2024年5月24日金曜日

ヘモグロビンとHbA1c

 ヘモグロビン(hemoglobin、Hb血色素)とは、ヒトを含む全ての脊椎動物や一部のその他の動物の血液中に見られる赤血球の中に存在するタンパク質である。

酸素分子と結合する性質を持ち、から全身へと酸素を運搬する役割を担っている。


ヘモグロビン・ヘモグロビン値(Hg・Hgb)とヘモグロビンとは、赤血球の中にある、酸素を運ぶタンパク質です。鉄を含む「ヘム」とタンパク質の「グロビン」が結びついてできています。このヘムは赤色素をもち血液が赤く見えるため、「血色血液中のヘモグロビンは肺で酸素と結びつき、血管の中を通っ異常値と基準範囲は以下のようになります。

異常(低)基準範囲異常(高)
男性13.0g/dl以下13.1~18.0g/dl18.1g/dl以上
女性12.0g/dl以下12.1~16.0g/dl16.1g/dl以上


ヘモグロビンが低いと「貧血」と診断され、貧血になると全身の細胞に酸素が運べなくなるため、頭痛や息切れ、めまい、疲れやすさ、集中力の低下などといった症状が出現します。

ヘモグロビンが多くなる病気を多血症といいます。
多血症となると血がどろどろすることで血流が悪くなり、頭痛、めまい、耳鳴り、視力障害などを起こします。血の塊の血栓ができると、脳梗塞、心筋梗塞などが起こります。


ヘモグロビンは赤血球内のタンパク質の一種で、全身の細胞に酸素を送る働きをしています。血液中のブドウ糖がヘモグロビンとくっつくと糖化ヘモグロビンになります。





HbA1cは糖化ヘモグロビンがどのくらいの割合で存在しているかをパーセント(%)で表したものです。

hba1cの割合


HbA1c判定のめやすヘモグロビン

HbA1c判定のめやす

2024年5月22日水曜日

重源(ちょうげん)と東大寺の復興

 重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本

源平の争乱焼失した東大寺の復興を、61歳から15年かけて果たした。

昨日のTVで、詳しく紹介された。

出自と経歴

長承2年(1133年)、真言宗醍醐寺に入り、出家する。のち浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。

重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西とともに帰国した。

宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地はの支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏後白河法皇と提携関係を持つようになる。

重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった。承安元年(1171年)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。

東大寺は治承4年(1180年)、平重衡南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが熔け落ちた。

 養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は61であった。

東大寺大勧進職

周防国佐波川で、切り出した材木の運搬を指揮する重源上人の像(山口県山口市徳地

東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。

当時は、近畿周辺の巨大材木は無くなっていたので、周防国の材木を再建に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。

また、重源自身もの後白河法皇や九条兼実に浄財寄付を依頼し、それに成功している。鎌倉の源頼朝は当初は拒否したが、奥州平定後には協力して支援した。

重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。

自ら巨木を求めて周防国の(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥から道を切開き、川に堰を設けるなどして長さ13(39m)・直径5尺3(1.6m)もの巨大な木材を奈良まで運び出したという。

作業者の休養場所に石風呂などを築いたり、石畳で運搬道路を作った。

運搬拠点に別所を築き造営拠点とした。

更に伊賀紀伊・周防・備中播磨摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。

なお、重源は東大寺再建に際し、西行奥羽への砂金勧進を依頼している。

こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。

文治元年8月28日1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている。

以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の修二会(お水取り)の際、過去帳読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている。

重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。

東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝が祀られている。運慶の作とする説もあり、鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。

浄土寺(播磨別所、重要文化財。天福2年(1234年)東大寺像の模作)、新大仏寺(伊賀別所、重文)、阿弥陀寺(周防別所、重文)にも重源上人坐像が現存する。

大原問答

文治2年(1186年)、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍証真貞慶智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。

これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号し、法然に師事した。


大仏殿のその後

浄土寺浄土堂(阿弥陀堂、国宝)

重源が再建した東大寺2代目大仏殿は戦国時代永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。豊臣秀吉は焼損した東大寺に代わる新たな大仏を発願し、方広寺大仏(京の大仏)及び大仏殿が造立されたが、大仏殿の建築様式については、かつての東大寺2代目大仏殿を参考にしたと文献記録に残る

現在の東大寺大仏殿は江戸時代宝永年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて平面規模が縮小されている。

重源の大仏殿は現在のものより大きなものであった。


大仏様

東大寺南大門

重源が再建した大仏殿などの建築様式はきわめて独特なもので、かつては「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれていたが、インドの建築様式とは全く関係が無く紛らわしいため、現在の建築史では一般に大仏様」(だいぶつよう)と呼んでいる。

当時の中国(南宋)の福建省あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では飛鳥天平の時代に中国の影響が強く、その後、平安時代に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。

2024年5月7日火曜日

夜間頻尿を解消する運動

 


夜間頻尿を改善するためには、日中に下半身に溜まった水分を寝る前までに排出することが必要になる。

下半身に溜まった水分を出すために、有効なのは、

1.タオルはさみ体操

やり方は、椅子に座り丸めたタオルを太ももでギュッとはさんで緩める動作を10~30回繰り返すだけだ。

「太ももの内側にある内転筋など、大きな筋肉を鍛えると下半身の血行が良くなる。

そのため余分な水分が溜まりにくくなり、夜にトイレに起きる回数を減らしてくれる。」

この体操は夕方から夕食後にかけて行うと、就寝前に水分が腎臓へと届けられ、余計な水分を尿として出し切ることができる。

次に、日中でもトイレが近いという人は加齢により膀胱が収縮し、尿が溜まっていなくても尿意を覚えてしまう「過活動膀胱」を患っている可能性が高い。

これを改善するために役立つのは、

2.骨盤底筋トレーニング

「仰向けに横になり、両足を肩幅程度に開いて軽く両膝を立てます。このままゆっくり息を吐きながらお尻を上げ、尿道・膣と肛門を5秒ほどキュッと締めるだけです。

この動作を一日に10回3セットほど行うことで、膀胱を支える骨盤底筋が鍛えられ、膀胱が安定します。また、尿道括約筋という筋肉にも効果があり、膀胱が縮まるのを防ぐのです。その結果、夜のトイレに目覚める回数も減っていきます」

2024年5月5日日曜日

室戸岬の銅像


 室戸岬には、60歳の頃、学生と夏休み旅行で、出かけた記憶がある。

当時の学生、永津君が、ことし自転車旅行で、室戸岬を巡った写真を、FBに投稿していた。

よくみると岬の先端に銅像がたっている。当時は気づかなかったが、中岡慎太郎の銅像が昭和10年に建てられたそうだ。

坂本竜馬と一緒に暗殺された無念の志士が、太平洋をはるかに眺めている。

中岡慎太郎 像 - 室戸市 ホームページ (city.muroto.kochi.jp)

2024年5月4日土曜日

銀のさら

【ゆっくり解説】小僧寿しを余裕で倒した銀のさら。ヤバすぎる経営戦略について (youtube.com)

 「銀のさら」が10店舗を達成したのは2000年5月。

その翌年2001年7月には株式会社ベンチャー・リンクと資本提携し、株式会社レストラン・エクスプレスを設立。2013年にライドオン・エクスプレスに社名変更した

かつて(およそ2000~2010年頃)は飲食業とはかけ離れ、購買意欲の促進にという目的に全く囚われない程の奇抜なシュールギャグ的な内容のCMを製作、放送する企業として知られていた。

現在は比較的寿司の美味さを表現した「普通」の内容のCMを主に放送している。


店舗数は宅配寿司業界日本一で、2012年(平成24年)10月現在の総店舗数は356店舗。

令和初期では383店舗といわれているが、別系列の店舗をあわせると、700店舗にもたっしている。

店舗がない都道府県は岩手県和歌山県鳥取県、富山県、石川県、福井県、宮崎県である。


    オートファジーの実態(改訂版2)

     大隅 良典(おおすみ よしのり、1945年昭和20年)2月9日 - )は、日本生物学者分子細胞生物学)。学位は、理学博士東京大学1974年)。東京工業大学科学技術創成研究院特任教授栄誉教授自然科学研究機構特別栄誉教授、総合研究大学院大学名誉教授基礎生物学研究所名誉教授、東京大学特別栄誉教授。福岡市名誉市民、大磯町名誉町民、京都大学名誉博士大隅基礎科学創成財団理事長。

    (九大名誉教授長沼賢海の孫で、私の福岡高校の後輩、妻の香椎中での教え子)

    自然科学研究機構基礎生物学研究所教授兼総合研究大学院大学生命科学研究科教授、東京工業大学フロンティア研究機構特任教授などを歴任した。「オートファジーの仕組みの解明」により2016年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。

    大隅良典

    吉森 保(よしもり たもつ、1958年9月3日 - )は、日本の生物学者大阪大学名誉教授。主な業績は哺乳類オートファジーの分子機構と生理機能の研究。

    大隅良典教授の研究の後継者として、その実用化につとめている。

    オートファジーを研究するベンチャー企業AutoPhagyGO」を2019年6月に設立した。



    吉森保

    今までの生物学は細胞の働きを中心に研究されていた。
    現在の生物学は細胞の中の物質の働きを研究している。
    細胞のなかに、発電所のようなエネルギー担当や、警察のような病原の取り締まり担当や、情報連絡機能の物質があることがわかってきた。

    大隅良典先生が福校創立記念日にオートファジの話をされたが、当時はよくわからなかった。




    吉森先生によるテレビや動画での解説は、理解しやすかった。

    オートファジーは細胞のなかの交通システム

           第1の役割は栄養を補うこと


    第2の役割は細胞の新陳代謝

    第3の役割は有害物の除去

    毎日更新するので新車同様になる細胞




    オートファジを活発にする成分(脂肪分は不活発にする)

    寝ている間にオートファジーが上がる


    有酸素運動でオートファジーが上がる

    阿波晩茶もオートファジがあがる。

    これらの有効な手段は、従来の健康法でいわれてきた方法とおおむね一致している。
    しかしまだ研究段階ではあるが、オートファジーには、若返りの可能性があるという。生物学の進歩はすごい。
    ただ喜んでばかりはいられない。
    今のように戦争ばかりしている人間が100億人以上になれば、地球破滅につながりそうだ。