2012年9月1日土曜日

陶晴賢の謀反

今日天文20年9月1日1551年9月30日は大内義隆が陶隆房の謀反により、長門大津郡深川大寧寺にて自刃した日。享年45歳。
大内義隆は尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市)を攻めるが大敗を喫し、その際に尼子氏の追撃により養嗣子晴持をも失い、寂しさを紛らわせるためか次第に文化に傾倒していった。
 この頃から大内氏の内部で不協和音がはっきりと表面化し、軍事派の陶晴賢(当時は隆房)と文治派で義隆の寵愛を受けていた相良武任とが対立、このため晴賢は義隆から距離を置かれる。
晴賢は謀反の意を固めると毛利元就の抱き込みを企て、毛利氏も一旦は同調したという。
晴賢は富田若山城(山口県周南市)を出陣、山口を襲うが、事前に晴賢の動きを察知していた義隆は法泉寺へと避難し、夜陰に乗じて脱出し長門へと向い、何とか長門仙崎(同長門市)に到着する。
ここから乗船して沖合へ漕ぎ出たものの風浪が激しくなり失敗、再び戻って大寧寺へ入る。
 しかし晴賢に大寧寺を囲まれると、義隆は最後まで従った冷泉隆豊らの近臣たちとともに自刃、四十五歳の生涯に幕を下ろす。
しかし陶晴賢もやがて毛利元就の謀反にあって生涯を閉じた。
この混乱の間に、わが立花城は大友勢が大内勢から取り戻し、1551~1587年間(柳川移封まで)大友勢のものとなる。
ただし1569年の立花鑑載の乱で半年間ほど毛利に占領される。

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