2018年10月29日月曜日

大伴部博麻呂



[大伴部博麻(おおともべのはかま)の顕彰碑]

 ・この大伴部博麻の石碑(自然石)が、次の二ヵ所に建っている。

 ① 「大伴部博麻呂碑」 文久3年(1863)7月15日、室園神社神職小川柳、北川内村庄屋木下甚助ほか建立。(銘文なし)。
 ※石碑前の門柱…右柱に「尊朝愛国」(そんちょうあいこく):左柱に「売身輪忠」(ばいしんゆちゅう)の刻がある。
  北川内公園頂上西部の一隅(福岡県八女市上陽町北川内寄口)

 ② 「大伴部博麻之碑」 明治25年(1892)11月建立。(銘文なし)
  久留米城址・篠山神社境内(福岡県久留米市篠山町)
 ・大伴部博麻の碑が、①八女市上陽町にあるのは、同地が博麻の出身地(上陽咩郡)で、唐から帰還後、同地で亡くなったとの伝承があるからだ。
また、②久留米城址にあるのは、上陽町が、藩政時代には久留米領内であったことと関係があるようだ。
 両碑建立の時代には、大伴部博麻は「郷土の偉人」としてよく知られ尊敬されていた。また、それ故に銘文を刻する必要もなかったのかもしれない。

 ・特に、上記①上陽町の碑前の門柱にある「尊朝愛国・売身輪忠」は、持統天皇が庶民に賜った日本初の勅言で、大伴部博麻は、忠君愛国教育が行われていた戦時中までは、朝廷を尊び、主君のためには自らの身を売ってでも主君に忠義を全うする忠君愛国・憂国の士としてよく知られており、国の鏡にあやかるべく、碑前にて合掌する人たちも多かったという。
 ・大伴部博麻が帰国したときは、白村江の戦いから27年後で、既に時代が変わり、倭国(九州王朝)は滅亡し、先に帰国した筑紫君薩野馬(筑紫君薩夜麻)は死亡(?)、天智天皇(死亡)、天武天皇(死亡)の時代も終わった後の女帝・持統天皇(天智天皇の娘・天武天皇妻)の時世であったが、成り行き上、一兵士でありながらヤマト朝廷(日本国)に奉じた愛国忠君・憂国の士として喧伝・祭りあげられたのだろう。



 

0 件のコメント:

コメントを投稿