2015年3月25日水曜日

日本陸軍の長州閥

 明治の日本陸軍の指導権は西郷隆盛の死後、長州の山縣がひきつぎ、長州閥の根拠となった。山縣のあと、桂太郎・寺内正毅・田中義一とつづく。
 東条英機の父英教は、反長州閥の「木曜会」を井口省吾らとつくるがつぶされて、日露戦争での成果をとわれて退役においこまれる。
 その後東条英機らの反長州閥が、昭和にはいって関東軍などで勢力を拡大して、陸軍の実権をにぎる。
 東条英機内閣では、寺内正毅の子供の寺内寿一を太平洋戦争では南方軍司令官に追い出した。
 東条が松前重義を懲罰召集して2等兵として南方に送ったときは、寺内が軍司令官命令で軍政顧問として働くようにした。さすがに東条もこれには手がだせなかった。
 敗戦色が強まって、英機内閣の延命を阻止したのは、長州の岸信介国務大臣だったという。
ただし後継者に寺内寿一の名前もでたが、英機は応じなかったという。
 東条の最後はよく知られているが、寺内寿一はシンガポールで降伏文書の調印を行い、マレーシアのレンガムで拘留中に病死し、シンガポールの日本人墓地に記念墓がつくられた。
寺内寿一
東条英機

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