2016年9月13日火曜日

「九曜紋」と殿中刃傷事件

上図のように、家紋には丸を重ね合わせたものが多い。

七曜紋は頼朝家臣の和田、滝川家臣の九鬼などが使用し、「九曜紋」は細川、土屋、石田三成の父などが使用していた。

この家紋の認識違いで、浅野匠守以後の殿中刃傷事件がおこった。細川家の「九曜紋」は、この事件のあと、外側の円がすこし小形に変更された。


細川家の
「九曜」紋

板倉家の
「九曜巴」紋

変更後の
「細川九曜」紋
延享4年(1747)8月15日、月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、6代細川宗孝が大広間脇のに立つと、そこで旗本寄合席7,000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した。
本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。
細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。
まだ若いこともあり、養子は立てていなかったので、世継ぎを欠いては肥後54万石細川家は改易必至だった。
この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村や若年寄り本田忠統らである。機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。
事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常はの両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。

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