にデイリーヤマザキの店舗、右に中野建設のビルがあり、その前の高い
7Fのリーベスト古賀のマンションがある。



この写真の中央部の7Fが私の部屋で、北、東、南、の展望がひらけている。




今の庄の地区は大根川と谷山川の合流地点(落合)にあり、昔は人が住みにくかった場所であろう。

「庄」という地名:

平安・鎌倉時代に各地に存在していた私的土地領有の荘園から付られたもの。荘園の略字が「庄」となった。
荘園時代の古賀は「席内院」と呼ばれ,安楽寺天満宮(現太宰府天満宮)の荘園があった。
庄地域には荘園時代の地名,「牓示ヶ坪」,「鍛冶給」,「掘の内」,「辻ヶ森」などが小字名として残っている。
現在は今の庄、今在家など地名が分散している。
自治体は北庄、南庄に分かれている。マンションの場所は自治体では落合1になっている。

近くに「やの循環器内科、かい整形外科」があり、隣にデイリーヤマザキ、少しはなれて、コスモス、業務スーパーなどが存在する。



この図の+がマンションの場所である。

落合の三角地区には、リーベスト古賀2号館もできている。



自治体の区分では、庄北区、落合2組になっている。小字名では入道町らしい。庄北・南の公民館が国道3号線付近の井手流公園の前にある。地区の活動は活発で、健康教室や文化活動も盛んである。

2023年5月1日月曜日

アメリカの戦後の支援戦争

 今日は、サイゴン陥落48周年だが、万悪とされる共産主義者の快進撃を前に、自由主義の灯台であるアメリカは、最後の一兵卒まで戦わずに、尻尾を巻いて逃げた。

今やウクライナには、最後まで戦えと、よくもそんなこと言えたもんだ 。

そもそも第二次世界大戦後に、アメリカがまともに勝ったのは、湾岸戦争くらいだった。

毛沢東いわく「米帝国主義は『張子の虎』」は、嘘ではなかった。

コスト意識と虚栄心と選挙のリスクヘッジが、張子の虎のベトナム戦争だった。