2012年9月11日火曜日

戸次道雪の人生


立花道雪
 戸次道雪は永正十年(1513)三月十七日、豊後大野川流域の戸次庄を本拠する藤北鎧嶽城(大分市/豊後大野市)主・戸次常陸介親家の二男として生まれた。
 戸次家は源平時代の豊国の緒方家の末裔といわれる。緒方家は源義経側に付いて破れ、勢力を減じたあと、大友家の傘下に入ったという。 
幼名八幡丸、通称は孫次郎、長じて戸次鑑連と名乗り丹後守(丹後入道)・紀伊守(紀伊入道)・伯耆守を称した。
のちに筑前立花城督から城主となり、立花氏の名跡を嗣ぎ、また出家して麟白軒道雪と号したことから立花道雪の名で広く知られるが、本人は立花姓をきらい、名乗らなかった。


道雪とは、路傍に降り積もった雪が露となって消え去るまでの間を、潔白な武士の節操に例えて名付けたものと伝えられます。
(以下、呼称は道雪で統一)
立花山遠景
 道雪は生涯大友家の支柱として活躍し、ある時は切り込み隊長として、またある時は大友宗麟の諫言役として、まさに八面六臂の活躍。
道雪の勇名は遠くにまで聞こえ、あの武田信玄がぜひ会ってみたい武将だと評したと伝えられる。
 男子がいなかった道雪は晩年、盟友の名将・高橋紹運を説得してその嫡子(宗茂)を養子に迎える。その際の道雪の言葉は感動的なものた。
「私はもう七十歳。御家は衰運であろうか、賊徒は戦に敗れても日増しに勢いが強まり、味方は勝っても日々勢いは衰えてゆく。近くは島津・龍造寺、遠くは毛利という大敵を、我死して後に誰が御辺(紹運)と力を合わせて大友家を支えるだろうか。宗茂をして戸次の家を嗣がせ、私が死んだ後にも御辺と心を合わせて国を支えるべきである。私の家のためではなく、国のために是非とも願う次第である」
そして猛将・道雪も病には勝てず、筑後に出陣中の9月11日、北野高良山の陣中にて、大友家一筋に忠誠を尽くした73年の生涯の幕を閉じた。
彼は九州という地政学的に特異な部分と、名門大友家をいう、村社会の家制度における上位と現場のギャップを埋めようとした人物であった。
九州大友家は鎌倉からの流れを組む地頭で、源を組む名門。その20~21代大友宗麟期の大友家を支える道雪は、この時期がんばれば、すぐに城もち(城主)になれるはずだが、ながらく城督というポジションで苦闘の日々を送る。
城主が株券主や自己独立グループ長とするなら、城督は権限は同じでも、自身では所有できない、今で言う業務執行役員のようなもので、業務に責任は負うが、取締役ではない。
その中で、筑前で、道雪は、類まれなるリーダーシップを発揮していく。しかし、社長である大友氏は、ブレブレでたよりなく、また気づきも少なく、病的な部分があり、最後の最後まで、道雪を苦しめる。
その中でながらく大友氏を支えた城督として彼のマネージメントは、今の時代にも通用するものであって、日本社会の闇と、日本の人と人とのありかたを表していると思える。

紹運が島津軍と戦って玉砕したあとも、宗茂が立花城を守りぬいて島津軍を総退却させる。

道雪の言葉のとおりの歴史となった。

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