2014年12月6日土曜日

キリシタン如水-

大阪城天守閣主任学芸員 跡部信 氏の講演メモ: 
「キリシタン書簡集から見るシメオン如水の人間像」 (11月29日福岡市市民フォーラム)
1)キリスト教との出会い
*如水が洗礼をうけたのは天正13年 1585 40歳の頃
*高山右近・蒲生氏郷・小西行長らが導いた。
2)九州攻めとキリシタン禁令
*豊後から避難する司祭たちのため、毛利領内に司祭館を建設するように、豊臣政権の重臣として毛利家と交渉し、イエズス会のため働く。
*小早川秀包・大友義統らをキリスト教に勧誘。
*秀吉は高山右近・蒲生氏郷・小西行長らには棄教を命じたが、如水には多大な功績に遠慮して、命じなかった。
*如水は長崎・浦上・平戸などの領主にイエズス会司祭を推奨し、京都のキリシタンを庇護する活動をした。
*イエズス会巡察師が来訪(1591)したとき、秀吉に会見をうながすが、拒否された。
3)如水の失脚から関ヶ原
*文禄の役で全羅道・普州城攻撃を延期する許可をうるため帰国したため、秀吉の勘気にふれ失脚。
3年後の和議破局後に許された。秀吉との関係は薄れていった。
*関ヶ原の戦が起こると、長政とともに東軍につき、十字架の旗印を揚げて戦った。
*キリシタン大名の有馬晴信・大村喜前らを東軍に勧誘した。
*もともとキリシタンの大友義統を捕虜とし、信仰の道につれもどした。
*キリシタン大名の小早川秀包の妻を弟の直之に救出させた。
*加藤清正に抑留された小西領の司祭たちの開放に尽力した。
4)筑前での隠居生活と昇天
*長政はキリスト教と距離をおいたが、如水は公然と庇護した。
*59歳で死去するまでキリシタンとしての信仰を保つた。
*信仰上側室をもたなかったが、妻は浄土宗の熱心な信者だった。
九州を平定してキリシタン王国をつくる夢を持っていたのではないかという話もでた。
講演会の掲示板
日本の歴史書にない話が多くみられ、熱心なキリシタンだったということですが、いくらか割り引く必要があるかもしれません。
明日12月7日の大河ドラマにどれだけキリシタン色がでるか?楽しみだ。
黒田如水

街歩き教室「黒田官兵衛・長政のキリスト教と家康」(清田清)
2時間歩き、2時間喋った。皆さまお疲れ様でした。
画像は官兵衛洗礼名シメオンの言われ「シメオンの讃歌」を描いたレンブラント画。



以下、街歩きコース点景と最後は、赤頭講師と博多遺跡群出土の十字架鋳型までの画像。

官兵衛寄進のイエズス会教会跡・勝立寺

→福岡藩最初の宗門改があった智福寺跡水鏡天神





→アクロス下に遺る、福岡惣構え第二の守りとして福博を遮る石垣




→孫文演説の県公会堂



→11代長溥設置の藩理化学研究所・福岡藩精錬所跡碑



→中洲のビル群谷間の国広稲荷




→道真使用鏡が神体・鏡天神





→綱首の町跡の綱敷天神




→イエズス会本部所収のコーロス徴収文書にパルタザル神屋彦右衛門尉とサインをする彦右衛門は宗湛親類か?/神屋宗湛屋敷跡の博多小学校と豊国神社




→ 福岡惣構え第一の守り石堂橋門跡の石堂





→崇福寺・黒田墓所官兵衛墓碑



→そして千代公民館の赤頭講師、




博多遺跡群出土のメダイと十字架鋳型  

 

 


お終い、、 — 場所: アクロス福岡

0 件のコメント:

コメントを投稿