2017年10月20日金曜日

徳川家康の死因諸説

家康の死因については、をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。

しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。

替わって主流となっているのは胃癌説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている。

その他に鷹狩の帰路に暗殺されたとゆう説が最近報じられている。
静岡県議員の良知淳行(あつゆき)に家の伝承で、庄屋だった良知家に、鷹狩の帰路に狙撃された家康が担ぎ込まれが、そのまま亡くなったということだ。
犯人は、秀忠の部下で、いつまでも大御所として采配する家康が邪魔となり、秀忠が命じただろうという説と、妻のお江が国松を後継者から外されたことを恨み、刺客を送っただろうという説がある。

さらに大坂夏の陣で、後藤又兵衛に襲撃され死亡したという説もある。
その後1年間は影武者が家康の代役を務めたという。その後子孫が小倉藩主となった小笠原秀政がその人物だったようだ。本人は大阪夏の陣でなくなったことになっている。
大坂の南宗寺に家康の墓があり、死後8年して秀忠、その後、家光などがお参りした記録が残されている。





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