2014年11月18日火曜日

筑紫の鴻臚館の時代

放送大学での筑紫の鴻臚館(こうろかん)の講義に私見を加えてまとめてみた。

平安時代に筑紫(福岡平和台野球場跡)に設置された外交および海外交易の施設である。

(前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。)

その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。

鴻臚館の名が文書に残るのを列挙する。

837年:入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述。

838年:承和5年(838年)に第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとある。

842年:承和9年(842年)の太政官符に鴻臚館の名が記載されている。

849年:嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。

858年:天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。

861年:貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。

896年:菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止された。

これは唐が滅び、内乱状態になったためだが、その後宋が成立しても、朝廷は外交に消極的で、交易と僧侶の交流のみ継続じた。

当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。

そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げた。

残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。

商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した。

903年:延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前貿易が厳禁されて、貿易が官営から次第に私営に移行している。

909年:延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。

1019年:1019年の刀伊の入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これは鴻臚館の警固所を指している。

やがて時代が下って北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになって、現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易は衰退。

このことは、陶磁器などの埋蔵物の発掘調査からも裏付けられている。

1047年:永承2年(1047年)には放火される。

1091年:寛治5年(1091年)に宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消える。

上記以外の入宋留学僧として、奝然(ちょうねん:法済大師の号)がおり、983年(永観元年)宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、986年(寛和2年)に帰国した。

 北宋期の入宋僧は、中国の正史や京都の公卿の日記にも登場し、旅行記やその逸文が残っているものもあり、行程や事跡はかなり詳しく判明する。この時期の入宋は天皇の勅許を必要とし、したがって入宋行為自体が非常に注目を浴びた。

奝然のあと1078年までに入宋の仲回まで22名前が調べられている。

この頃の入宋僧は一人の高僧とその従僧数人で行動したから、入宋の回数から言えば8回、頻度から言えば10年に1回に満たない。しかもその内には、奝然帰朝後の謝恩の使として入宋した嘉因、寂照が入宋中に天台山大慈寺再建費用募集のため一時帰国させた従僧念休なども含まれている。

 これに対して南宋期においては、入宋僧は個人行動が多くなるが、1167年から1276年までの110年間に109が知られている。平均して毎年1人は入宋していた計算になる。

この時期には入宋僧は珍しい存在ではなく、日本・中国で記録に留められることも少なくなるから、記録に残らない入宋僧も多くいたに違いない。


    平和台野球場跡に建てられた鴻臚館

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