2014年12月17日水曜日

歴史とは選択の教え(石垣原合戦)

吉弘統幸(よしひろむねゆき)は、義統が改易された後、官兵衛に招かれ官兵衛の臣・井上九郎衛門に仕えていたが、その後、従兄弟にあたる筑後柳川の立花宗茂の家臣になっていた。




世の中が関ヶ原の合戦に向けて動き出すと、統幸は大友義統の子、義乗が家康の下にいたことから東軍に味方しようと江戸を目指す。江戸への途上の毛利領内で、統幸は豊後上陸への準備を進めるかつての主君義統に会い,,大友の当主を継いでいる義乗が家康の下にいることを考え、東軍に味方することを義統に説く.
しかし容れられぬことを知ると覚悟を 決めて義統に従うことにする。
豊後上陸後、義統が九州東軍の官兵衛と雌雄を決することになる石垣原では,右翼の将として戦陣を張り、大友軍有利の緒戦を牽引する。石垣原の合戦を東と西で対比すると、総大将は黒田如水と大友義統、武将は井上九郎衛門と吉弘統幸。
総大将と武将の間で選択の違いがあったのは西側で、吉弘は東軍に付くべきだと思っていた。これが西軍の敗北の一因となっていた。
朝鮮の役の失敗で改易された義統は、徳川家康、佐竹義宣、毛利輝元と預け先を流転したあと、関ヶ原の合戦時には、毛利輝元の下にあったことから、輝元から兵や資金の援助を受け旧領奪還を目指して、中国地方から九州の豊後へと上陸した。

しかし、大友敗勢を知ると、数騎を率き連れ、かって世話になっていた井上九郎衛門の陣へと斬り込み討たれるという最期を選び、その生を終える。
吉弘統幸は過去と未来の変化を読み、選択する能力をもっていた。
しかし長年大友家の家臣として仕えてきた家柄であり、立花宗茂とは従兄弟になるから、過去の恩義を絶ちきることが出来なかった。そこに彼の限界があった。
歴史を学ぶのは、過去に重きをおくか、未来に重きをおくかの判断と選択の事例の勉強である。
黒田如水などは、常に未来に重きをおいて行動した。しかし天下をとるまでの器量と幸運を持たなかった

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