2014年10月19日日曜日

安曇族の歴史: 宮地嶽神社と安曇族(改訂版)

昨日宮地嶽宮司 浄見譲(キヨミユズル)氏の「宮地嶽の神様と安曇族」の講演をきいた。私見をまじえて纏めてみる。
当神社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮で、創建は、約1600年前。
ご祭神は「神功皇后」(第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君)。
記紀では、渡韓の折この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとある。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしている。
津屋崎に勝浦や勝島の地名があるのは、勝村・勝頼大神の縁である。
中世から戦国末期まで、宗像氏が宗像郡を支配し、宗像大社の末社のような風評が定着している。
しかし宗像三女神の存在も記紀にはじめて出てくる神で、田村円澄先生も、神功皇后の渡韓説話の頃より始まると推定されているから、創建は同じ頃であろう。
宮地嶽神社の地には、創建以前に全長23m(日本2位)の巨大石室古墳があり、国宝に指定されたものが20点も発掘され、地下の正倉院と別称されている。
特に3mの黄金の太刀やペルシャ風デザインの馬具などの存在は、大きな権力者の存在が覗える。最近復元された太刀が、九州国立博物館に常設展示されている。
(3mの太刀については、復元を担当された赤司氏より詳細な説明がされた。)
従来この古墳は胸肩君の墓であろうといわれていたが、その後古墳の年代がさらに古いことがわかり、最近元九大の西谷先生はこの説を否定された。
このことから、磐井族の葛子の後裔説が強くなり、古賀の船原古墳の馬具出土と関連付けて、津屋崎や糟屋の出土品の再調査がはじまっている。
磐井族は有明海に近い八女を本拠地にしているが、有明の大川市の風浪宮の宮司は阿曇姓で、安曇族と磐井族の縁は有明海沿岸でも絆があったようだ。
大川の家具が有名だが、もとは舟の造船技術が基礎となって発達したものである。




宮地嶽神社は地区としては宗像郡だが、津屋崎古墳の石の玄武岩は、宗像地区と異なり、津屋崎大峰山や志賀島のものと同質だから、志賀島や大岳を発祥の地とする安曇族が宮地嶽まで勢力を広げていたと考えられる。
海人が住むこの地区の海岸線に樹齢2000年の松の木が多いのは、彼らが船の木材、松明、墨、イレズミなどに活用していた名残だろう。
イレズミに必要な水銀を求めて、安曇族は山奥まで移住していくことがあった。
宮地嶽神社につたわる筑紫舞の始祖は阿曇磯良翁で、志賀海神社の御祭神を祖にされる方である。その縁で、宮地岳神社宮司の一族から,いまの志賀海神社宮司に養子にはいられた。
九大のヨット部が、日本でもっとも早く創設され、福岡県セーリング連盟が戦後から現在でも一番活躍しているのは、安曇族の発祥の地だからであろうと、現在の話題にもつながれた。ヨット部のOB としてはうれしい話である。
質疑では、宗像族支援者からの反論も出されたが、糟屋郡族としては興味新たな話であった。

シンポジュムの講演者
古墳から出土した大太刀
筑紫舞

参考:安曇族の歴史(その一):
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html



最近宮地岳古墳の調査で、シュメール文字が発見されたり、九州の縄文土器が古代欧州でみつかったしているそうだ。
安曇族は古代イスラエル人ではないか?という説までとびだしている。




カタカムナ文字に記載された「宇宙すべてを理解したアシアトウアンはその理をここに残した」というアシアトウアンはアジア族のことで、東アジアの海洋民族で、倭国では安曇族のことではないかという歴史家の話とも何処か類似している。
https://www.youtube.com/watch?v=-9WQEvLmWpQ


九大ヨット部


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