2015年3月28日土曜日

神屋宗湛のルーツ

博多の豪商神屋宗湛のルーツはいろんな説がある。
「神屋家由緒書」に、神屋家は八幡宮の官領職で、姓は菅原と記載されている。
 武野要子の「博多」という本では、遠祖は永富という人物。京都府大山崎の離宮八幡宮を調査をかねてお参りしたとき、となりに神屋タミエの表札を発見。調べると石清水八幡との関係のある家で、その後一族が、京都の戦乱をさけて博多にきたのでは?と推定している。
 泉澄一の「堺と博多:戦国の豪商」という本では、神屋家の始祖は永富でその6代目が宗湛。
八幡宮の官領職というのは、宗像社を間違えて伝えたと推測している。当時から日明貿易に従事いていた人物とかんがえている。
 上妻国雄の「宗像伝説風土記」という本では、藤原冬嗣の四男千歳磨が、宗像に下向して藤原村となずけた。その子孫の神屋主馬允繁貞が小高い山に屋敷と須賀社をたて、いまも字名で神屋として残っている。神山・神谷・野口・森田などがその子孫であるという。
知人に神谷氏がおり、FBで神山氏を知った。
二つが地元に関連があり、宗湛の妻は、宗像上八の承福寺で修行した景徹玄蘇の妹というから、宗像に関連のある説が、真実かもしれない。
子孫の墓

神屋宗湛

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