2024年7月6日土曜日

パレスチナ地区の歴史

 パレスチナは、第一次世界大戦後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年まで大英帝国の委任統治領となった。

第二次世界大戦が始まると、委任統治領は大規模な爆撃を受け、イシューブのユダヤ人は連合国側に従軍した。

1944年、イギリスは武器の供給とユダヤ人旅団の結成に同意した。

緊張が高まる中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の両派をなだめるために、1947年に国際連合パレスチナ分割決議を採択し、アラブ人とユダヤ人の独立国家と国際化されたエルサレムの設立を勧告した

1948年ユダヤ機関はイスラエルの独立を宣言し、1948年のアラブ・イスラエル戦争では、イギリス委任統治領の大部分をイスラエルが占領したが、ヨルダン川西岸とガザは近隣のアラブ諸国が占領していた

アラブ首長国連邦、バーレインなどは、イスラエルの独立を認めた。

その後、イスラエルはアラブ諸国といくつかの戦争を経験し、1967年6月の第三次中東戦争以降は、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原、ガザ地区などの占領地を保有している。

その後の立法措置により、ゴラン高原東エルサレムではイスラエル法が全面的に適用され、ヨルダン川西岸ではイスラエルの入植地への「パイプライニング」により部分的に適用されている

イスラエルによるパレスチナ自治区の占領は、現代における世界最長の軍事占領であると国際的に考えられている

イスラエルとパレスチナの紛争を解決するための努力は、最終的な和平合意には至っていないが、2020年にイスラエルはエジプトヨルダンの両国と和平条約を締結している。


2023年パレスチナ・イスラエル戦争は、2023年10月7日に起こり、いま も続いている。パレスチナガザ地区を支配するハマースイスラエルとの間の戦争である。

戦闘はハマースの攻撃で開始され、ハマースはイスラエル領内に数千発のロケット弾を撃ち込むとともに、ガザ地区近隣のイスラエル南部各地に戦闘員を侵入させて民間人多数を殺傷・拉致した(レイム音楽祭虐殺事件など)。

これに対してイスラエルはを動員して反撃を開始し、領域内のハマースを押し返した後ガザ地区を閉鎖、さらに大規模な空爆及び地上侵攻を行った。2024年現在も戦闘は継続中であり、ガザ地区の一般市民などを中心に多数の死傷者が出ている。

なお、パレスチナ自治政府は対イスラエル奇襲には関与をしておらず、パレスチナの大統領マフムード・アッバースは「ハマースはパレスチナ人の代表ではない」「ハマースは人質の即時解放をすべき」「ハマースによるイスラエル南部への攻撃を非難する」と表明している。ただし欧米から要求された、テロ行為と認定しての非難は拒否しており、フランス大統領エマニュエル・マクロンとの会談で「紛争の責任はイスラエルとそれを支援する国々にある」とした。

また、ワリード・アリ・シアム駐日パレスチナ常駐総代表部代表は8日、SNSにて「私たちは、パレスチナ人とイスラエル人の両方の民間人の生命の喪失を断固として非難します」とメッセージを投稿している。

この戦争でイスラエル側は第四次中東戦争以来の死者数を出している。


2024年7月3日水曜日

孝謙天皇、重祚して称徳天皇と道鏡

 孝謙天皇

父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」



皇太子

聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿倍内親王のみであった。聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったため即位は望み薄であり、阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。

中国でも則天武后の女帝前例があることを方便として批判を退け、その後の修行で皇太子の能力を身に着け、元正上皇の御前で五節舞を披露している。舞のスキルを習得して皇太子としての自信を持てた。




孝謙天皇としての治世

父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮職を改組した紫微中台の長官で、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が強く、孝謙天皇時代は受けの政治であった。

756年5月2日に父の聖武上皇が崩御し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。この更迭劇には、孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられている。


太上天皇時代

758年8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。

仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられている。仲麻呂は官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)など、さらに権勢を振るうようになった。

760年1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの、淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた。

760年7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。

同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、761年には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵用するようになった。道鏡は12歳も年上であった。

762年5月23日6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。

6月3日に孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した。

ただし、この宣言がどこまで実効性があったかは研究者の間でも議論があり、実効性が発揮できなかったためにその後も混乱が続いたとする見方もある。

不和の原因には道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどがあげられている。

また、天皇の軍事指揮権の象徴であるが光明皇太后の崩御後、直接淳仁天皇に引き渡されたことは、淳仁天皇に皇統の正嫡意識を持たせ、反対に孝謙上皇の不満を強めて皇統嫡流を争い始めたとする見方もある。

764年頃には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。

藤原仲麻呂の乱

764年9月11日、藤原仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。

仲麻呂は太政官印を奪取して、近江国に逃走したが、9月13日に殺害された。

仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には、左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とした。さらに9月22日には、仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、10月9日には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした。

重祚:称徳天皇としての治世




淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。

765年飢饉和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であったが、称徳天皇時代は攻めの政治を行った。

同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。またこの際の行宮を拡張し、由義宮の建設を開始している。

一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。11月には天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、本来参加しない僧侶が出席するという異例のものであった。

またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。

766年10月には海龍王寺仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。

一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された。




称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。

一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。

奴隷の開放、親孝行の推奨、格差の低減、女子官僚の増加など新しい行政もおこなった。

一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくし、ささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた例もある。

769年大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。

これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は、清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。

崩御と後継

行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。

道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。

称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。『続日本紀』宝亀元年(770年)八月癸巳条によると、崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。




一方、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」によると、崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備が文室大市もしくは文室浄三を推し、永手や宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであったという。

河内祥輔は『古代政治史における天皇制の論理』において、「藤原百川伝」の記述が『水鏡』に継承され、『大日本史』にも採用されたことから、吉備真備が出し抜かれた、藤原百川が暗躍したとされる経緯が一般的になったと指摘する。河内は百川が光仁擁立時は政治に参画する立場に無く、百川が暗躍したとする所説は桓武天皇の立太子の事情が誤って語られたものであると指摘。現在ではこの説が広く支持されている。

上野正裕は称徳天皇から吉備由利を介して吉備真備に後継者に関する遺詔が示された可能性があり、それが文室大市もしくは文室浄三であったものの、他の廷臣がこれを拒絶して白壁王を擁立したとする説もある。

なお、道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も772年に再開されている。

2024年6月9日日曜日

筋肉・筋力の衰えを回復する方法

高齢者は足腰の筋肉が衰えて、運動しにくくなる。

これを回復するための要点を、TVで報告していた。

1)筋肉はタンパク質でできている。タンパク質を含む食料をたべる必要があることは基本である。

2)さらにロイシンという物質が必要で、これを一日三食、一食2g、合計6gとると、筋力がふえる。 朝食だけでは分解がすすんで、効果が消えてしまう。





ロイシンをふくむ食料の一覧表は下記のとおりである。


3)筋力を増やすには、紫外線にあたる必要がある。

手のひらだけに、1日20分ほど日光浴をすると、1日に必要なビタミンDの量を捕らえることができる。顔や皮膚の日光浴はシミなどの弊害をおこす。



4)筋肉をつかった運動を定期的に行うことが当然必要である。
両手に、水の入ったペットボトルをもって、踏み台昇降運動を1日3回、
毎食前に5分程度行うことが、最低限必要である。
このスタイルで、室内や家のまわりを歩くのもよい。
5)つま先立を1日の午前中に50回行うのもよい。
6)買い物なども徒歩で出かけよう。


7)70~80歳で、椅子に座り、立ったり座ったりを5回を、8秒以内に出来ることを目標としよう。

高齢者の転倒防止のリハビリ運動では、つま先立運動が取り入れられる。足の指によるバランス制御が、転倒防止に必要だからである。
昨日の広島大名誉教授新小田先生の話では、脳梗塞で足の制御が不能になった患者さんの足は、つま先だった形になっているそうだ。



馬と人で、脚部分の骨格をくらべると、馬のほうがつま先たっていることがわかる。
人間も原始時代は、馬などの四つ足時代があった証拠であろう。



2024年6月5日水曜日

「大学」

 Bing 動画

「大学」とは、中国古典の中の四書五経の中の一典です。

上のYOU TUBE(Bing 動画)でも解説されています。

二宮金次郎が薪を担いで読んでいる本が「大学」と言われております。
江戸時代の寺小屋で一番最初に教わるのもこの「大学」からとのことです。

古賀の「玄界義塾」でも、毎回「大学」を朗読しています。

その中の「伝七章」に、
「心ここにあらざれば、視(み)えども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず。」 とあります。
何ごとも気に留めていなければ、見過ごしてしまうものです。
ビジネスの世界ではいつでも、目配り気配りしていなければ、
お客様に失礼をします。
また、新聞を読んでいても、いつもあちこちに、目を配っていなければ、大事な記事を読み落して
しまうことにもなります。

目配り、気配りとは「心の置き所」を言うのであります。
クレームの原因はすべて
「心ここにあらざれば、視(み)えども見えず」
からきております。

耳も味も同様に、気配りが大事です。

目も耳も舌も悪くなった老人は、消え去るのみですが、老については書かれていません。

2024年6月2日日曜日

政治家のパラドックス(paradox)

 パラドックス(paradox)とは、正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。逆説、背理、逆理とも言われる。 

核保有国は、「相手は大都市を破壊する戦略核までは使用しない」と確信して、人工密集地を避けた戦術核は使えるという逆説にたどりついている。

戦略核は安定、戦術核は不安定?

英国は、「選挙に勝てば、何をしてもいいから、選挙に勝つためには、何でもする」の、選挙独裁から、EU離脱まで変貌した。

中国は、経済苦境を脱するために、外国からの投資がほしいのに、習政権を守るために、外国企業やその投資家の監視や統制を強める方向に逆行している。

日本は、政治資金規正の厳格化では、目先を変えて批判の風化をまつため、あいまいな基準で、審査を捜査当局にまかせるような仕組みを模索している。

2024年6月1日土曜日

赤穂浪士の処分経緯

 去年の12月に玄界義塾で土師先生から忠臣蔵の講演をきいた。

吉良上野介の首を泉岳寺の浅野家の墓にとどけた赤穂浪士は、その後、高輪泉岳寺に近くに江戸屋敷があった4大名の屋敷に、赤穂義士は分配して預けられた。

(細川家:熊本市17人、水野家:岡崎市9人、毛利家:長府市10人、松平家:松山市10人)

泉岳寺の墓所でも、その順序で墓が並べられている。



土師先生の話でも、細川家だけが義士の除命嘆願を幕府にだしたことを聞いたが、昨日の「英雄の選択」では、細川家だけが、義士を英雄扱いで待遇し、他の3家は「罪人扱い」の待遇で預かったそうだ。
当時の庶民が作った川柳は、「細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ 濁れる」

と、水野、毛利、松平を、批判している。
 




細川家の預かり担当の堀内伝衛門が、大石内蔵助をはじめ全員に親切に対応し、討ち入りの計画や討ち入り合戦の内容を詳しく聞き取って、覚書を作成しており、赤穂市の歴史博物館に保管されているそうだ。


最終的に、赤穂浪士は全員切腹となり、吉良家も断絶の結果となった。